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2010年 12月 15日

第6回  何もない舞台の歴史 その2

 水曜ワイルダー約1000字劇場、照明担当の水谷です。

 何もない舞台の王道は、間違いなく日本の能舞台です。シェイクスピアの時代よりもずっと前にその形式が完成していて、さらにその当時の上演形態がそのまま現在まで残っているのは、本当に驚異です。ギリシア悲劇も文字としては残っていますが、上演形態は残っていません。エリザベス朝の公共劇場も1642年に始まる内乱の結果、すべて破壊され、当時どんな風に上演されていたのか、文献から想像して「再現」するしかないのに、能舞台では600年以上も前の上演形態、演技が一子相伝により現在形で伝わってきているわけです。いやぁすごい、日本の演劇。

 ご存知のように、能舞台もエリザベス朝の舞台同様、張り出しており、観客の視線をさえぎる幕もなく、すべてが見えています。装置を使う場合にも、『わが町』のように芝居が始まる前に観客の目の前で運び込まれます。それに能も狂言も、舞台上で何か本物らしさを求めることはまったくありません。所作はすべて極度に様式化されています。台詞劇の狂言でもそう。実際、誰もあんな動き方はしないし、戸を開けるときに「グァラ、グァラ、グァラ」なんて音はしないし、笑うとき「ハーッハーッハッハッ」なんて笑う人はいないし(たまにいるか・・・)。『わが町』に様式化された演技はありませんが、本物らしさを求めてはおらず、「嘘」のかたまりであることが歴然としている点では能舞台と同じです。

国立能楽堂舞台正面

 さらに能と『わが町』では驚くような類似点があります。それは「死者の眼」です。『わが町』の方は舞台で確かめていただくとして、能のことをちょっと。能には現在能と夢幻能があります。現在能は舞台となるのが現在であり、そこから時間が動くことはありませんが、夢幻能のほうは複雑です。

 夢幻能では主人公であるシテが霊的な存在で、そのシテがワキ(副主人公的存在)の夢の中に現れて、生きていた頃のことを回想したり、あるいは再現し、多くはその感情の頂点で舞った後、ふたたび霊界へ去り、ワキが目覚めるというところで終わります。何もない舞台の上で死者の目を持った者が生きている世界に戻り、ふたたび帰るという構造だけでなく、それをわざわざワキの夢の中に入れ込むという複雑に構築された時間軸、死者と観客の橋渡し的な役割を果たすワキの存在など、『わが町』との類似で気になる点がいくつもあります。『わが町』の時間軸に関しては、よーく台詞を聞きながら、実感してみてください。非常に滑らかですが、結構複雑に入り組んでいます。それから、舞台監督という存在。彼はワキのように、過去と現在、未来、あるいは生と死の世界、そして舞台と観客の橋渡し的な役割を果たします。

 で、ワイルダーは能に影響を受けていた、なーんて言う積もりはまったくありません。彼が能の作品をはじめて読むのは、日本の『わが町』の翻訳者(多分、故・松村達雄氏)が能の本を彼に送ったあとのことです。だとすると、いつ、なぜ彼は・・・。ちょっと『わが町』以前のワイルダーの戯曲が気になりますねぇ。次回は彼の一幕劇のことを。

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