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わが町案内版

1月26日 第12回 もう最...

 水曜ワイルダー約1000字劇場、お掃除係の水谷です。あっという間の最終回。ダラダラまとまりないことを書いてきましたが、ちょっとだけ振り返ってみます。

 ワイルダーは、20世紀の劇作家でしたが、その戯曲には前・近代的な要素が多く、その実験的な方法は「近代劇」から想像力を解放させることにおいて、「近代」に反旗を翻していたと言えます。それは表現上の問題にとどまらず、作品世界とも深く関わっていて、彼の戯曲は、能やヨーロッパ中世の宗教劇、シェイクスピアの作品に見られるように、現実世界を超えた何ものか、「大いなるもの」「永遠なるもの」と人間を結びつけることで、あるいは20世紀という非・宗教的な世俗の時代に、人間を宗教的に見ようとすることにより、「人間存在」そのもののあり方を「近代的」なあり方から解放しようとしていた、と言えるのではないでしょうか。

© Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare
Book and Manuscript Library, Yale University

[舞台監督を「演じる」ソーントン・ワイルダー]

 前回は日本の現代演劇のなかのWi的なものについて書きました。そこで触れた現代の日本の劇作家たち、それに第4回に登場した岡田利規さんも含めて(そう言えば、チェルフィッチュの新作のチラシの裏には、またまた超Wi的なことが書かれていますよ)、彼らのお芝居は、少なくともその表現方法においてWi的でした。同時に、人間を捉えようとするその姿勢もとてもWi的だと思います。もちろん彼らは宗教的ではないでしょう。でも、何もない舞台の上に「死」を持ち込んだり、宇宙の時間と人の一生を重ねたり、日常の一コマを反復させたりすることで、岡田さんのチラシの言葉をそのまま使うと、「誰の日常も、その日常よりもずっと大きなスケールを持つ何かと、絶対につながっているのだ」という感覚を想起させようとしているのは間違いないと思います。

 そのスケールが、家族から宇宙まで・・・その程度に差こそあれ、彼らの作品は、このわたしの位置とその存在の仕方を模索し、現在の位置とあり方を再確認しようとしているように思えます。わたしは今どこにいるのか、どんな状況に置かれているのか、見えにくいが故のことでしょう。ワイルダーならびにWi的は、わたしたちの目をこの「人間存在」の根幹へと向けてくれます。

Barrow Street Theatreの『わが町』のポスター。

 じゃ、アメリカではどうでしょう? 昨年9月、1年半以上続いたオフ・ブロードウェイ、バロウ・ストリート・シアターでの『わが町』(デヴィッド・クロマー演出)が幕を閉じました。『わが町』としては最長の上演期間です。また同じオフ・ブロードウェイのキーン・カンパニーは2004年から断続的ですが、ワイルダーの一幕劇や三分間劇の一部を上演し続けています。さらに『ニューズ゙・ウィーク』誌のジェレミー・マッカーターは、「ここ数年はちょっとしたワイルダー・ブーム」(09年10月21日号)と書いています。アメリカの方はWi的ではなく、Wiそのものですが、以前よりも注目度は高いようです。大きな流行ではないにせよ、ワイルダーが注目を浴びているのは日本だけではないんですね。

 広い文脈で考えるなら、袋小路に入り、完全に煮詰まってしまった「近代」という人間中心の時代、時代精神に違和感を抱く人たちにとって、洋の東西を問わず、ワイルダーの作品、あるいはWi的な方法って魅力的なんだ、ということなんじゃないかなぁ、と。つまり、近代の終焉でこそ、ワイルダー、あるいはWi的は光り輝く。アメリカでも、日本でもワイルダーへの関心が以前よりも高くなった背景にはこんな理由があるんじゃないか、と個人的には考えています。だから、もっと読もう、ワイルダー!

 ということで、いつもまとまりのない駄文を読んでくださり、ありがとうございました。さて、書き散らかしたものをお掃除しなくちゃ・・・あ、お休みなさい・・・

(最後の最後まで「1000字」守らなかったね、ミズタニさん…… え? 数字に弱い? ワイルダーと一緒だね♪〈も〉)

1月19日 第11回  日本...

 水曜ワイルダー約1000字劇場、大道具の水谷です。さて、気がついてみると、このブログもそろそろ終盤です。最初の回で、このところ日本で『わが町』が頻繁に上演されたり、ワイルダーへの関心が高まっていることに触れました。今回は日本の現代演劇に見られるワイルダー「的」(略して「ワイ的」=「Wi的」。字数エコ対策。)な要素について書いてみます。つまり、ワイルダーの作品そのものではないけど、そう、このブログの第4回目で岡田利規さんの戯曲の「今から『クーラー』ってのをやります」という台詞と『わが町』の最初の台詞が似ていると書きましたが、そういう「的」なことですね。

 昨年秋に開催されたフェスティバル/トーキョーで上演された前田司郎さん率いる五反田団の『迷子になるわ』は、劇場に入ったとたん、思わず「オッ」と声を出してしまいました。何もない舞台に、何の変哲もない椅子が整然と並べられていたからです。直感的に「これはお墓だ」と思いました。『わが町』の第三幕のお墓の場面、舞台の下手側に単純な椅子が並べられているあの場面(当ブログの2回目の画像参照)と同じだ、と。そして、お芝居が始まると、実際その椅子は芝・増上寺のお墓として(も)使われていました。そして下の写真の中央に見えますが、上から吊るされた赤と白のロープが東京タワーになるんですね。ああ、「Wi的」!と思いました。

前田司郎 作・演出・出演  五反田団 『迷子になるわ』

 でも、その舞台の使い方のみならず、物語は奇妙奇天烈な展開であるのですが、「死」が作品の真ん中にドーンと据えられていて、そこもWi的だなぁと思いました。そう言えば、2008年に岸田戯曲賞を取った『生きてるものはいないのか』では、最終的に登場人物全員が死んでしまい、目に見えないけれど、実質主人公は「死」そのものでしたね。前田さんは小説でも、飄々と「神様」を出してたりして、日常の中に「絶対」を持ち込む手際がすごいWi的だなぁと思います。

 もうひとつ、フェスティバル/トーキョーで、偶然見てしまった「マームとジプシー」の『ハロースクール・バイバイ』という作品。まるで『長いクリスマス・ディナー』のように同じ場面が何度も少しずつ角度を変えて反復されていました。その繰り返されていること自体はありきたりの青春物ですが、反復されることで何か「時間の本質」が見えてくるような気がして、Wi的だぁ、と思いました。

 そして反復と言えば、柴幸男さん。柴さんの『反復かつ連続』は今回の『わが町』のボーイズ&ガールズの一人、内山ちひろさんが一人で高度な技術を見せる舞台でしたが、この作品も誰もが経験するであろう朝の食卓の風景が幾層にも反復され、その果てに日常では感じ取れない、しかし確実に日常の基盤にある「何ものか」を浮き立たせていて究極のWi的です。そして柴さんの岸田戯曲賞受賞作『わが星』はもうそのタイトルからワイルダーとの関連がすぐに嗅ぎ取れるわけですが、宇宙の広がりの中に一家の食卓の風景を置いたり、宇宙の時間と一人の女性(星)の一生を重ねたり、これもワイルダーが『わが町』や『危機一髪』で好んでやっていることで、ほとんどWi。

 Wi的と思える戯曲、劇作家に共通するもっとも重要な共通項は、おそらく、現在の「生」のあり方への違和感と、存在しているにもかかわらず日常では隠されてしまっている「生」の根幹に触れてみたいという極めて真摯な態度だと思います。それを形にするには日常を超えた視座が必要であり、そのために演劇という形式、裸舞台が有効だという認識ではないでしょうか。日本の現代演劇の最前線がかなりWi的というのは、興味深い現象だと思います。(もう開き直った字数で、申し訳ない! 許してください、〈も〉さん!)次回、最終回、まとまらないまとめを。そしてみなさん、是非舞台を見てください! 美しいです! 〈美〉に勝る説得力はありません。

第10回  三分間劇集『癒しの池、天使がさざ波立てるとき』 の序文

 水曜ワイルダー約1000字劇場、プロンプターの水谷です。もう今週が初日! ドキドキしてきますねぇ。

 さて、ワイルダーは演劇をこの世界とそれを超える次元とを結ぶ回路だと考えていたようだ、ということを前回書きました。彼の演劇観は『三戯曲集』の序文(1957)に一番良く出ていますが、もうひとつ、彼の演劇観を知る上で重要なものが、今回、演劇講座でも紹介する「三分間劇」です。これは1925年、彼がオベリン大学の学生だった頃から、大学の文芸誌に投稿していたもので、登場人物が三人、上演時間(必ずしも上演を念頭に置いてないのですが)が三分という枠を自分に課していた時期のものです。ワイルダーはイェール大学進学後も、ローレンスヴィル高校のフランス語教員時代にも、この形式の戯曲を書き続け、1928年に初の戯曲集『癒しの池――天使がさざ波立てるとき』として出版しました。

 この奇妙な戯曲集には16編の三分間劇が収められており、その大半が「死」や「宗教」を扱ったものです。この凝縮された個々の戯曲の内容も読み応えがあるのですが、冒頭に付された序文は注目に価します。

 この序文の中で、ワイルダーは「偉大な宗教的テーマに見合うだけの精神を、それもお堅い教訓に陥ることのない精神を発見したかった」と書いています。彼は宗教を、(外から強制を加える)教訓としてではなく、内発的なものとしてとらえていて、「美」が唯一の説得力を持つものだ、と熱弁をふるってます。そして最後の部分で「宗教の復興は、ほとんどレトリックの問題だ。その作業は困難で、多分不可能だろう。しかしそれで思い起こすのは、神が聖書の中で《鳩のように柔和であるだけでなく、蛇のように賢くあれ》と勧めていることである」としめくくっています。

 ワイルダーは最初の戯曲集で、20世紀という非・宗教的な時代に、あえて宗教的作家を目指すのだと、宣言しているわけです。ワイルダーが28年にこの文章を書いて以来、20世紀がどんな時代だったか、どれほど超・人間中心主義だったか、わたしたちはすでに知っています。

『サン・ルイス・レイの橋』(1927) 初版の表紙

 ワイルダーは明らかにその時代の流れに逆行しています。彼の初の小説『カバラ』や『サン・ルイス・レイの橋』でも、ワイルダーの姿勢は同じです。物語は人間世界のことを描いていますが、すでに見てきたように、こちら側の世界を描いて、向こう側の世界を、読者(観客)に想起させるのが彼の方法です。最終的に彼が内面に創出しようとしていたのは、こちらとむこうを結ぶ関係性でした。『サン・ルイス・レイの橋』の最後の部分は有名で、2001年9月11日のテロで亡くなったイギリス人を追悼する席で、当時のブレア首相もそこを引用しました。「存在するのは生きている者の国と死んでいる者の国だけであり、そこをつなぐ橋が愛なのだ、それこそが唯一生き残るものであり、唯一意味のあるものなのだ」という部分。ここだけ読むと陳腐な感じですが、通して最後にここを読むと、曰く言い難い空気に包まれます。それは『わが町』でも同じです。その空気を創出するのに、実験的な形式は不可欠な要素になっています。

 ジャンルを問わずワイルダーの全作品に見られる形式への執拗な実験は、「蛇のような賢さ」で、非・宗教的な時代に「大いなるもの」を想起させるための方途でもあったのです。

第9回  星や月が語ること

 明けましておめでとうございます。水曜ワイルダー約1000字劇場、衣装担当の水谷です。『わが町』初日まで、10日を切りました。楽しみですねぇ。

 さて、暮にはワイルダーの作品に見られる「死」という要素について書きましたが、新年の最初は、死と同様に彼の作品に頻繁に出てくる月や星のことについて考えたいと思います。『わが町』の一幕の後半には、見事な月が登場します。三幕では、きれいな星が夜空を飾ります(と言っても、両方とも目には見えませんが)。どちらの場面でも町の人々は空を見上げます。

 人間は大昔から星空に目をやり、そこにさまざまな物語を読み込み、地上の人生と関連づけてきました。そんな宇宙観がもっとも良く視覚化されているもののひとつがロバート・フラッド(1574-1637)という英国の魔術師、と言うか、錬金術師の『両宇宙誌』という書物にある大宇宙と小宇宙の対応図です。この図では小宇宙たる人間が宇宙の中心に位置し、惑星が小宇宙とその中心を「一」にして同心円上に広がっており、天体と人間世界が密接な関係にあり、対応していることを示しています。そしてこの宇宙を創造し、かつロープで回転させているのが神であることは言うまでもありません。

ロバート・フラッド、『両宇宙誌』より

 わたしたち人間が現実世界よりもっと大きな次元の何かとつながっているのだという感覚は、人間存在の根源的なところから湧き起こってくる「希望」のようなものに近いかもしれません。上の図は近代的な科学や天文学からすればナンセンスなものかもしれませんが、近代科学だって、この世の森羅万象を解明できているわけでもないから、非・科学的と恥じ入ることもないですよね。

 ワイルダーは星の瞬く夜の時間に哲学者の名前をつけて登場人物にし、哲学書や聖書の言葉を語らせたり、惑星にコーラスをさせたり、かなり非・科学的なことを好んでしています。『わが町』も『危機一髪』も「おやすみなさい」という台詞で終わりますが、夜の時間は人間の理性が休息し、その隙に理性とは別の相の知性が働くのだと考えていたのかもしれません。ワイルダーは20世紀としては時代錯誤とも言えるような、少し超自然的、神秘的な考えを若い頃から持ち続けていたようです。

 『わが町』の原型ともなった「MとNの結婚」の草稿が書かれているノートの表紙の裏には「この世界は超自然的な要素が日常生活の中に導入されなければ、ただの幻想に過ぎない。この世界は天空の巨大なドラマに比べれば、幻想に過ぎない。それ故、人は演じることができる」という興味深いメモを残したりしています。

 一見無価値に見える現実世界の些事、笑いと悲惨が渦巻く眼前の風景の向こうには、その一つ一つに意味を与える大きな体系が広がっているのだと、ワイルダーは確信していたのだと思います。そしてその体系とこの世をつなぐ方法こそ、彼にとっての演劇だったのではないでしょうか。

第7回  クリスマスには「長いクリスマス・ディナー」 +その他の一幕劇のことなど

 水曜ワイルダー約1000字劇場、照明担当の水谷です。

 かつて日本の劇団の養成所で『わが町』と並んで好んで取り上げられていた戯曲にソーントン・ワイルダーの「長いクリスマス・ディナー」という一幕劇がありました。見えないクリスマス・ディナーが置いてある長いテーブルと椅子、舞台の両端におかれた二つの戸口だけで、あとは何も具体的な装置のないお芝居です。アメリカの独立当時から続く古い一族、ベヤード家の90年に渡るクリスマスの晩餐の様子が約30分に圧縮されていますが、その時間は途切れることなく滑らかに、そして残酷なほど早く流れていきます。と言っても、早回しでやるわけじゃありません。場面は常にクリスマスのディナー。そこで交わされる挨拶や会話は、多少の変化があるにしても、毎年ほぼ同じようなものなので、数年前の会話がいつの間にか、現在の会話にスライドするというような独特のスタイルで時間が経過します。

 舞台両端の戸口は「誕生」と「死」を表していて、90年の間にこの一家に何人もの子どもがその戸口から生まれ、また何人もの人物が死んで、「死」の戸口から退場します。自分の出番が終われば、舞台から消えてしまう。『マクベス』の台詞そのままですね

『華麗なる招待』©ままごと/ズキュンズ 撮影=細川浩伸

 ワイルダーの「長いクリスマス・ディナー」を誤意訳
 した柴幸男演出による『華麗なる招待』の舞台。横浜
 STスポットの小さな空間中央にテーブルがセットされ
 観客は一列に壁に沿って座り、90年を体感しました。

 この「長いクリスマス・ディナー」は、1932年に一幕劇集として、他の5編(後に1編が削除されます)と共に出版されますが、そのうち3編がセットを使わない(全)裸舞台で上演されるものでした。その中の1編、『寝台特急ハイアワサ号』は、ニューヨークからシカゴへ向かう寝台列車の乗客だけでなく、その列車が通過する草原や夜の時間までが台詞を言うという奇妙奇天烈な芝居ですが、その中で、乗客の一人ハリエットが心臓発作で死にます。死んだ彼女は天使に伴われ、天へと向かいますが、地上に別れを告げるときの台詞は『わが町』のエミリーの原型だと言えるものです。また、線路の工事をしているときに死んでしまったドイツ人の幽霊もしゃべります。ほんと、変な芝居(だから、めちゃくちゃおもしろい!)。

『寝台特急“君のいるところ号”』©中野成樹+フランケンズ
撮影=鈴木 竜一朗

 ワイルダーの『寝台特急ハイアワサ号』を演出家・
 中野茂樹が大胆に誤意訳した舞台。 「君のいる
 ところ号」というタイトルのつけ方にワイルダー
 への愛着が感じられます。『華麗なる招待』同様、
 2010-11年の「ワイワイワイルダー」の一環とし
 て上演されました。

 もう1編の何もない舞台で演じられる「幸せな旅」は、ある一家が車で嫁ぎ先の娘を訪ねる話ですが、上演の大半は車での移動中のことで、『わが町』同様、なんてことはない情景が描かれてます。しかし最後、その娘の家に着くと、彼女は出産した直後にその赤ん坊を亡くして退院したばかりで、一家はその彼女をお見舞いに来たのだということがわかります。そうそう、車に乗っているときに葬列に出会うという場面もありました。

 『わが町』も含めて、何もない舞台を使う場合に、ワイルダーは好んで「死」を戯曲の中に入れています。能との類似点は確かにいくつかあるのですが、前回書いたように、影響を受けているとは言えません。むしろ、彼の演劇に対する考え方自体が元々、能に近かったと言った方が良いかもしれません。では何もない舞台に、死を持ち込むことで、ワイルダーは何をしようとしていたんでしょうか?

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