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わが町案内版

第6回  何もない舞台の歴史 その2

 水曜ワイルダー約1000字劇場、照明担当の水谷です。

 何もない舞台の王道は、間違いなく日本の能舞台です。シェイクスピアの時代よりもずっと前にその形式が完成していて、さらにその当時の上演形態がそのまま現在まで残っているのは、本当に驚異です。ギリシア悲劇も文字としては残っていますが、上演形態は残っていません。エリザベス朝の公共劇場も1642年に始まる内乱の結果、すべて破壊され、当時どんな風に上演されていたのか、文献から想像して「再現」するしかないのに、能舞台では600年以上も前の上演形態、演技が一子相伝により現在形で伝わってきているわけです。いやぁすごい、日本の演劇。

 ご存知のように、能舞台もエリザベス朝の舞台同様、張り出しており、観客の視線をさえぎる幕もなく、すべてが見えています。装置を使う場合にも、『わが町』のように芝居が始まる前に観客の目の前で運び込まれます。それに能も狂言も、舞台上で何か本物らしさを求めることはまったくありません。所作はすべて極度に様式化されています。台詞劇の狂言でもそう。実際、誰もあんな動き方はしないし、戸を開けるときに「グァラ、グァラ、グァラ」なんて音はしないし、笑うとき「ハーッハーッハッハッ」なんて笑う人はいないし(たまにいるか・・・)。『わが町』に様式化された演技はありませんが、本物らしさを求めてはおらず、「嘘」のかたまりであることが歴然としている点では能舞台と同じです。

国立能楽堂舞台正面

 さらに能と『わが町』では驚くような類似点があります。それは「死者の眼」です。『わが町』の方は舞台で確かめていただくとして、能のことをちょっと。能には現在能と夢幻能があります。現在能は舞台となるのが現在であり、そこから時間が動くことはありませんが、夢幻能のほうは複雑です。

 夢幻能では主人公であるシテが霊的な存在で、そのシテがワキ(副主人公的存在)の夢の中に現れて、生きていた頃のことを回想したり、あるいは再現し、多くはその感情の頂点で舞った後、ふたたび霊界へ去り、ワキが目覚めるというところで終わります。何もない舞台の上で死者の目を持った者が生きている世界に戻り、ふたたび帰るという構造だけでなく、それをわざわざワキの夢の中に入れ込むという複雑に構築された時間軸、死者と観客の橋渡し的な役割を果たすワキの存在など、『わが町』との類似で気になる点がいくつもあります。『わが町』の時間軸に関しては、よーく台詞を聞きながら、実感してみてください。非常に滑らかですが、結構複雑に入り組んでいます。それから、舞台監督という存在。彼はワキのように、過去と現在、未来、あるいは生と死の世界、そして舞台と観客の橋渡し的な役割を果たします。

 で、ワイルダーは能に影響を受けていた、なーんて言う積もりはまったくありません。彼が能の作品をはじめて読むのは、日本の『わが町』の翻訳者(多分、故・松村達雄氏)が能の本を彼に送ったあとのことです。だとすると、いつ、なぜ彼は・・・。ちょっと『わが町』以前のワイルダーの戯曲が気になりますねぇ。次回は彼の一幕劇のことを。

第5回 何もない舞台の歴史 その1

 水曜ワイルダー約1000字劇場、音響担当の水谷です。今週はちょっと時代をさかのぼって、ワイルダーが理想と考えていた演劇空間のひとつ、エリザベス朝の舞台の話を。シェイクスピア(1564-1616)が活躍した時代ですね。

 現在わたしたちは翻訳でシェイクスピアの戯曲のすべてを読むことが出来ます。たとえば『ハムレット』を読んでいるとしましょう。1幕5場で、ハムレットは亡霊からその死にまつわる秘密を打ち明けられ、興奮して「おお、満天の星よ」と呼びかけ、クローディアスへの復讐を誓います。この場面を読んで、みなさんならどんな舞台を想像しますか? 「満天の星」ですから、夜のエルシノア城の城壁近くで、風が吹いていたり・・・。『マクベス』の魔女の場面はどうでしょう? あるいは『ロミオとジュリエット』の有名なバルコニーのシーンは(これも夜ですね)? 

 みなさん、ひょっとしたら、映画のような場面を想像していませんか? でも、シェイクスピアの時代、当然、照明はありません。ちょっと当時の劇場の模型を見てみましょう。エリザベス朝の公共劇場は円筒形の建物で、屋根は舞台の一部とその舞台を囲む客席の上にしかありません。真ん中は青天井で、円の中央に張り出している舞台の上に太陽光が入るようになっており、すべては日の光の下で演じられていました。

©New York Public Library

※シェイクスピアが座付作者であった宮内大臣一座の劇場、グローブ座の模型 

 さらに良く見ると、幕を引いて舞台を隠すようには作られていません。つまり舞台転換をするにしても、隠すことができないし、何かを舞台に運び込む場合も、丸見えです。隠すという発想がそもそもなかったのかも。つまり芝居とは「嘘」であることが大前提だったということですね。さらに当時、女優は存在していませんでした。女性役は声変わりをする前の少年俳優が演じていました・・・ジュリエットも・・・(ということは、男同士が、昼日中、舞台の上で・・・歌舞伎も同じか)。

©New York Public Library

※グローブ座内部の模型

 この時代、「芝居を見る」という言い方は普通ではなく、「芝居を聞く」(hear a play)という言い方が一般的でした。台詞の大半は無韻詩という型の詩で書かれていたんですね。つまり、何もない舞台から語られる台詞(詩)により、観客は何もない舞台の上に夜だろうと、嵐だろうと、海だろうと、妖精だろうと、美女だろうと、太陽光の下で、すべてを「想像力」の助けで見ていたということになります。

 これもシェイクスピアですが、『ヘンリー5世』のプロローグにこんな台詞があります。(すでに1000字を越えてますが、お許しを!)

  われらのたらざるところを、皆様の想像力でもって
  どうか補ってください、一人の役者は千人をあらわし、
  そこに無数の大軍がいるものと思い描いてください。
  われらが馬と言うときは、誇らしげな蹄を大地に印する
  馬どもの姿を目にしているものとお考えください・・・・
  数年間にわたって積みかさねられた出来事を
  砂時計の一時間に変えるのも、皆様の想像力次第です。
                         (小田島雄志 訳)

 昔、演劇はそういうものだったんですね。と言うか、これが演劇の本質なのではないでしょうか。嘘と想像力のコラボ。少なくともワイルダーはそう考えていたと思います。でも、シェイクスピアよりも前に、もっと『わが町』に近いものがあるんですよ、結構身近に・・・それはまた来週にでも。

第4回  今から『わが町』ってのをやります。

 水曜ワイルダー約1000字劇場、芸術監督補佐の水谷です。

 先週の続きで・・・ええっと、『わが町』で「全裸」舞台とか、「舞台監督」という本来なら表舞台には立たない人を舞台に出して、道具をセットするところをわざと見せたり、ワイルダーは一体何を狙っていたんでしょう。その舞台監督の最初の台詞は「このお芝居のタイトルは、Our Town、『わが町』」というものです。若い方なら、「あれ、それってチェルフィッチュの『クーラー』の最初と似てる!」と思うかもしれません。逆に私はチェルフィッチュの『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』を見たとき、「クーラー」が「今から『クーラー』ってのをやります」という台詞で始まったのを見て、「あれ、これって『わが町』の最初と同じだ」と思いました。ここで岡田利規さんがワイルダーに影響されてるとか、そんなことを言うつもりは全然ありません。多分、岡田さんはワイルダーを知らないんじゃないかな(知ってたら、ごめんなさい)。でもこの結びつけようもない二人は、多分、これから舞台でやるのは「〈お芝居〉なんですよ」ということを強く意識して前面に押し出している、という点では共通しているのではないでしょうか。(チェルフィッチュの芝居もほとんど何もない舞台ですね。)

 お芝居って不思議な行為ですよね。舞台の上でどんなに本物らしく見せても、所詮はすべてが「嘘」なんですから。その嘘を隠して「本物らしさ」を追及するのがお芝居なのか、それともその嘘を堂々と白日のもとにさらしてしまうのがお芝居なのか? どちらも「アリ」だと思いますが、少なくともワイルダーは後者の立場を取ることが多いようです。それに、岡田さんに限らず、現代の若い演劇人の多くは、ごく当たり前に「嘘」を堂々とさらけ出していますよね。

1938年、初演の堂々たる嘘(水谷)©New York Public Library

 ワイルダーはあるエッセイの中で、演劇が他の芸術と異なっている点を4つ上げています。

1 演劇は多くの共同作業に基づく芸術である。
2 演劇は群集心理に語りかける。
3 演劇は虚偽に基づき、その本質ゆえにさらなる虚偽の増殖を呼び起こす。
4 演劇のアクション(筋・出来事)は永遠の現在において展開する。

 なかなか魅力的で、的確なまとめ方ですね。裸舞台や舞台監督による道具のセットなど、どうも3番目の特色に関連があるようです。ワイルダーは嘘を演劇の特質と考え、それを隠すのではなく、むしろ積極に見せていたわけです。でもこれはワイルダーの専売特許ではありません。ずーっと昔から行われてきたことです。一番わかりやすいのは・・・やっぱりシェイクスピアですかね。

 あ、もう1000字を越えてる。続きはまた来週・・・どうも1000字だと窮屈ですね。来週から約1250字劇場にしようかな・・・どうです?

第3回  演出家、新たな敵を殴り倒す!

 水曜ワイルダー約1000字劇場、広報担当の水谷です。先週の続きで・・・ええっと、『わが町』で、ワイルダーはお客さんの一部だけでなく、思わぬ人たちを敵に回してしまいました。誰だと思います? 舞台の大道具などを動かす裏方さんたちなんですね。

 『わが町』が装置を使わないことは前回お話しました。お芝居は、何もない舞台の上に舞台監督(これは本当の舞台監督ではなくて、「舞台監督」という役名です)が何気なく出てきて、後にギブズ家やウェッブ家で使うテーブルや椅子をそれぞれの場所にセットすることから始まります。これが問題になりました。

 アメリカには舞台の裏側で様々な舞台機構の操作をしたり、舞台上の道具を動かすいわゆる裏方さん(stagehands)の組合があり、雇用の場がちゃんと確保されるように公演ごとに舞台係を何人使うか、プロデューサーとか劇場側と交渉して契約しますが、『わが町』の場合、その時点で考えちゃいますよね。幕は開いたままだし、照明もほとんど変らず、道具もすべてではありませんが、役者が動かしますから。

 初演のときのプロデューサー、演出家だったジェド・ハリスは、舞台係を雇わないと組合から抗議が来そうだったので、4人雇っていました、うち2人は特にやることがないにもかかわらず。さらに劇場付きの舞台係も4人いて、彼らもやることがない。ところが、初日の開幕数時間前に舞台係の組合から「オタクの今日の芝居、俳優が道具を動かしてるらしいね? あと2人、雇いなさいよ。でないと、劇場の明かり、つけさせませんよ。真っ暗な劇場に客を入れるのは消防法違反ですから」と、脅迫めいた電話がかかってきた。

 ハリスも負けじと一生懸命「この芝居は普通の芝居じゃないんだ」と説明したんですが、開演1時間ほど前に彼が舞台ソデを通ると、新顔の舞台係が、舞台監督役フランク・クレイヴンが運ぶはずの椅子を持って早くもスタンバイしているではありませんか。ハリスが問いただすと、椅子を舞台に運ぶように組合から指示されて来たと言うので、ハリスは噛んで含めるように「いいか、その椅子をおとなしく置いて、地下に行け。そして役者の邪魔にならないように隅っこにすわってろ。仕事をするな! そうすれば賃金は払ってやる」と言ったのですが、この男がなかなか聞き入れず、最後は(噂によると)ハリスがこの男を殴り倒して、すったもんだのあげく、なんとか台本通りに初日の幕を開けたんですね、あ、幕は最初から開いてるんでした。

Jed Harris (Billy Rose Theatre Collection )©New York Public Library

「全裸」舞台といい、道具を動かすところを見せたりと、ワイルダーは一体何を考えていたんでしょう。あら、もう1000字を越えてました。続きは来週。

第2回  『わが町』と全裸・舞台

 水曜ワイルダー約1000字劇場、劇場主の水谷です。先週の続きで……ええっと、ソーントン・ワイルダーのお芝居の多くは舞台上に装置がありません。何の変哲もない椅子やテーブルは使いますが、背景を示す装置はまず使いません。『わが町』も「幕なし。舞台装置も一切ない」が冒頭のト書きです。今でこそ舞台上に何もなくても観客は驚きませんが、1938年の初演当時は違いました。その時の舞台写真を見ると、その「何もなさ」は現在の感覚からしても、過激だと感じるほど徹底してます。有名なのは第三幕のエミリーの葬儀の場面の写真ですが、左側に椅子にすわってじっと前方を見つめる死者たち、右側に黒い大きなこうもり傘を差した参列者の一群が客席に背を向けて立っているそのむこう側に見えるのは、スチーム・パイプが張り巡らされたヘンリー・ミラー劇場の壁そのものです。

Our Town, 1938 (Billy Rose Theatre Division)

©New York Public Library

 アメリカではブロードウェイに乗り込む前に、地方の都市で「試演」を重ね、観客の反応を見て台詞や演技などを調整しますが、『わが町』のボストンでの試演のさなか、幕の途中なのに、マサチューセッツ州知事夫人が突然立ち上がり、舞台に背を向け通路をツカツカと進んで、そのまま劇場から出て行き、何人かがそれに続いたという「事件」が起こりました。中には「わたしは劇場の壁を見に来たわけじゃない」と不平をもらす人もいたようです。またブロードウェイでの初日でも、芝居が始まる前に席についたある観客は、薄明かりの中、幕が上がったままの何もないガラーンとした寒々しい舞台を見て、思わず隣の客に日にちを確認したというエピソードもあります。
 当時のブロードウェイの他の舞台の写真を見ると、確かに具体的な装置が舞台に詰め込まれているのが普通だし、中にはもうそこに住みたいと思えるほど完璧な部屋になっているものもあります。多分それが当時は普通だったし、今でも「お芝居」と言えば、そんなセットを思い浮かべる人もいるでしょう(現在は本当に多様なので、これは年齢などにより、個人差があるかもしれませんが・・・)。そんな基準からすると『わが町』の裸舞台の「裸」は「全裸」であり、珍しいを通り越して異様であり、何もつけてないなんて「失礼な!」と思ったお上品なお客様がいても不思議はありません。
 では、ワイルダーは一部の観客を「敵」に回してまで、なぜこの「裸」にこだわったのでしょうか。実はワイルダーが敵に回したのは一部のお客様だけではありませんでした。一体誰を敵に回してしまったんでしょう。それはまた来週。

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