2013年11月
2013年11月26日
連載コラム第7回
《死の都》を上演した音楽家たち
text by 中村伸子
1920年12月の初演から今日まで、《死の都》を上演した音楽家の中には、現在の私たちもよく知る名手がたくさんいます。今回は、コルンゴルトの生きた時代に《死の都》を歌ったり指揮をしたりした往年の音楽家たちを見ていきましょう。
<歌手>
マリエッタ(マリー)とパウルの二人の主役は舞台に上がり通しで、休む暇がほとんどありません。ワーグナーの長時間のオペラを余裕で歌いこなせるくらい、ともすればそれ以上の声帯、体力、そして音域の持ち主でなければ、歌い切るのは難しいようです。さらにマリエッタ役については、貞淑で上品な亡きマリーと奔放で野卑なマリエッタとを、一人二役で演じ分けるのも大変です。この役を演じた歌手でまず外すことができないのは、マリア・イェリッツァでしょう。彼女はロッテ・レーマンと並ぶ当時のウィーンの人気ソプラノで、コルンゴルトの前作の一幕オペラ《ヴィオランタ》の初演でタイトル・ロールを歌っていました。《死の都》ではウィーン初演で演じ、ウィーンでは「演技の面でも歌の面でも卓越している」などと絶賛されています。コルンゴルトは彼女を「ミッツィ」と呼んで慕いました。
《死の都》は、1921年11月にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)にかかります。これは、イェリッツァが、自身のMETデビューのための演目として《死の都》を選んだためです。METでは、1917年以来、オペラを敵国ドイツの言葉で歌うことが禁止されていたことから、《死の都》は第一次大戦後にMETでドイツ語上演された最初のオペラとなりました。この公演は圧倒的な成功とまではいきませんでしたが、コルンゴルトの若き才能はニューヨークの音楽界にも深く印象付けられたことでしょう。イェリッツァもユダヤ系だったため、後にアメリカに亡命しました。コルンゴルトが1947年に完成させた彼最後の歌曲集《5つの歌》Op. 38は、「マリア・イェリッツァ=シアリ、かけがえのないヴィオランタとマリエッタに友情と尊敬を込めて」献呈されています。
ロッテ・レーマンもマリエッタ役を歌っています。彼女はコルンゴルトの次のオペラ《ヘリアーネの奇跡》(1927)でヘリアーネ役を初演しました。実は、コルンゴルトにとってはイェリッツァの声の方が好みで、ヘリアーネ役を書く際はイェリッツァを想定していたようです。とはいえ、彼とレーマンも後年まで良好な関係を築きます。
パウル役では、ハンブルク初演やウィーン初演で歌ったカール・アーガールト・エストヴィヒ以上に、リヒャルト・タウバーがその「悪魔のような音楽性」で観客を魅了しました。コルンゴルトは、オペラ《カトリーン》(1937)のフランス兵フランソワ役を、彼を念頭に置いて書いています。また、〈ピエロの歌〉が最大の見せ場であるフリッツ役では、リヒャルト・マイヤーが人気を博し、ウィーン初演の際には「小さな歌を一つ歌っただけだが、大いに魅了させた」と評されました。
<指揮者>
《死の都》はヨーロッパ各地の歌劇場で上演されたので、当然のことながら数多くの指揮者がこのオペラのタクトを取りました。現在の私たちにも耳馴染みのあるマエストロの名前を挙げると、オットー・クレンペラー、フランツ・シャルク、ハンス・クナッパーツブッシュ、ツェムリンスキー、ジョージ・セルと、実に錚々たる顔ぶれです。クレンペラーはケルンでの初演を指揮し、マリエッタを歌ったのは彼の妻ヨハンナでした。ところが、クレンペラーは作品を評価せず、カーテン・コールには姿を現さなかったそうです。コルンゴルトと同い年のセルは、1924年のベルリン初演後、ロッテ・レーマンとリヒャルト・タウバーと共に《死の都》のうち数曲を録音しています。コルンゴルト立ち会いのもとで録られたこの音源は、現在でも聴くことのできる貴重な資料の一つです。
2013年11月15日
連載コラム第6回
《死の都》初演当時のウィーンの街と歌劇場
text by 中村伸子
1918年秋。第一次世界大戦が終わり、敗れたオーストリアは、それまでの国土のほとんどを失ってちっぽけな国になってしまいました。《死の都》がケルンとハンブルクでの二都市同時初演を経て、コルンゴルトの本拠地であるウィーンの国立歌劇場で初めて上演されたのは、1921年1月10日のこと。ウィーンの街は、そして歌劇場は、《死の都》初演当時どんな様子だったのでしょうか。
新たな共和国の首都となったウィーンは、敗戦のために荒廃し、市民は貨幣価値の下落や失業、食糧難などの深刻な問題に苦しめられました。しかしながら、このように経済的に困難な状況の中にあっても、オペラや演奏会を始めとする音楽文化がいかに大切だったかという証言はたくさん残されています。1920年にはウィーンで新たに音楽祭が開かれるのですが、開催が決まった際の市参事会の議事録には、「この上無く困窮しているウィーンはいま、音楽を頼りとするべきである。この街の誇れる伝統は音楽にある」と記されています。また、作家のシュテファン・ツヴァイクは、第一次大戦後の歌劇場の情景を、後に克明に思い返しています。
譜面台の前にはフィルハーモニーの楽団員たちが座っていた。着古しの礼服を着た彼らも、痩せ衰え、あらゆる欠乏に疲れ果てて、灰色の影のようであった。われわれ自身も亡霊のように、幽霊じみてしまった建物のうちに坐っていた。ところがやがて指揮者が指揮棒を挙げ、幕が開くと、すべてはこれまでになかったほどすばらしかった。どの歌手も、どの楽士も、彼らの全力を尽くした。おそらくこの愛する建物でこれが最後の演奏になるだろう、とすべての人々が感じていたからであった。(『昨日の世界 2』、原田義人訳、みすず書房)
《死の都》が初演されたころ、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めていたのは、フランツ・シャルクとリヒャルト・シュトラウスの二人でした。1869年に劇場が建てられて以来、二大音楽監督体制というのは初めてのことで、二人の仕事のバランスには曖昧で不平等な部分が多かったようです。シュトラウスは、上演する演目や配役について大きな権限を持っていましたが、ウィーンにいないことが多かったので、問題に対処したり責任を取ったりしなければならないのはシャルクの方でした。この時期のオペラ上演は、再演を中心に見事なものが多かったとされていますが、水面下には微妙な問題が潜んでいたのです。
シャルクとシュトラウスが音楽監督を務めていた1919年から1924年の間にウィーン国立歌劇場で上演された新作には、《死の都》のほかに、シュトラウスの《影の無い女》と《町人貴族》、シュレーカーの《烙印を押された人々》と《宝探し》、ツェムリンスキーの《小人》などがあります。そのほとんどは高い評価を得られず、わずか数回しか再演されなかった一方で、《死の都》は絶大な人気を得て、1930年までに50回もの再演が重ねられました。ウィーン初演では幕ごとに大きな喝采が送られたので、コルンゴルトはそのたびに舞台に上がったようです。当時の音楽雑誌『アンブルッフ』に掲載された批評は、こう締めくくられています。「(初演の)結果はきわめて輝かしいものであった。『幻影』などでは無い!死の都は永遠に残るのだ。」(J.S.ホフマン)
2013年11月5日
連載コラム第5回 《死の都》の聴きどころ
text by 中村伸子
《死の都》の数ある音楽の魅力のなかでも、ここでは、とくに耳を澄ましていただきたい2つの側面についてご紹介します。
(1)2つのアリア
このオペラを魅力的なものにしているのは、何より2つの珠玉のアリアです。これらはどちらも、最近頻繁に単独で歌われたり、CDに収録されたりするようになりました。
一つ目は、第1幕第5場の〈マリエッタのリュートの歌〉【譜例1】です。
譜例1 〈マリエッタのリュートの歌〉 第1幕 第5場 練習番号58
この歌では、マリエッタが1節目を歌った後、短い台詞を挟んで、2節目をパウルとデュエットします。歌詞の内容は、死んでゆく恋人たちの愛が蘇ることを願うもので、オペラのテーマの一つ「復活」を暗示しているのです。この旋律は、オペラの終わりに歌詞を変えてパウル一人によってもう一度歌われ、劇全体を包み込むように配置されています。これはちょうど、本サイトのトップページで流れている音楽です。
もう一つは、第2幕第3場の〈ピエロの踊りの歌〉【譜例2】です。
譜例2 〈ピエロの踊りの歌〉 第2幕 第3場 練習番号169
踊り子マリエッタの一座に所属しているピエロ役の役者フリッツが、故郷ドイツのラインラントを偲んで歌う、ゆったりとしたワルツです。現在、NHK-FMの番組〈オペラ・ファンタスティカ〉のエンディングで、室内楽アレンジのものが流れています。2つのアリアは初演から大変な人気を得て、歌う歌手はいつも大喝采を受けたようです。
(2)ライトモティーフ
さらに、ライトモティーフは、このオペラの音楽を味わう最大の鍵です。ライトモティーフについて、残念ながらコルンゴルト本人は詳しい言及を残してはいません。しかしながら、コルンゴルトがまだ25歳のときに出版された、R.S.ホフマンによるコルンゴルト最初の評伝では、《死の都》のライトモティーフが譜例を用いながら分析されています。
ホフマンによれば、このオペラの中には、「復活の和音」「はかなさのモティーフ」「マリー」「髪の毛のモティーフ」「マリエッタのモティーフ」などたくさんのライトモティーフやリズム定型があり、物語の進行を理解するための大きな助けとなっています。
いくつか例を見てみましょう。第1幕の冒頭で奏でられる増三和音を含む三つの和音は「復活の和音」【譜例3】と呼ばれ、死者の復活を表すとされています。これは、マリエッタの一座がマイヤーベーアのオペラ《悪魔ロベール》の復活の場面を稽古する第2幕第3場や、第3幕第2場の聖なる行列の場面で、繰り返し登場します。
【譜例3 復活の和音 第1幕 冒頭】
踊り子「マリエッタのモティーフ」【譜例4】はワルツの快活なリズムと結びつき、「生」を象徴しています。このモティーフは、パウルの語りの中にマリエッタの話題が出る時にまず聴かれるのですが、マリエッタが初めて登場する場面へと引き継がれます。さらに第3幕の前奏曲全体は、このモティーフを展開させた形になっています。これは、第2幕の終わりにパウルがマリエッタの魅力に屈したことで、マリエッタがマリーの亡霊にひとまずは打ち勝ったことを示しているのです。
【譜例4 マリエッタのモティーフ 第1幕 第2場 練習番号16】
《死の都》の音楽は、同時代のほかのオペラと比べても、とりわけ歌いやすく甘美な旋律に満ちています。そのためある批評家は、シェーンベルクのような実験的な劇場作品とは一線を画しており、リヒャルト・シュトラウスの流れを汲む「ジングオーパー」(歌オペラ)だ、と讃えました。
2013年11月1日
フランク/フリッツ役変更のお知らせ
当初、フランク/フリッツ役で出演を予定していたトーマス・ヨハネス・マイヤーは、本人の芸術上の理由により出演できなくなりました。代わりまして、アントン・ケレミチェフが出演いたします。なお、この変更に伴う払い戻しはありません。何卒ご了承くださいませ。
<新キャスト・プロフィール>
アントン・ケレミチェフ (フランク/フリッツ)
Anton Keremidtchiev
ブルガリア出身。ローマでボリス・クリストフに声楽を学ぶ。トリエステのヴェルディ歌劇場でオペラ・デビュー後、パレルモのマッシモ歌劇場、ペーザロのロッシーニ・フェスティバルなどに出演。1998年~2003年ダルムシュッタット州立歌劇場との専属契約を経て、03年よりフリーの歌手として活躍。これまでに、ベルリン・コーミッシェ・オーパー『椿姫』ジェルモン、『蝶々夫人』シャープレス、『フィデリオ』ドン・ピツァロ、フィンランド国立歌劇場『カルメン』エスカミーリョ、ハンブルク州立歌劇場『椿姫』ジェルモン、フランクフルト・オペラ『トリスタンとイゾルデ』クルヴェナール及び『ローエングリン』テルラムント、ベルリン・ドイツ・オペラ『マクベス』タイトルロールなどに出演している。2013年は、リトアニア国立歌劇場、スロヴァキア国立劇場、ブダペスト・ワーグナー・フェスティバル、オーストリアのグラーツ歌劇場、スイスのバーゼル歌劇場で『ローエングリン』テルラムントを成功裡に収めており、2014年もグラーツ歌劇場及びバーゼル歌劇場に同役で出演予定。新国立劇場初登場。