2013年11月15日
連載コラム第6回
《死の都》初演当時のウィーンの街と歌劇場
text by 中村伸子
1918年秋。第一次世界大戦が終わり、敗れたオーストリアは、それまでの国土のほとんどを失ってちっぽけな国になってしまいました。《死の都》がケルンとハンブルクでの二都市同時初演を経て、コルンゴルトの本拠地であるウィーンの国立歌劇場で初めて上演されたのは、1921年1月10日のこと。ウィーンの街は、そして歌劇場は、《死の都》初演当時どんな様子だったのでしょうか。
新たな共和国の首都となったウィーンは、敗戦のために荒廃し、市民は貨幣価値の下落や失業、食糧難などの深刻な問題に苦しめられました。しかしながら、このように経済的に困難な状況の中にあっても、オペラや演奏会を始めとする音楽文化がいかに大切だったかという証言はたくさん残されています。1920年にはウィーンで新たに音楽祭が開かれるのですが、開催が決まった際の市参事会の議事録には、「この上無く困窮しているウィーンはいま、音楽を頼りとするべきである。この街の誇れる伝統は音楽にある」と記されています。また、作家のシュテファン・ツヴァイクは、第一次大戦後の歌劇場の情景を、後に克明に思い返しています。
譜面台の前にはフィルハーモニーの楽団員たちが座っていた。着古しの礼服を着た彼らも、痩せ衰え、あらゆる欠乏に疲れ果てて、灰色の影のようであった。われわれ自身も亡霊のように、幽霊じみてしまった建物のうちに坐っていた。ところがやがて指揮者が指揮棒を挙げ、幕が開くと、すべてはこれまでになかったほどすばらしかった。どの歌手も、どの楽士も、彼らの全力を尽くした。おそらくこの愛する建物でこれが最後の演奏になるだろう、とすべての人々が感じていたからであった。(『昨日の世界 2』、原田義人訳、みすず書房)
《死の都》が初演されたころ、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めていたのは、フランツ・シャルクとリヒャルト・シュトラウスの二人でした。1869年に劇場が建てられて以来、二大音楽監督体制というのは初めてのことで、二人の仕事のバランスには曖昧で不平等な部分が多かったようです。シュトラウスは、上演する演目や配役について大きな権限を持っていましたが、ウィーンにいないことが多かったので、問題に対処したり責任を取ったりしなければならないのはシャルクの方でした。この時期のオペラ上演は、再演を中心に見事なものが多かったとされていますが、水面下には微妙な問題が潜んでいたのです。
シャルクとシュトラウスが音楽監督を務めていた1919年から1924年の間にウィーン国立歌劇場で上演された新作には、《死の都》のほかに、シュトラウスの《影の無い女》と《町人貴族》、シュレーカーの《烙印を押された人々》と《宝探し》、ツェムリンスキーの《小人》などがあります。そのほとんどは高い評価を得られず、わずか数回しか再演されなかった一方で、《死の都》は絶大な人気を得て、1930年までに50回もの再演が重ねられました。ウィーン初演では幕ごとに大きな喝采が送られたので、コルンゴルトはそのたびに舞台に上がったようです。当時の音楽雑誌『アンブルッフ』に掲載された批評は、こう締めくくられています。「(初演の)結果はきわめて輝かしいものであった。『幻影』などでは無い!死の都は永遠に残るのだ。」(J.S.ホフマン)