2013年12月
2013年12月27日
第10回(最終回)
「忘れられた」コルンゴルトと再評価
text by 中村伸子
終戦の翌年。49歳になったコルンゴルトは、芸術音楽への完全な復帰を決意してワーナー・ブラザーズとの契約の更新を断り、ウィーンへ帰る準備を始めます。帰還に合わせて新しく《弦楽合奏のための交響的セレナーデ》Op.39(1948)を作曲し、これは、かのフルトヴェングラーの指揮でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により初演されることが決まります。他にも《カトリーン》のウィーン初演や《死の都》の再演が計画されました。
そして1949年、コルンゴルトはおよそ10年ぶりに故郷ウィーンの土を踏みます。ところが、彼の目に映ったのは、変わり果てた街の姿でした。彼の作品を上演し続けたウィーン国立歌劇場は瓦礫と化し、街全体も爆撃を受け、まさに「死の都」でした。さらに、フルトヴェングラーによる初演は、こともあろうに練習不足のため失敗に終わり、《カトリーン》の上演では客席の半分も埋まらず、《死の都》に至っては上演そのものがキャンセル、というありさまでした。彼の「時代遅れ」な作風と、「映画音楽作曲家」という肩書きが、ウィーンでは評価されなくなっていたのです。コルンゴルトは妻ルーツィに向かってつぶやきました。「ここにはコルンゴルトの劇場はない。私は忘れられたんだよ。」
彼は失意のうちにハリウッドに戻り、1957年11月29日、脳溢血のため亡くなりました。1962年に後を追った妻と共に、いまはハリウッド共同墓地に埋葬されています。
その後、コルンゴルトの作品は、細々とは演奏されましたが、かつてのような熱狂的な支持を受けることはありませんでした。しかし、コルンゴルトを再評価しようという動きは、1970年代からアメリカの映画音楽界を発端としてヨーロッパに波及し、次第に高まっていきます。《死の都》に関して挙げるだけでも、ニューヨーク・シティ・オペラによる復活上演(1975)、ルネ・コロらの歌とエーリヒ・ラインスドルフ指揮による録音(1975)、そしてゲッツ・フリードリヒの演出によるベルリン・ドイツ・オペラでの上演と映像収録(1983)、と続きます。ジャン・レイサム=ケーニック指揮によるストラスブールでの上演(2001、フランス初演)は、つい最近まで、日本語字幕付きで観ることのできる唯一のDVDでした。ここでパウル役を歌っているのが、他でもない、今回新国立劇場に登場するトルステン・ケールです。
マリエッタ(マリー)役のアンゲラ・デノケとのペアは、ザルツブルク音楽祭でのウィリー・デッカーの演出による上演(2004)の際にも演じています。このプロダクションはさらに、ウィーン(2004、2008、2009)、アムステルダム(2005、オランダ初演)、バルセロナ(2006)、サンフランシスコ(2008)、ロンドン(2009、イギリス舞台初演)、パリ(2009)、マドリッド(2010)、ビルバオ(2012)と、世界各地を回りました。2013年には、それぞれまったく異なる演出で、インスブルック、ホーフ、リューベック、そしてヘルシンキ(新国立劇場共同制作)で上演されており、いまや《死の都》は、一年のうちにはどこかで必ず出会えるスタンダードな演目となりつつあります。
日本でのコルンゴルト受容は、実は戦前からありました。明治~昭和期のレコード批評家である野村あらえびす(野村胡堂)の著作『名曲決定版』(1939)には、ハイフェッツの演奏によるコルンゴルトの《空騒ぎ》Op.11について記述されています。戦後しばらくは取り上げられにくい時期が続きましたが、1996年の井上道義指揮による演奏会形式での《死の都》日本初演など、少しずつプログラムに組み込まれるようになり、今に至ります。
そうした中での、満を持して、とも言うべき新国立劇場への《死の都》初登場。大きな期待を寄せずにはいられません。
2013年12月20日
舞台スタッフが一足早くご紹介!「死の都」舞台美術のここが凄い!
3月に上演するオペラ「死の都」のプロダクションは、フィンランド国立歌劇場で初演されたものです。去る11月フィンランド国立歌劇場で「死の都」の再演が行われ、新国立劇場の舞台スタッフが打ち合わせのためヘルシンキに行ってきました。そのスタッフが見てきた「死の都」舞台美術の注目ポイントをご紹介します!
1.ブルージュの街
「死の都」はベルギーの古都ブルージュのこと。舞台セットの奥の背景にもブルージュの街が登場します。これは街の写真の上に、立体型の建物をのせた作りとなっており、2Dと3Dがミックスされた非常に凝ったもの。オペラのもうひとつの主役であるブルージュの街が、照明効果もあわさって非常に効果的に描かれます。
主人公パウルの部屋には、亡き妻マリーの思い出の品々――額縁に入った写真や遺品の入ったミニチュアハウスが飾られています。その数なんと数百個!飾る位置はすべて決められており、番号で照らし合わせて並べられています。そのうちいくつかは照明が灯され、実に美しくノスタルジックな雰囲気を作り出します。
3.マリエッタのドレスの色
パウルが魅了される踊り子マリエッタが着ているドレスは、目に鮮やかな赤色。この赤ですが、舞台上で鮮やかに際立つシルクの赤色なのだそうです。官能、エロス、生の象徴であるマリエッタ。こだわりの赤で、それを見事に現しているといえるでしょう。
4.細部にまでこだわった衣裳
「死の都」では合唱は3幕前半にしか登場しないのですが、その行進の人々の衣裳にシルク・シャンタンという高級な生地が使われています。しかも同じように見える衣裳にも2種デザインがあるなど、細部にまで衣裳デザイナーのこだわりが見て取れます。
この「死の都」の美術、衣裳を手掛けたのは、世界的に売れっ子の英国の女性デザイナーたち。美術デザイナーのエス・デヴリンは、英国のオペラ、演劇、ウエストエンドなどで活躍するほか、レディー・ガガの2009/2010年コンサートツアーや、2012?年ロンドン・オリンピックの閉会式も手掛けています。衣裳デザイナーのカトリーナ・リンゼイも、英国、アメリカで活躍するトップクラスのデザイナーで、2008年にはトニー賞も受賞しています。
「死の都」は舞台美術にも注目です!
2013年12月12日
連載コラム第9回
ハリウッド映画音楽の祖コルンゴルト
text by 中村伸子
日本では最も有名なコルンゴルト作品のひとつであるヴァイオリン協奏曲Op.35(ハイフェッツにより初演)は、その壮大な旋律や楽器法から、「まるで映画音楽みたいな曲!」と言われることがままあります。しかしながら、実はこれは映画音楽みたいなのではなく、映画音楽そのものなのです。
というのも、終戦直後に完成されたこの協奏曲は、『放浪の王子』(1937)を始めとする4つのハリウッド映画のために彼自身が作った主題を、ふんだんに引用して書かれているからです。コルンゴルトはこれに限らず、弦楽四重奏曲第3番Op.34(1945)やチェロ協奏曲Op.37(1946)などのように、映画音楽のために書いた音楽を新しい自作品の中で積極的に「再利用」しました。現代のようにDVDやサウンド・トラックのCDが売られることのなかった時代ですから、映画音楽は公開を終えるとほとんど聴くことができなくなります。それを防ぐために、コルンゴルトは映画音楽をクラシック作品の中に取り込み、恒久的に残そうとしたのです。
では、コルンゴルトはどのような経緯で映画音楽に関わるようになったのでしょうか。鍵となる人物は、ドイツの演出家マックス・ラインハルトです。彼とコルンゴルトは、1920年代前半から、ウィーンやベルリンでシュトラウス一家のオペレッタなどを上演するときに、ラインハルトは演出、コルンゴルトは編曲、という形で、しばしば一緒に仕事をしていました。しかし、ラインハルトもユダヤ人で亡命を余儀なくされ、コルンゴルトよりも一足先にアメリカに渡って活動を続けます。そこで、ラインハルトがシェイクスピアの『夏の夜の夢』の映画化をするときに、メンデルスゾーンの音楽の編曲者と収録の指揮者として、コルンゴルトを呼び寄せた、というわけです。
コルンゴルトはオペラ作曲家としての経験と才能を惜しみなく発揮しました。全編143分中116分に音楽が流れており、《夏の夜の夢》だけではなく交響曲第3番《スコットランド》や第4番《イタリア》など、いくつものメンデルスゾーン作品のテーマが取り入れられました。彼はさらに撮影現場に立ち入り、自らの指揮に合わせて俳優に台詞を喋らせ、後日その台詞に合わせて音楽を収録する、という他に例のない方法を取りました。数々の工夫の成果が実り、映画の音楽と映像は見事なほどにシンクロしています。もともとの6週間という予定をゆうに超えた半年を費やして制作されたこの映画は、1935年にアメリカで公開され、大ヒットとなりました。
その後、1935年の『海賊ブラッド』以降、コルンゴルトはワーナー・ブラザーズのもとで、約20本の映画音楽を担当しました。『風雲児アドヴァース』(1936)と『ロビン・フッドの冒険』(1938)ではアカデミー音楽賞を受賞しています。彼がもたらした書法は、ジョン・ウィリアムズを始めとする後のハリウッドの映画音楽にいまも生きています。ごく一例にすぎませんが、映画『嵐の青春』(1941)のテーマの冒頭は、『スター・ウォーズ』(1977~)のテーマにそっくりです。
こうして、コルンゴルトが映画音楽に追随したのではなく、映画音楽がコルンゴルトに追随したのだということをお分かりいただけるでしょう。現在でも、彼の携わった映画はいくつも観ることができます。もととなった映画をご覧になってからヴァイオリン協奏曲をお聴きいただくと、より一層興味深く感じられることと思います。
2013年12月4日
連載コラム第8回
ナチスを逃れた音楽家たち
text by 中村伸子
《死の都》の作曲から、時は10年ほど進みます。コルンゴルトはルーツィ・フォン・ゾンネンタールと結婚して2人の息子に恵まれました。家庭を持った彼は、さらに仕事に励みます。しかしながら、彼を待ち受けていたのは大きな荒波でした。ユダヤ人迫害の問題です。
反ユダヤ主義は、それまで存在しなかったわけでは決してないのですが、1930年代から急激に進み、コルンゴルトもその影響を強く受けるようになります。当時彼は、ちょうど5作目のオペラを構想しているところでした。ユダヤ系の作家H.E.ヤーコプの小説を原作とした、ドイツ人の娘とフランス兵士の恋物語です。コルンゴルトは、それまで彼のほとんどの楽譜を世に出してきたショット社にこの出版を持ちかけたのですが、こともあろうに拒否されてしまいました。反ユダヤ感情が高まり、ユダヤ系の芸術家の活動が次々と妨げられている状況で、ユダヤ系作家の原作によるユダヤ系作曲家のオペラなど、出版できるはずがない、というのです。このオペラは《カトリーン》Op. 28というタイトルで1937年に完成されますが、ウィーンの舞台で日の目を見るのは、終戦後の1950年まで持ち越されてしまいました。
1933年1月ヒトラー率いるナチス・ドイツが政権をとり、3月には全権委任法が通過すると、コルンゴルト作品の大事な上演の場であったドイツは「第三帝国」となりました。さらに4月に「職業官吏再建法」が成立すると、ドイツで活動するユダヤ人は次々に職を追われ、音楽家も、歌劇場や音楽大学などの公的な役職を奪われました。さらにはユダヤ人作曲家による作品の演奏までも禁止され、コルンゴルトやマーラーどころではなくメンデルスゾーンの音楽まで、ドイツでは聴くことができなくなります。その勢力は留まることを知らず、1938年にナチスがオーストリアを併合すると、オーストリア国内もドイツと同じ状況になります。1934年以来すでにハリウッドとウィーンを数度行き来していたコルンゴルトは、併合以降ハリウッドに留まり、映画音楽作曲家として腰を据えることになるのです。
コルンゴルトと同じようにオーストリアやドイツからアメリカへ亡命したユダヤ系の音楽家は、実に数多くいました。アメリカ西海岸へ渡っただけでも、オットー・クレンペラー、ブルーノ・ワルター、マーラーの妻アルマ、シェーンベルク、ハンス・アイスラー、第一次大戦で右手を失ったピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタインなどです。コルンゴルトとシェーンベルクは、その主義と作風の違いや、コルンゴルトの父ユリウスがシェーンベルクの音楽を嫌っていたことなどから、ウィーン時代はほとんど交流がありませんでしたが、ロサンゼルスでは互いの家を訪ね合う仲になります。このころのシェーンベルクの妻ゲルトルーデは、コルンゴルトの幼なじみでもありました。(余談ですが、シェーンベルクの最初の妻は、コルンゴルトの師ツェムリンスキーの妹でした。)コルンゴルトは、シェーンベルクの《6つのピアノ小品》Op.19(1911)を讃えて、本人を前に暗譜で弾いて聴かせたこともあったようです。
ウィーンにいる間は宗教曲をほとんど書かなかったコルンゴルトですが、ロサンゼルスではユダヤ教のための音楽を2曲だけ残しました。《過越の詩篇》Op.30と《祈り》Op.32です。どちらも、ロサンゼルスのユダヤ教のラビであったJ.ゾンダーリングに委嘱されました。彼の委嘱で書かれた作品は他に、シェーンベルクの《コル・ニドレー》Op.39などがあります。