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OUR TOWNS~思い出のわが町~

中村元紀さんのわが町

続いては、ハウイー・ニューサム役の中村元紀さんです。

僕にとって“わが町”と呼べる場所はやはり生まれ育った「日野」です。

東京の西側にある、二つの川に挟まれた、ごく普通の街ですが、少年時代の僕にとっては世界の全てでした。
友達と毎日のように、川へ魚やカエル、ザリガニなんかを捕りに行っては、ビショ濡れになって帰宅して、母を困らせました。
父の手伝いで、家業の雑貨店の店番をするのは、自分が一人前に扱われてるような気がして、とても誇らしい気分でした。
田んぼに囲まれた通学路、土手のグラウンド、神社の境内、団地の原っぱ、楽しかったエピソードは沢山あります。
子供の頃はあんなにも広かった世界ですが、大人になった今は、なんだか少し狭くなったように感じます。
でもこの街の記憶は、僕の心の原風景であり、大切な自慢の“わが町”です。

日野の浅川の風景

内山ちひろさんのわが町

続いてはBoys&Girlsの内山ちひろさん。

私の『わが町』には、コンビニがありません。銀行もレストランも映画館もありません。 
電車は1時間に1本あるかないか。冬は‐10度以下になることもしばしば。

長野県木祖村。

私の生まれ育った田舎です。
便利な物は少ないですが、その代わり、たくさんの自然があって、家族がいて、友達がいます。
小さい頃から知っている人がたくさんいて、今でも声をかけてくれます。
この小さな村が私の大好きな『わが町』です。

佐藤正宏さんのわが町

続いてはウェッブ家のお父さん。佐藤正宏さんです。

平成元年6月、中国・北京の夕方。

舗装されて間もないような、車の通りも少ないなだらかな坂道の大きな道路を ―自転車に跨って坂を進んで行く男、自転車にはリヤカーが繋がって、リヤカーでは座っておさな子に乳をやる女。家族なのでしょう。

 父親は、リヤカーと妻と子の重さと上り阪の分も入れて、右・左、身体をかしげながらペダルを漕ぎ続ける。母親と子供は、静かに乳を飲ませ、飲み続ける。長くて大きな坂道を、家族は上り続けていました。止まったようなオレンジ色の夕方の中、自転車とリヤカーだけが動いているようでした。

 親子は『わが町』の坂道の向こうにある『わが家』へ、帰るところだったのでしょう。

 ―天安門事件の10数日前の北京、での事でした。

吉久智恵子さんのわが町

続いてもさいたまゴールドシアターの吉久智恵子さんの登場です。

私の「わが町」15まで育ったあの村だろうか?

山もあり海もあり四季折々果物の花が咲いていたあの村のことをいうのだろうか、4人の兄弟の一番下で育ったあの村は「わが街」だろうか、兄が63才の時痴呆症にかかり病院に入院して初めて実家に帰った。

50年近く離れていた町は案の定駅も町並みも全く昔の面影はなく私は一旅人になってしまいたかった、でも兄に会いたくて会いたくて町を走った、兄が病気になってしまったのは私のせいか?

私があのまま何事もなく15才を通過してれば兄はあんな病気にならなかったのでは、もしなったとしても発病はもっと遅かったのではないか、兄がこんな風になってはじめて兄の手が握れた。

なにもかも兄のせいにして終わらせてしまい私も先生も学校も普通の生活にもどってしまった。あそこは「わが街」ではない。

竹居正武さんのわが町

続いてはさいたまゴールドシアターの竹居正武さん

僕の疎開先は山梨県塩山。

昭和18年、生まれてすぐに僕は塩山山(えんざんやま)の麓に ある母の実家に疎開した。小学校に入学するまで塩山で過ごしたので、小さい頃の想い出がいっぱい詰まった大切な町だ。

もの不足の厳しい状況の中で、自分の子供達と同じよう に僕達兄弟に接してくれた伯父さん伯母さんは、とっても優しい人だった。従姉妹と五右衛門風呂ではしゃいだのも懐かしい。

塩山を通過する時、僕は、甲府盆地の端にぽっかり と小さな島のように浮かぶ緑豊かな塩山山を、ありがとうと感謝しながら、車窓から飽かずに見詰め続ける。

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