2013年10月1日
連載コラム第1回 「神童コルンゴルト」
本ページでは、コルンゴルトの研究者・中村伸子さんによるコルンゴルトと「死の都」に関する連載コラムを定期的に掲載いたします。第1回は「神童コルンゴルト」。モーツァルトも顔負けの神童ぶりだったようです。
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text by 中村伸子(音楽学)
コルンゴルトについて語るには、彼が類まれな神童だった、ということを抜かしてはならないでしょう。父ユリウスが後に著した回想によれば、コルンゴルトは3歳のときにスプーンで正確なリズムを刻み、5歳のときにはユリウスの弾く《ドン・ジョヴァンニ》の旋律を覚えて、和音を付けて弾いたのだそうです。6歳になると、親戚からピアノと簡単な音楽理論を教わり、8歳からは、ウィーン音楽院の名教授ロベルト・フックスに対位法を学び始めます。マーラーの前で作ったばかりのカンタータを弾いて聴かせたところ、彼が興奮して「天才だ!」と叫んだ、というエピソードが残されているのはまだコルンゴルト9歳のこと。その後、マーラーの勧めで、コルンゴルトはツェムリンスキーに師事することになります。ツェムリンスキーは、シェーンベルクの友人であり師でもあり、当時のウィーンを代表するオペラ作曲家でした。彼によるレッスンはたった数年で、コルンゴルトはそれ以降作曲のレッスンをほとんど受けませんでした。彼の作品は各地の主要なコンサートホールや歌劇場で演奏されたり、アルトゥール・ニキシュをはじめとするたくさんの著名な演奏家によって初演が行われたりするようになり、「神童」コルンゴルトの名はウィーンを中心に、ヨーロッパ中へ広まって行きます。11歳のときに書かれたバレエ=パントマイム《雪だるま》の管弦楽版(ツェムリンスキー編曲)が初演された舞台は、かのウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)でした。
この写真は、ちょうどその頃にコルンゴルト一家が住んでいた、ウィーンのテオバルトガッセ7番地です。
このアパートのコルンゴルトが住む上の階には、指揮者のブルーノ・ワルターが住んでいた時期がありました。ワルターは、「コルンゴルトのピアノの音がものすごいので、仕事に集中できない」と書き記しています。ワルターは、コルンゴルトの2つの一幕オペラ《ポリュクラテスの指環》op. 7と《ヴィオランタ》op. 8の二本立ての初演(1916)を指揮しました。
この早熟の少年は、一体どんな家庭で育ったのでしょうか。父ユリウスは、ウィーンで法律を学んでいた学生時代に音楽院にも通い、ブルックナーをはじめとする大音楽家たちの薫陶を受けていました。その後、地元ブリュン(現チェコのブルノ)に戻って弁護士をしていましたが、ウィーンに移り住んでからは音楽批評家として活動しました。彼の音楽思想は保守的で、その筆致は著しく辛辣で、影響力は並々ならないものでした。ユリウスは、過去の偉大な作曲家を尊敬するあまりに、息子たちのミドルネームにまでその名前を入れてしまいます。長男には、シューマンのファーストネームを借りてハンス・ロベルト。次男には、言うまでもなくモーツァルトのそれを借りてエーリヒ・ヴォルフガング。さらに驚くべきことに、ユリウス自身のミドルネームが、モーツァルトの父親のファーストネームと同じレオポルト、なのです。まさに、20世紀のモーツァルト親子、と言っても良いでしょう。この「ステージ・パパ」の力が良くも悪くも後押しとなって、コルンゴルト少年は次々に華々しい活躍を遂げて行きます。