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わが町案内版

第12回 もう最終回。じゃ、おやすみなさい。

 水曜ワイルダー約1000字劇場、お掃除係の水谷です。あっという間の最終回。ダラダラまとまりないことを書いてきましたが、ちょっとだけ振り返ってみます。

 ワイルダーは、20世紀の劇作家でしたが、その戯曲には前・近代的な要素が多く、その実験的な方法は「近代劇」から想像力を解放させることにおいて、「近代」に反旗を翻していたと言えます。それは表現上の問題にとどまらず、作品世界とも深く関わっていて、彼の戯曲は、能やヨーロッパ中世の宗教劇、シェイクスピアの作品に見られるように、現実世界を超えた何ものか、「大いなるもの」「永遠なるもの」と人間を結びつけることで、あるいは20世紀という非・宗教的な世俗の時代に、人間を宗教的に見ようとすることにより、「人間存在」そのもののあり方を「近代的」なあり方から解放しようとしていた、と言えるのではないでしょうか。

© Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare
Book and Manuscript Library, Yale University

[舞台監督を「演じる」ソーントン・ワイルダー]

 前回は日本の現代演劇のなかのWi的なものについて書きました。そこで触れた現代の日本の劇作家たち、それに第4回に登場した岡田利規さんも含めて(そう言えば、チェルフィッチュの新作のチラシの裏には、またまた超Wi的なことが書かれていますよ)、彼らのお芝居は、少なくともその表現方法においてWi的でした。同時に、人間を捉えようとするその姿勢もとてもWi的だと思います。もちろん彼らは宗教的ではないでしょう。でも、何もない舞台の上に「死」を持ち込んだり、宇宙の時間と人の一生を重ねたり、日常の一コマを反復させたりすることで、岡田さんのチラシの言葉をそのまま使うと、「誰の日常も、その日常よりもずっと大きなスケールを持つ何かと、絶対につながっているのだ」という感覚を想起させようとしているのは間違いないと思います。

 そのスケールが、家族から宇宙まで・・・その程度に差こそあれ、彼らの作品は、このわたしの位置とその存在の仕方を模索し、現在の位置とあり方を再確認しようとしているように思えます。わたしは今どこにいるのか、どんな状況に置かれているのか、見えにくいが故のことでしょう。ワイルダーならびにWi的は、わたしたちの目をこの「人間存在」の根幹へと向けてくれます。

Barrow Street Theatreの『わが町』のポスター。

 じゃ、アメリカではどうでしょう? 昨年9月、1年半以上続いたオフ・ブロードウェイ、バロウ・ストリート・シアターでの『わが町』(デヴィッド・クロマー演出)が幕を閉じました。『わが町』としては最長の上演期間です。また同じオフ・ブロードウェイのキーン・カンパニーは2004年から断続的ですが、ワイルダーの一幕劇や三分間劇の一部を上演し続けています。さらに『ニューズ゙・ウィーク』誌のジェレミー・マッカーターは、「ここ数年はちょっとしたワイルダー・ブーム」(09年10月21日号)と書いています。アメリカの方はWi的ではなく、Wiそのものですが、以前よりも注目度は高いようです。大きな流行ではないにせよ、ワイルダーが注目を浴びているのは日本だけではないんですね。

 広い文脈で考えるなら、袋小路に入り、完全に煮詰まってしまった「近代」という人間中心の時代、時代精神に違和感を抱く人たちにとって、洋の東西を問わず、ワイルダーの作品、あるいはWi的な方法って魅力的なんだ、ということなんじゃないかなぁ、と。つまり、近代の終焉でこそ、ワイルダー、あるいはWi的は光り輝く。アメリカでも、日本でもワイルダーへの関心が以前よりも高くなった背景にはこんな理由があるんじゃないか、と個人的には考えています。だから、もっと読もう、ワイルダー!

 ということで、いつもまとまりのない駄文を読んでくださり、ありがとうございました。さて、書き散らかしたものをお掃除しなくちゃ・・・あ、お休みなさい・・・

(最後の最後まで「1000字」守らなかったね、ミズタニさん…… え? 数字に弱い? ワイルダーと一緒だね♪〈も〉)

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