2013年9月30日
父、エドワード一世(1)
この作品はエドワード二世の父、エドワード一世(1239~1307、在位1272~1307)死去の便りから始まります。
エドワード一世は若いころより優れた騎士で、1265年にはイブシャムの戦いで父王の国王軍を率い、改革派の貴族諸侯たちに圧勝しました。その後王位に就くと、王権の強化をはかり、領土奪還のために大陸やウェールズ、スコットランドに侵攻します。1282年にはウエールズを無事平定。そのころから、ウェールズの北西に要塞も兼ねたお城を建設し始め、カーナーヴォン城、コンウィ城、ビューマリス城、ハーレックス城は1986年に「グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁 (Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd)」として世界遺産に登録されています。
↑ 1284年エドワード二世の生まれたカーナーヴォン城。ウェールズにイギリス王の威光を示すためだった。以降、イギリス王室の皇太子をプリンス・オブ・ウェールズといい、現在にいたるまで、皇太子の任官式はカーナーヴォン城で行われる。
その後のスコットランドへの遠征の話は、また次の機会にしますね。
これ以前の時代、エドワード一世の父ヘンリー三世(1206~72)のころは、貴族たちが勢力を持ち、国政に口を出す時代でした。象徴的なのは、オックスフォードに集結した諸侯が「オックスフォード条例」という王の権力を制限する条例への同意をヘンリー三世に求め、王と貴族たちの間で争いが起きます。1264年にヘンリー三世が敗北し、「オックスフォード条例」に署名するにいたりました。
その徴候はすでに、ヘンリー三世の前王ジョン王(1167~1216)時代に芽生えていました。フランス王やフランス諸侯に敗北し、ヨーロッパ大陸の領土の大半を失ったジョン王が1215年に、王権を大幅に規制するマグナ・カルタ(大憲章)に調印しました。世界史の教科書にも出てきましたよね。この時代の王の権力は絶対的なものではなく、貴族諸侯や教会の司教たちの財力や兵力が強大だったのです。
このような時代に、エドワード二世の父エドワード一世は、今のグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)の基礎を築くようなウェールズ、スコットランド遠征を繰り返していました。「エドワード二世」はこのあとの時代。まだまだ、イギリスの混乱は続いていきます。(ま)