2013年9月
2013年9月23日
河合祥一郎さんのコラム「マーロウの素顔③」
いよいよクリストファー・マーロウの人生に言及し、キーマン登場の河合祥一郎さんのコラム、第3弾!
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マーロウはなぜ29歳の若さで国家によって抹殺されなければならなかったのか。その疑問に答えるために、マーロウの生涯をざっとふりかえってみよう。靴屋の息子として生まれたマーロウは秀才で、16歳でケンブリッジ大学コーパス・クリスティ・カレッジに入学した。大学に行かなかったシェイクスピアよりずっと早く執筆活動を始め、19歳で最初の戯曲『カルタゴ王妃ディードー』を書いた。シェイクスピアが3児のパパとなった20歳のとき、同い年のマーロウは3冊の本を書きあげていたのだ。
語学ができ、頭の回転が速く、度胸もあることを買われたのであろう。マーロウは大学在学中に政府の諜報部員となって、大陸に渡っている。彼を送り込んだのは、エリザベス女王のもとでスパイ組織の元締めを務めていた国務大臣サー・フランシス・ウォルシンガムであり、マーロウは大学の授業に出席しなかったにもかかわらず、枢密院が女王陛下の署名入りの命令書を大学に送ったために、1587年に修士号を与えられている。
1589年にはロンドンの街中で友人(愛人?)の詩人トマス・ウォトソンと一緒にいるとき、ウィリアム・ブラッドレーという男に決闘を挑まれ、ウォトソンが相手を殺してしまったために一緒に逮捕されたが、マーロウはニューゲイト監獄に2週間拘留されただけで釈放されている。
権力という魔法の力に若くして触れたマーロウは、いわばやりたい放題の人生を生きることにしたらしい。1592年1月にはオランダで硬貨偽造をして逮捕され、本国に強制送還されている。その程度の犯罪なら政府も事を荒立てるつもりはなかったようだが、1593年5月にある事件が起こり、同月18日――暗殺の12日前――ついに枢密院はマーロウの逮捕令状を発行した。
その事件とは――(つづく)
↓ 「キーマン」= サー・フランシス・ウォルシンガム