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高橋智也さんのわが町

続いてはBoys&Girlsの高橋智也さん。

僕のわが町、それは“町”というよりも“村”というイメージの秋田県です。

ふと顔を上げるとカモシカと目が合ったり、公園の遊具で熊が遊んでいたり、「おじいちゃん今日は大人しいなぁ。」と思ったら、それはおじいちゃんではなくお猿だったりしました。イカした遊び場や歓楽街のような場所も見当たらなかったので非行への走り方も分からず、平和な青春時代を過ごしました。そんな楽しい思い出ばかりのわが町です。素朴なところだったからか思い出すのは、「物事」よりも「言葉」ばかり。特に父と母の言葉。自分を育ててくれた言葉。今も自分を支え続けてくれている言葉。叱咤激励に親父ギャグ。大切な人と言葉であふれているところ、それが僕にとっての“わが町”です。

森下竜一さんのわが町

続いてはさいたまゴールドシアターの森下竜一さんの登場です。

私にとっての我が町は、生まれ育った軍港の町、佐世保です。

南部の高台にあった私の家からは金市がスクリーン上に収められる眺めだった。前方に烏帽子岳や弓張岳の緑深い山なみ左手には朝日に映える港があり艦船が見え霧笛も聞こえた。

私の父は海軍の士官で、兄は予備学生、私は予科練として海軍にはいった。私にとって忘れられない思い出は海軍に入るまでに過した中学生活の二年間だ。棕櫚の皮で作ったカバンで通学し勉学より軍事教練が優先され陸軍から配属された教官にビンタを喰らい、みんなふっ飛んでいた。悪夢にひとしい灰色の時代だったが、僕達なりに束の間の時間に少しでも楽しみをみつけ過ごすことが出来た。空腹をかかえながらも悄気ることはなかった。帰郷のたびに駅に着くと後方に赤崎の山と港に停泊している船が見え駅の正面に聳える教会の高い塔、わが町に帰って来たことを実感できるひとときです。

文庫本の帯

今回の『わが町』は、このブログで「水曜ワイルダー約1000字劇場」を連載いただいている水谷八也さんの新翻訳でお届けするのですが、これまでに色々な方に翻訳されてきました。古くは森本薫さんから、最近では柴幸男さんが翻案した『わが星』という岸田國士戯曲賞受賞作もあります。

海外の翻訳戯曲を多く出版しているハヤカワ演劇文庫では、鳴海四郎さん訳の『わが町』が2007年に発行されています。そこで今回、新国立劇場の『わが町』上演に合わせて、文庫本に帯を掛けていただきました。よく本屋さんで、“テレビドラマ化決定!”とか“来春、映画公開!”という帯が掛かった書籍がありますが、あんな感じですね。小堺さん、斉藤さんの大きめの写真が人目を引くデザインになっています。首都圏ターミナル駅の主要な書店に置いてありますので、お手にとっていただければと思います。

ちなみに、水谷さんの翻訳(今回の上演版)は、同じ早川書房から出ている演劇誌『悲劇喜劇』2011年1月号でお読みになることができます。2つの翻訳を読み比べてみても面白いかも知れません。本屋さんの棚の中でも、『わが町』盛り上がってきています!(ま)

ハヤカワ演劇文庫『わが町』(鳴海四郎訳)

鷲尾真知子さんのわが町

続いてはウェブ夫人役の鷲尾真知子さんです。

潮風の匂い。

太陽の暖かさ。

神奈川県逗子が私の故郷です。

今でも、時おり訪ねては、自分が生まれた家の前に立ち、変わらずにあるケーキ屋さんで大好きなシュークリームを食べ、三年間通った幼稚園の前を通って海岸へ。

浜辺でボーッと時を過ごしていると、幼い頃、砂浜を裸足で走りまわっていた自分の姿が、昨日のことのように思い出されます。

まるで母の胸に抱かれているような安らぎと、元気をくれる、私の「わが町」です。

第6回  何もない舞台の歴史 その2

 水曜ワイルダー約1000字劇場、照明担当の水谷です。

 何もない舞台の王道は、間違いなく日本の能舞台です。シェイクスピアの時代よりもずっと前にその形式が完成していて、さらにその当時の上演形態がそのまま現在まで残っているのは、本当に驚異です。ギリシア悲劇も文字としては残っていますが、上演形態は残っていません。エリザベス朝の公共劇場も1642年に始まる内乱の結果、すべて破壊され、当時どんな風に上演されていたのか、文献から想像して「再現」するしかないのに、能舞台では600年以上も前の上演形態、演技が一子相伝により現在形で伝わってきているわけです。いやぁすごい、日本の演劇。

 ご存知のように、能舞台もエリザベス朝の舞台同様、張り出しており、観客の視線をさえぎる幕もなく、すべてが見えています。装置を使う場合にも、『わが町』のように芝居が始まる前に観客の目の前で運び込まれます。それに能も狂言も、舞台上で何か本物らしさを求めることはまったくありません。所作はすべて極度に様式化されています。台詞劇の狂言でもそう。実際、誰もあんな動き方はしないし、戸を開けるときに「グァラ、グァラ、グァラ」なんて音はしないし、笑うとき「ハーッハーッハッハッ」なんて笑う人はいないし(たまにいるか・・・)。『わが町』に様式化された演技はありませんが、本物らしさを求めてはおらず、「嘘」のかたまりであることが歴然としている点では能舞台と同じです。

国立能楽堂舞台正面

 さらに能と『わが町』では驚くような類似点があります。それは「死者の眼」です。『わが町』の方は舞台で確かめていただくとして、能のことをちょっと。能には現在能と夢幻能があります。現在能は舞台となるのが現在であり、そこから時間が動くことはありませんが、夢幻能のほうは複雑です。

 夢幻能では主人公であるシテが霊的な存在で、そのシテがワキ(副主人公的存在)の夢の中に現れて、生きていた頃のことを回想したり、あるいは再現し、多くはその感情の頂点で舞った後、ふたたび霊界へ去り、ワキが目覚めるというところで終わります。何もない舞台の上で死者の目を持った者が生きている世界に戻り、ふたたび帰るという構造だけでなく、それをわざわざワキの夢の中に入れ込むという複雑に構築された時間軸、死者と観客の橋渡し的な役割を果たすワキの存在など、『わが町』との類似で気になる点がいくつもあります。『わが町』の時間軸に関しては、よーく台詞を聞きながら、実感してみてください。非常に滑らかですが、結構複雑に入り組んでいます。それから、舞台監督という存在。彼はワキのように、過去と現在、未来、あるいは生と死の世界、そして舞台と観客の橋渡し的な役割を果たします。

 で、ワイルダーは能に影響を受けていた、なーんて言う積もりはまったくありません。彼が能の作品をはじめて読むのは、日本の『わが町』の翻訳者(多分、故・松村達雄氏)が能の本を彼に送ったあとのことです。だとすると、いつ、なぜ彼は・・・。ちょっと『わが町』以前のワイルダーの戯曲が気になりますねぇ。次回は彼の一幕劇のことを。

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