2013年10月
2013年10月7日
河合祥一郎さんのコラム「マーロウの素顔⑤」
いよいよ最終回の「マーロウの素顔」。マーロウの死の真相が明らかに・・・!
* * *
恐らくマーロウの死の謎を解くには、枢密院を牛耳る政界トップのバーリー卿ウィリアム・セシルの下にウォルシンガムがいたという立場関係と、セシルはカトリックを目の敵にしていたという事実を認識する必要があるだろう。
マーロウが殺されるひと月前の1593年4月、カトリック取締法が議会を通過した。セシルは積極的にカトリック取締りを推し進めていた。カトリックは敵国スペインの宗教であり、エリザベス一世を守るためにはカトリックを排除しなければならないとセシルは強く信じていた。
セシルにとってオランダ教会の事件の犯人が誰かなどどうでもよかったのだろう。それよりも、プロテスタントの信仰を軽蔑するマーロウがカトリックの貴族たちと親しくしていたことを危険視していたのだ。実際、シェイクスピアの劇団のパトロンでもあったダービー伯ファーディナンドー・スタンリーは、1594年4月にセシルによってカトリックの嫌疑をかけられて暗殺された可能性が高い。
セシルにとって、カトリックと無神論者は変わらない。1593年5月29日枢密院は、タレこみ屋リチャード・ベインズから無神論者マーロウが危険思想の持ち主だとする詳細な手紙を入手した。これに基づき、セシルはウォルシンガムにマーロウを消すことを命じたのであろう。行動は即座にとられ、翌日にはマーロウは死体となった。そして、ウォルシンガムはその年の12月に枢密院に迎え入れられたのである。
エリザベス朝は危険な時代であった。マーロウはその危険をものともせずにしぶとく生き抜こうとする人物を描くことで、自らの人生を生き抜こうとしていたのではないだろうか。『マルタ島のユダヤ人』では人殺しをなんとも思わぬ無情なユダヤ人バラバスが活躍し、『タンバレイン大王』や『ファウスト博士の悲劇』では世界制覇を目指して強欲の限りを尽くす大王や学者が活躍するが、その激しさはマーロウが時代から感じ取っていたものかもしれない。危険だからこそ、今を激しく図太く生きなければならない、と。
そう考えると、マーロウの生き方と、エドワード二世の生き方には、やはり共通点が多いように思えるのである。
↑ マーロウ作 『ファウスト博士の悲劇』の表紙