2013年11月18日
翻訳者雑感その4 ~言葉遊びの話~
ところで、このブログを書き始めたときに名前を出した『るつぼ』の翻訳者・水谷八也さんからメールでこんなコメントを頂いた ― 「少々(ショーショー)だなんて、バーナード言ってるんじゃない!」 うーん、さすが。声に出して言ってみたいダジャレ。
ショーの言葉へのこだわりは、訛りの表記だけではなく、ちょっとした表現や言葉遊びにも表われている。例えば、イライザが初めてウィンポール・ストリートを訪ねてきた時のこと。ヒギンズ「名前は?」 ― イライザ「イライザ・ドゥーリトル」 ―
ヒギンズ: イライザ、エリザベス、ベッツィ、ベス、
森へ出かけた、目当ては鳥の巣、
ピカリング: 見つけた巣の中、卵が4つ、
ヒギンズ: 一人一つで、残りは3つ。
(Higgins: Eliza, Elizabeth, Betsy and Bess,
They went to the woods to get a bird’s nes’:
Pickering: They found a nest with four eggs in it:
Higgins: They took one apiece, and left three in it.)
翻訳だとイマイチ伝わりにくいのだが、要するに、あれ? 4人で4つの卵を一人一つずつ取ったら、残りは0でしょ? 何で3つ? と思わせるのがミソ。答え ― イライザ(Eliza)、ベッツィ(Betsy)、ベス(Beth)はすべて「エリザベス(Elizabeth)」という名前の呼び名のバリエーションだから、これは4人ではなく1人の話。一人一つずつ卵を取ったというのは一人で一つ取ったというだけのこと。
翻訳する際、できるだけわかりやすく意味を伝える努力はするべきだと思うのだが ― 例えば、せめて最後の行を「一人一つずつ取ったら・・・」とするとか ― こういう詩のようなスタイルだと、意味だけじゃなくリズムも重要になる。殊に、2行目の最後など、「巣(ネスト)」(nest)という単語をわざわざ省略した「ネス」(nes’)という表記を使うことでちゃんと脚韻を踏んでいる、というような「意識的」な原文の場合、こちらとしてもそれなりの工夫をして訳す必要があるだろう。この4行を訳す時に何度も声に出してリズムを整えながら微調整していったのだが、喫茶店や電車の中でも作業していたので、回りから不審の目で見られてしまった。(でも、回りの目を気にせず「言葉」に夢中になる男たちの間抜けさ加減が伝われば本望です。)言葉遊びやダジャレを訳す場合、意味よりも雰囲気を伝えることを優先させることが多い。だが、雰囲気だけでなく意味も大事なセリフの場合、どこかで妥協せざるを得なくなる。今回、訳しきれずに最も唸ったセリフが、アルフレッド・ドゥーリトルの高度(?)な洒落。紳士の身分になった(いや、させられた)ことに文句を言う彼に、ヒギンズ夫人が「遺産の受け取りを断ることもできるんですよ」と言うと、「そこが悲しいとこなんですよ、奥さん。いらねぇやい、って口で言うんのは簡単だけど・・・」このまま何もなしでやっていくのが怖くなって受け取らざるを得なくなった。中産階級の紳士になると、自分じゃ何もさせてもらえなくて、みんなが駄賃目当てに勝手に世話を焼く。それを嘆くセリフが ―
ドゥーリトル: もあや(もはや)、あっぽう(八方)うさがり(ふさがり)だ。どっちか選ぶしかねえ、救貧院の「おかゆ地獄」か中産ケーキューの「おせっかい攻撃」か。
この二つの選択肢がどうしても訳せなかった。原文では ―
…it’s a choice between the Skilly of the workhouse and the Char Bydis of the middle class…
この Skilly というのは救貧院(workhouse)で出されるお粥のこと。Char Bydis というのは恐らくCharwoman(雑役婦)のChar にbiddy(女性)の複数形の変形をつけたもの(つまり、身の回りの世話をする女中)、と意味は解釈できる。だが、これが「between Scylla and Charybdis(スキュラとカリュブディス に挟まれて)」という言い方の洒落だと分かると簡単には訳せなくなる。ギリシャ神話の中で、Scylla (スキュラ)は海の岩に住む6首12足の怪物のこと。Charybdis(カリュブディス)は海の渦巻きの擬人化された怪物のこと。船でこの間を通ることは「前門の虎、後門の狼」みたいなもので、「進退きわまる」という意味。ギリシャの英雄オデュッセウス(中に兵隊を入れたトロイの木馬をトロイアに送り込んだ知将)は、渦巻きに飲まれて全滅するのを避けるためにスキュラの岩の方を通ることを選んで、部下を6人犠牲にした。
救貧院の「スキリー(お粥)」を食べる悲惨さと中産階級の「チャービディス(女中)」に世話を焼かれることのどちらかを選ぶということを、二つの怪物「スキュラとカリュブディス」に挟まれた状態になぞらえて八方ふさがりであることを示す ― こんな洒落訳せっこない! 洒落として訳すのは諦めて、とにかく意味をなんとか表わしてみた。それにしても、当時の観客はわかって聞いていたのだろうか・・・
言葉の専門家ヒギンズ教授でもピカリング大佐でもなく、ドゥーリトルという人物がこういう洒落たセリフを言う、というのが何ともおかしい。実はもう一つ・・・
2013年11月8日
翻訳者雑感その3 ~ロンドン訛り(コクニー)~
コクニー英語の特徴のうち、2つの点がよく知られている。「エイ」が「アイ」になることと、「H」の音が落ちる(ハヒフヘホがアイウエオになる)ことだ。『マイ・フェア・レディ』の中で、ヒギンズはイライザに2つのセンテンスを何度も復唱させる。
The rain in Spain stays mainly in the plain.
(ザ・レイン・イン・スペイン・ステイズ・メインリー・イン・ザ・プレイン。 = スペインの雨は主に広野に降る。)
In Hertford, Hereford and Hampshire, hurricanes hardly happen.
(イン・ハートフォード・ヘリフォード・ハンプシャー、ハリケインズ、ハードリー、ハップン= ハートフォードとヘリフォードとハンプシャーでは、ハリケインは滅多に起きない。)
これを花売り娘のイライザはコクニーで「ザ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリー・イン・ザ・プライン」「イン・アートフォード・エリフォード・アンド・アンプシャー、アリケインズ、アードリー・アップン」と発音してしまう。で、特訓の末、ついにちゃんと発音できるようになって、感動の歌(と踊り) ― とミュージカルでは盛り上がるのだが、ストレートプレイの『ピグマリオン』にはこの歌は出てこない。(誤解を恐れず敢えて言っておけば、『マイ・フェア・レディ』と違って『ピグマリオン』はそういう形で観客を感動させることを目指していないのだ。が、それはまた別の話。)
さて、まず「H」が落ちること。これをそのまま日本語でやってみると結構面白い。語尾などにもアレンジを加えて「花代払ってくれよ」を「あなだいあらっちくりよぉ」に、「なんだ、そのヘンテコな字?」を「なんでぇ、そんエンテコな字?」に、などなど。やっていて面白いのだが、台本に表記する場合、意味が分からなくなるので、「あな(花)代あら(払)っちくりよぉ」などと不思議な但し書きを加える必要があった。かなり面倒くさい。面倒くさいとは言え、「ハヒフヘホ」→「アイウエオ」は比較的スムーズにできた。が、「エイ」→「アイ」はそうはいかなかった。例えば、「きれいな英語」を変換すると「きらいなあいご」となるわけだが、え、「嫌いな愛護」って何? みたいに、元の言葉を連想しにくくなってしまうのだ。恐らく、日本語の場合、英語ほど「エイ」の音が頻発しないのも原因だろう。どうしよう、と思っているうちに、ふと気がついた。日本語では逆に「アイ」→「エイ」(「エー」)にすればいいんじゃないか、と。「痛い」→「いてー」、「中産階級」→「中産けーきゅう」など。これなら自然に汚い(なんのこっちゃ?)日本語のように聞こえる。
24年前、ロンドン留学中にコクニーのことで一つ気がついたことがある。映画『マイ・フェア・レディ』のおかげもあって、「エイ」が「アイ」になることは知っていたので数字の「8(eight)」が「アイト」、「門(gate)」が「ガイト」だと言われても驚かなかった。が、こちらが「アイ」と言ったものまで「エイ」だと思われることが多々あったのだ。特に「小田島」と言う名前を人にスペルで説明するとき。「O-D-A-S-H-I-M-A」(オウ・ディー・エイ・エス・エッチ・アイ・エム・エイ)と言うと、「エイ」はちゃんと「A」と書き取ってくれるのだが、「アイ」も「A」と書かれてしまう。いやいや、そこは「アイ(I)」ですよ、と念を押すと、ああ、わかってる、「アイ」だろ? と言いながら、既に書き取った「A」の文字を太くなぞっている。おかげで、駅前のクリーニング店では1年間「ODASHAMA」という名前で通すことになった。顔を覚えられて、店に入ると「ハーイ、オダシャマ!」と呼ばれるので、なんだかどっちでもよくなってしまった。
『マイ・フェア・レディ』という題は、実は『メイフェア・レディ』のコクニー読みの洒落だと聞いたことがある。メイフェア(Mayfair)というのはロンドン中心にある高級住宅街のこと。現在では商業地区としても発展しており、いわば東京の銀座と田園調布と千代田区一番町を合わせたようなところ。これが、コクニー発音だと「マイフェア」になる。だが、待てよ? それなら「レディ」も正しくは「レイディ(Lady)」だから「ライディ」になるはずだ。「メイフェア・レイディ」はコクニーでは「マイフェア・ライディ」になる・・・などと余計なことを考えているうちに、ん、この「ライディ」って響きがいいな、と思って、『ピグマリオン』にも取り入れることにした。すなわち、「アイ」を「エイ(エー)」と読む原則を作っていたところに、「レイディ」のように英語の単語は本来のコクニーらしく「エイ」を「アイ」にして「ライディ」としてみたのだ。
要するに、かなり適当にいろいろ混ざった訛りができ上がったということ。その適当に作った言葉を稽古場で石原さんや小堺さん(主に訛る役のお二人)が一所懸命覚えようとしている姿を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ああ、適当なのに。すみません、申し訳ない ― 弱気な僕は到底ヒギンズのような厳しい先生にはなれそうにない。
と、思っていたら、情け容赦なく厳しいダメだしを畳み掛ける怖い声が ― あ、いた、ヒギンズのような厳しい、怖い、徹底的に妥協せずに完成を目指す先生が・・・あ、いえいえ、僕の勝手な妄想ですよ、宮田さん、あ、言っちゃった。
2013年10月31日
翻訳者雑感その2 ~ロンドンのキャブ~
果たして「キャブ」はタクシーなのか、それとも馬車(辻馬車)なのか。ちなみに、「キャブ」は、もともとは辻馬車を意味する言葉だった。さっそく調べてみると、ガソリンで動くキャブが登場したのが、パリでは1899年、ロンドンでは1903年だという。となると、完全に普及するのはもう少し後ということになる ― うう、微妙。1912年に書かれた『ピグマリオン』は、もっと早くから構想は練られていたようだから、作者ショーの頭の中でイメージされているコヴェント・ガーデンで「ピィーッ!」と口笛を吹いて呼ぶのは・・・どっちだろう?
いくら考えてみても答は出ないので、「白旗」をあげて『マイ・フェア・レディ』のDVDを見てみることにした。ドキドキしながら冒頭シーンを見つめていると ― コヴェント・ガーデン ― 劇場の芝居がはねて上流の観客がぞろぞろと外へ出てくる ― あ、タクシー。あ、馬車。あ、タクシー。あ、馬車。なんと、タクシーと馬車がかわるがわるやってくる! うん、そりゃそうだろうな。ちょうど移行期なのだから。なるほど、納得。
と、納得はしたもののまだ訳せない。この「急な雨降り」のシチュエーションで口笛を吹いて「なかなか捕まらない」キャブを捕まえるとなったら、タクシーだろうと馬車だろうと、捕まった方に乗るだろう。つまり、「フレディったらまだキャブを捕まえられないの?」と言うのは「フレディったらまだタクシーも辻馬車も捕まえられないの?」ということになる。問題は、タクシーと辻馬車の両方を表わす日本語がない、ということだ。さんざん悩んで、結局、「車」という言葉で表すことにした。「まだ車を捕まえられないの?」でも、これだと「タクシー」寄りの響きになるので、完璧とは言えない。
実は、この段階で、手に入る唯一の既存訳、倉橋健先生の訳を覗いてみた。すると ― やはり「車」という言葉があてられていた。ああ、初めから参考にさせてもらえばよかった。でも、先生もきっと同じことで悩まれたのだろうな、と想像するとちょっと嬉しい。ちなみに、倉橋先生のご令嬢、祐子さんは大学院時代同じゼミに所属し、「親の顔に泥の塗り合い」(注・僕の父はシェイクスピアの小田島雄志)と言いながら切磋琢磨した仲。彼女は今ではアメリカ、オハイオ州のKent State大学の先生になっている。
『ピグマリオン』は1912年に執筆、ロンドン初演は1914年だった。(ウィーン、ベルリン、ニューヨークでそれぞれ1913年に上演されていたが、ロンドン初演は主演女優パトリック・キャンベルが自動車事故にあったため上演が遅れてしまった。ここでも自動車の存在が問題になっていた!)その後、ショーは何度かこの作品に加筆・修正を施している。1938年の映画の脚本にも関わった。そして、1941年に『ピグマリオン』の決定版(Authorized Version)が完成する。今回の舞台の台本はこの版を訳したものだ。どうやら、イライザが「ベッキンガンちゅうでんにやってくれ」と言ってタクシーに乗る場面はかなりあとから書き加えられたものらしい。ここを指して「映画のスクリーンやよほど設備の整った劇場でないと上演できない場面」とショー自らが但し書きをしている。
今年の3月、久しぶりにロンドンへ行った。80年代の学生の頃から何度か訪れているが、いまだにロンドンのタクシーに乗るとついわくわくしてしまう。黒いオースチン、通称ブラックキャブ。最近は真っ黒とは限らず広告などがペイントされているものもあるが、それでもブラックキャブ。もっとも、ちょっと贅沢なのでそうしょっちゅう乗るわけではない。旅行の最終日、せっかくだから、ホテルで「空港までのタクシーを頼む」と言ったところ ― ぴかぴかのメルセデス・ベンツが来た! いわゆるロンドンタクシーではなくホテルが契約している会社の車だという。ちょっとがっかり。だが、乗ったら、ラッキー!なんという爽快感! 初めてタクシーに乗った花売り娘の気持ちがちょっとわかったような気がした。
と、翻訳の話をしようと思ったのに、最初のところで躓いた話を最初に話して躓いてしまった。肝心のコクニー(ロンドン訛り)のことを話さなければ・・・
小田島恒志
2013年10月17日
翻訳者雑感その1 ~G.B.ショーとの出会い~
『ピグマリオン』の翻訳を担当した小田島恒志です。これを書いている今、新国立劇場の隣の稽古場で稽古していた『エドワード二世』が一足先に幕を開けました。翻訳は河合祥一郎さん、僕の幼稚園の1年先輩です。昨年『るつぼ』の翻訳を担当したのは水谷八也さん、僕の同僚にして英米演劇翻訳界の先輩です。この身近な二人が専門家として実に知的で面白いブログを連載執筆されていました。だからあなたも ― と、制作さんに言われて、「はい、わかりました、書きます」と言えないのはどうしてでしょう? それは、僕がへそ曲がりだからです。そして、へそ曲がりだからショーを翻訳したのです。説明しましょう。(あ、結局書いている・・・)
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ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856-1950)という作家のことを初めて知ったのは大学3年生の時、まさに『ピグマリオン』を読む授業でのことだった。もっとも、ミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』は小学校の頃から何度かテレビで見ていたけれど、ああ、オードリー・ヘップバーンきれいだな、とか、う~ん、どれもみな素晴らしい曲だな、とか思いながら、そのシンデレラストーリーにうっとりするばかりで、作家のことなどまったく意識していなかった。ついでに言っておくと、教室でよく使う小ネタに『ローマの休日』と「ローマ字」の共通点は? というのがある。答え ― ヘップバーン。このHepburn という名前を日本人は目で読んで「ヘップバーン」とし、耳で聞いて「ヘボン」だと考えた。そう、ローマ字(と明治学院大学)を創設したヘボンさんはヘップバーンさんでもあるわけだ。おっと、頭がすっかりヒギンズ・モードになっていたので、ついつい言葉の音にこだわってしまった。失礼。
さて、大学3年生の時、現在代々木ゼミナールの人気講師・佐藤慎二や写真家・吉野正起らとともに飲酒の合間に授業、もとい、授業の合間に飲酒、いや、とにかく教室になんとなく顔を出すのんべんだらりとした毎日だったが、ショーのことを知った時には自分の中で軽い衝撃が走った。『ピグマリオン』を読む前の話である。花売り娘の発音を矯正する音声学者の話、という設定だが、作者ショー自身、言葉の音とスペルにこだわった、という紹介があった。その例として聞いた話が強烈だったのだ。「魚」fish (フィッシュ)という単語がある。「f」は「フ」、「i」は「イ」、「sh」は「シュ」と読むからフィッシュ。これは誰も疑問に思わない。じゃあどうして、「フ」なら「f」、「イ」なら「i」、「シュ」なら「sh」と決まっていないのか。例えば、「笑う」laugh(ラフ)の「gh」は「フ」、「女性たち」women(ウィミン)の「o」は「イ」、「駅」station (ステイション)の「ti」は「シュ」と発音するのだから、ghoti と書いて「フィッシュ」と発音してもいいではないか ― とショーが言っている、と言うのだ。
これを聞いた第一印象は ― なんてへそ曲がりなことを言う人だろう ― だが、へそ曲がりな僕にはツボだった。そして、いよいよ『ピグマリオン』を読んでみると ― あれ? 『マイ・フェア・レディ』の「うっとり感」がない。え? やるなぁイライザ、そうきたか! いい意味で裏切られた。それまで文学に対しナイーヴだった僕は、男と女の物語はロマンティックなハッピーエンドで終わる(か悲痛な悲劇で終わる)ものだと思っていたので、そうなることを拒むようなこの展開は、やはり作者がへそ曲がりだからなのだろうと思われた。
さらに、授業では戯曲だけでなく序文と後書きも読んだのだが、この後書き(のへそ曲がりぶり)が秀逸だった。初演時の演じ方のせいで、観客にロマンティックなハッピーエンドだという印象を与えたことに対する反論として作者が書き足した「後日物語」だという。
物語の続きは、わざわざ芝居にしてお見せするまでもないだろう。それどころか、我々の想像力が怠惰にも、ロマンスという店主が必ずしもあらゆる物語にフィットするわけではない「ハッピーエンド」仕立ての服ばかりを取り揃えている古着屋の安い吊るしに依存して、枯渇しているのでなければ、語る必要すらないだろう・・・
なんだこのへそ曲がりな文章は・・・! おかげでますます惹かれていった。
その後、文学を学び、ショーのこともいろいろわかって来ると、少々(←ごめんなさい、洒落のつもり。しょうもない。)見方が変わってきた。それまでの19世紀の演劇が、音楽とスペクタクルで盛り上げてロマンティックなハッピーエンドで観客をうっとりさせるメロドラマ(メロディドラマ)が主流だったのに対し、演劇で現実を、現実のあり方を、現実社会の問題を観客に突きつけるという近代リアリズム演劇の始祖がイプセンであり、その姿勢に倣ってイギリスでそれを始めたのがショーだと知った。確かに主流に逆らえばへそ曲がりに見えるだろう。だが、逆に「うそ」が主流の中で「ほんと」を叫ぶのはどうなのだろう。王様は裸だ、と声をあげるのは・・・そうか、へそ曲がりというのは正直者のことなんだ。うん、納得。
と、勝手に自分の性格を是認するような結論に達した青春時代。めぐりめぐって30年後、『ピグマリオン』上演のための翻訳の機会を与えられた。おお、なんとロマンティックな展開だ、嬉しい、ハッピー。あれ? 本当はロマンティシストだということを露呈してしまったか。だが、いざ翻訳作業に取り掛かると、訳しにくいという厳しい現実を突きつけられ、リアリストに戻らざるを得なくなった。トホホ。