2014/2015シーズンの開幕を飾る『パルジファル』の注目はなんといっても、巨匠ハリー・クプファーが新国立劇場のためにつくりあげる新演出である。
オペラ上演史に残る刺激的な名舞台を数々手掛けてきたクプファーが、ワーグナーの大作『パルジファル』を21世紀の東京でどう解釈するのか、どんな世界観を新国立劇場の舞台で繰り広げるのか。リハーサルの貴重な時間の合間を縫って、語っていただいた。
─ようこそ新国立劇場へおいでくださいました。日本へいらっしゃるのは久しぶりですか?
クプファー 2002年のベルリン州立歌劇場日本公演『ニーベルングの指環』以来ですから、12年ぶりです。それ以前にはベルリン州立歌劇場のほか、ベルリン・コーミッシェ・オーパーやウィーンのミュージカルの日本公演でたびたび来日していたのですが、ここしばらくは間が空いてしまいました。ですので久しぶりの日本です。
─これまで日本で観るクプファーさんの演出は、ヨーロッパの劇場でつくられた舞台を日本に持ってきたものでした。しかし今回はクプファーさんが初めて、日本の新国立劇場のために演出をなさいます。
クプファー 劇場、そして劇場のスタッフのチームとの新たな出会いは、いつでも大変エキサイティングなものです。今回、歌手のメインキャストのトムリンソンさん、ヘルリツィウスさん、フランツさんとはすでにヨーロッパで何度も一緒に仕事をしている顔なじみですが、新国立劇場の皆さん、技術スタッフや合唱などの皆さんとの初めての出会いをとても楽しみにしておりました。昨日、最初の合唱稽古があったのですが、歌唱も演技の反応も素晴らしくて、とても好印象を受けました。初日を迎えるまで、この先のリハーサルも楽しみです。
─今回演出なさるのは『パルジファル』です。ワーグナーの最後の作品であり、宗教的な題材による大作『パルジファル』は、演出家にとって難しい作品でしょうか。
- オペラパレスで飯守泰次郎芸術監督と
クプファー 非常に難しいといえば難しい、とても演出しがいのある作品ですが、それは例えばヴェルディの『オテロ』でも変わりありません。どの作品でも同じく、力を入れて演出しなければなりません。
─『パルジファル』は日本人にはとてもキリスト教的な作品だと感じられますが、クプファーさんはこの作品についてどのようにお考えでしょうか。
クプファー これは非常に複雑な問題です。『パルジファル』の題材は、もちろんとてもキリスト教的なものです。ワーグナー自身はキリスト教徒でしたが、しかし、彼は生涯を通じて他の様々な文化や宗教に非常に興味を持ち、なかでも仏教にとても強い関心を抱いていました。そしてワーグナーは、キリスト教が制度として形骸化してしまったことを批判し、それを『パルジファル』の中に織り込んだのです。特に騎士団に対して厳しい眼差しを向け、時にヴェールで覆い隠すように暗号めいた形で批判を作品に内包しました。その一方で、仏教の思想を作品の中に取り入れています。キリスト教と仏教、相容れないとされる2つの宗教を倫理的なレベルで結び合わせたのは、ワーグナーのなせる業です。
─『パルジファル』のどのようなところに仏教の思想が見られるのでしょうか。
クプファー 『パルジファル』の中で鍵となる言葉「共苦によって知を得る」にこそ、キリスト教と仏教の倫理的な原理が込められていると私は思います。「知を得る」とは、仏教の目指すところの「悟り」です。「共苦」とは「共に感じる」「同情する」ということで、これは仏教において自然や生き物すべてに対する思いであり、仏教の根底にある思想だと思います。また「共苦」はキリスト教にもある考え方です。
キリスト教と仏教、どちらの宗教も、人生をいかに人間的に過ごすか、いかに耐えるか、「生きること」を追求します。そのための道筋は異なっても、両方の宗教が目指すものは「より大きな人間性」です。2つの宗教の倫理的な姿勢にはたくさんの共通点があると思います。
─登場人物の中にも仏教的な要素はありますか。
クプファー 『パルジファル』の中で、日本の皆さんだからこそ理解しやすい人物がいます。それはクンドリーです。彼女は、十字架にかけられたキリストを嘲笑したために呪われ、何度も生まれ変わって大変苦しい人生を歩まなければならない運命にある女性です。キリスト教では「魂がさまよう」という言い方をするのですが、それだとクンドリーの存在を正しく説明できません。「生まれ変わる」というのは、むしろ仏教の輪廻転生の思想です。実は、西洋社会ではクンドリーという人物像とどう向き合ったらいいのか分からないという反応が多々あるのですが、仏教を知る日本の皆さんならばきっと分かっていただけると期待しています。
─聖杯の儀式を行うたびアムフォルタスは傷の激しい痛みに身悶えますが、それでも騎士団は聖杯の力を得ようと、アムフォルタスに儀式を強います。騎士団の姿はあまりに身勝手に見えますが、このような描写こそワーグナーのキリスト教への批判の眼差しなのでしょうか。
クプファー おっしゃる通りです。ポイントはそこだけではありません。そもそも騎士たちは、本来は不正に対して立ち上がり、苦しむ人々を救う高い志を持った人たちです。たとえば『ローエングリン』では、聖杯の騎士ローエングリンは困っている状況にあるエルザを助けます。しかし『パルジファル』では、騎士団は世の人のために戦おうとはせず、自分たちの命を長らえるために聖杯から力をもらうことだけに心血を注いでいるのです。彼らからは、アムフォルタスへの同情や「共苦」は感じられません。むしろ「共苦」を拒否していると言った方がいいでしょう。これはキリスト教に背く行為だと私は思っています。第3幕になると騎士団はもっと過激になり、聖杯の儀式を執り行うよう、アムフォルタスを武器で脅して殺さんばかりの勢いになっています。その騎士団の姿はエゴそのものです。
なお、アムフォルタスの傷は、身体的な傷という以上の意味を持っています。あの傷は、キリスト教がドグマと化してしまったことを表す「傷」であり、ワーグナーが生きていた時代の「傷」だと私は思っています。アムフォルタスの傷はたくさんの意味を象徴しているのです。
─『パルジファル』には謎に満ちた有名な台詞が2つあります。ひとつは第1幕でグルネマンツが語る「ここでは時間が空間となる」。もうひとつは第3幕の最後に合唱が歌う「救済者に救済を」。この2つをクプファーさんはどのように解釈していますか。
クプファー 第1幕の「ここでは時間が空間となる」は、時間と空間について、20世紀にアインシュタインを経て人類が探究したこと、あるいは探求しようとしていたことをワーグナーが予測して、比喩的に表した言葉だと思っています。ワーグナーの時代にはまだ未知の領域でしたが、時間と空間の関係性について、物理的な意味のみならず、スピリチュアルな可能性をワーグナーは求め、それを非常に詩的に表現したのだと思います。
第3幕最後の「救済者に救済を」については、大勢の人がさまざまな説を唱えていて、中には反ユダヤ的に解釈してファシスト的に結論付けるような極端な説もあるなど、いろいろな論争があることはもちろん知っています。この言葉には多くの意味があると思いますが、私が考えるこの「救済」とは、ドグマからの解放、キリスト教の教えの歪曲・悪用からの解放だと思っています。イエスの言葉、新約聖書の内容が歪められるなど、長い歴史の中でキリスト教の思想の上に降り積もってしまったたくさんの「瓦礫」、それを全部取り除くことがここでの「救済」だと私は捉えています。
それが『パルジファル』の作品全体の精神的な構造から私が導き出した結論です。
─キリスト教のドグマからの解放を願って幕、となるのですね。
- リハーサル初日、一同を前にコンセプトを説明
クプファー 今回の演出には、私たちが「道」と呼ぶ舞台セットがあります。この「道」は人間誰もが探し求める道であり、解放への道です。最後は「道」を歩み、キリスト教の思想を内に抱えながら、仏教という別の宗教を選ぶこともできる可能性を示します。しかし、作品の結末はあえて提示しません。舞台をご覧いただいて、お客様ご自身にぜひ考えていただきたいと思っています。
─『パルジファル』は、かつてワーグナーが拍手を禁じたこともあり、現在も第1幕後に拍手をしない慣例に従う人もいます。今回の上演に際して、拍手はどのようにすべきでしょうか。
クプファー 『パルジファル』には舞台神聖祝祭劇などという大げさな題がついていますが、あくまで舞台作品ですから、通常の他の舞台作品同様、どの幕の後にも拍手していただいて構いません。ワーグナーは確かに最初は「拍手をするな」と指示しましたが、それは、彼が劇場を教会と勘違いしたがゆえの指示であり、のちに彼はその言葉を取り下げ、拍手を認めています。
『パルジファル』を観て、心をつかまれるような感動をなさることはもちろん歓迎します。しかしこの作品は祈りながら観るものではありません。舞台とは、常に何らかの娯楽的要素があるものだと私は思うのです。『パルジファル』上演の場は、教会でもなければミサでもありません。お客様には、ぜひ頭をクリアにして、目を見開いて、舞台で何が起きているかをしっかり見ていただきたく思います。