ワーグナーの最後の作品であり、彼の深遠なる芸術思想の集大成である「パルジファル」を新国立劇場初上演する2014/2015シーズンのオープニング。この大作を上演するために世界的なワーグナー歌手が集まるが、最大の注目歌手は、グルネマンツ役を歌う名バス歌手ジョン・トムリンソンである。これまでワーグナーのさまざまな名プロダクションに出演し、演出家ハリー・クプファーとも数多く共演するトムリンソンが、「パルジファル」の物語の軸となる老騎士グルネマンツについて、そして「パルジファル」という作品について、大いに語る。
インタビュアー:後藤菜穂子 (音楽ライター)ジ・アトレ7月号より
─トムリンソンさんは、1992年にハリー・クプファー氏が演出されたベルリン州立歌劇場の「パルジファル」の名高いプロダクションで、グルネマンツ役を歌われました。その時が初グルネマンツ役だったそうですね。
トムリンソン(以下T) そのとおりです。この時のプロダクションはDVDにもなっていますが、収録されたのはたしか二日目の公演で、私にとって生涯二度目のグルネマンツでした。真っ新な状態から役を覚えるのには四、五ヵ月かかったでしょうか。もちろん、最初にスコアを見始めたのはさらに二、三年前のことでしたが。私が歌うワーグナーの役でもっとも長いのはグルネマンツ、ヴォータン、そしてハンス・ザックスですが、こうしたワーグナーの役は準備に少なくとも一年はかかります。
─クプファー氏とはそれ以前にバイロイト音楽祭の「ニーベルングの指環」(以下、リング)で仕事されていますね。
T 1988年に始まったクプファー氏とバレンボイム氏のコンビによる新しい「リング」のプロダクションで、ヴォータン/さすらい人役を歌いました。でもクプファー氏と最初に仕事をしたのは、1981年のイングリッシュ・ナショナル・オペラの「ペレアスとメリザンド」(アルケル役)でした。おそらく彼はその時のことを覚えていてくれて、バレンボイム氏が私をヴォータンに起用したいと言ったときに、賛成してくれたのだと思います。
実はバイロイトで歌うまで、私はヴォータン役を歌ったことはありませんでした。私の声域はバス=バリトンではなく、生粋のバスなので、それまで「リング」ではハーゲンやフンディングを歌ってきました。でもバレンボイム氏が85年のある日突然電話をしてきて、今度バイロイトで新しい「リング」をやるにあたってバスの声のヴォータンがほしいのでぜひ歌ってほしいと言われて、驚きつつも引き受ける決心をしたのでした。
新しいプロダクションの前年の87年にバイロイトでクプファー氏と稽古をして、88年にまず「ラインの黄金」と「ワルキューレ」を上演し、89年から四年連続でツィクルスとして上演しました。このバイロイトでの「リング」の数年間は私にとって本当に充実したクリエイティヴな体験でした。
─クプファー氏の演出の特色について教えてください。
T 演出家にはいろいろなタイプがいて、すべてを詳細に指示する人から、ある程度基本のアイディアを持ちながら歌手たちに即興させて作っていく人まで、本当にさまざまですが、クプファー氏はきわめて理知的かつ緻密で、非常に細かいところまで具体的に指示する演出家です。特に立ち位置や身体の動きなどについての指示は細かく、いわば振り付けに近いぐらいですが、必ずそうした動きを要求する明確な理由があるので、私たちも納得して従うのです。経験豊かで、作品を知り尽くし、深い考察に裏打ちされていて、たいへん尊敬する演出家です。
その意味では、クプファー氏と一緒に作り上げた作品はいずれも忘れられない経験です。「パルジファル」に関しては、ベルリン以後、バイロイト(W・ワーグナー演出/シノーポリ指揮)、ミュンヘン(コンヴィチュニー演出/ナガノ指揮)、ニューヨーク(シェンク演出/レヴァイン指揮)、ウィーン(エファーディング、ミーリッツ演出/シュナイダー指揮他)、ロンドン(グルーバー演出/ラトル、ハイティンク指揮)などでグルネマンツ役を歌ってきましたが、クプファー氏との「パルジファル」が私にとっての原体験で、もっとも忘れがたいプロダクションなのです。
─数々のワーグナーの役柄の中で、ヴォータンとグルネマンツを最も回数多く歌っていらっしゃると思いますが、二つの役を歌う上での共通点と相違点について教えてください。
T まず共通しているのは、二人とも大規模なモノローグがあることでしょう。「ワルキューレ」の第二幕でのヴォータンのモノローグは、グルネマンツの「パルジファル」の第一幕の語りの場面と比べることができます。この語りの場面において、グルネマンツはただそれまでの経緯を物語るのではなく、なぜ騎士団が病んでしまったか、どこでどのように道を間違えたのかについて、いわば〈原因究明〉をしているわけです。その点で、ヴォータンが「ワルキューレ」において自分の過去を振り返って、どこで自分が道を誤ったのか、それともこれはやむを得ない運命なのかについて自問するのに似ています。
- 2007年英国ロイヤルオペラ
「ラインの黄金」ヴォータン より
他方でヴォータンとグルネマンツの一番大きな違いは、後者は神ではなく人間である点です。「マイスタージンガー」のハンス・ザックスにも言えることですが、グルネマンツの場合、人間的な感情を持つ人物として演じることができるので、長い役でも声を維持することができるのです。それに対して、ヴォータンは神として世界を救わなければならない立場にあるので、その感情の起伏は人間とは比べものにならないほど極端なのです。こうしたヴォータンの極端な性格をどう表現するかについても、クプファー氏から多くのことを学びました。
声のタイプの点からいえば、ヴォータンはグルネマンツより声域が高く、ドラマティックな役です。グルネマンツのほうは〈バッソ・カンタンテ〉という、よりレガートでベルカントな役で、歌っていてとても心地よい役といえます。
─ワーグナーのオペラの中でも、「パルジファル」はキリスト教の騎士団の話ということで、とっつきにくいオペラだと感じる方もいると思いますが、トムリンソンさんはこのオペラのメッセージのキリスト教性についてどのようにお考えですか?
T 私の考えでは、「パルジファル」においてキリスト教はオペラの基本になる〈神話〉として用いられているのであり、「リング」における北欧神話と同じ位置づけだと言えると思います。その本質はキリスト教のメッセージではなく、特定の宗教を超えた普遍的なスピリチュアリティを扱った作品だと思います。またよく指摘されるように、「パルジファル」には仏教的な考え方の影響も見られ、とりわけ最後の場面には輪廻の思想も感じられます。そして何よりも「パルジファル」の音楽がそうしたスピリチュアリティに満ちているのです。
─今回、新国立劇場には初登場となりますが、これまでの来日について教えてください。
T これまで日本を三度訪れています。一回目はベルリン・ドイツ・オペラの引っ越し公演(1987年)で、ゲッツ・フリードリヒ演出の「リング」でフンディングとハーゲンを歌ったほか、演奏会形式の「フィデリオ」でロッコ役を歌いました。二度目はビシュコフ指揮パリ管弦楽団の来日公演(1991年)で「ファウストの劫罰」に出演しました。三度目がバレンボイム指揮ベルリン州立歌劇場との来日(1997年)で、ヴォータン、グルネマンツ、それから「魔笛」のザラストロも歌いました。実はちょうどこの時、ヴォルフガング・ワーグナーが新国立劇場の「ローエングリン」の演出のために来日していて、リハーサルを観にこないかと誘われて、舞台裏を見せてもらったことがあります。ですので、今回その新国立劇場の舞台に実際に立つことができるのを今からとても心待ちにしています。
─グルネマンツの視点から「パルジファル」についてもう少し掘り下げてうかがわせてください。さきほどお話しいただいたように第一幕では、老騎士グルネマンツがこの聖杯騎士団がなぜ病んでしまったのかについて語るわけですが、そこにパルジファルという若者が現れます。彼こそがこの騎士団を救いをもたらす〈けがれなき愚か者〉なわけですが、なぜ結局グルネマンツは彼を追い出してしまうのでしょうか?
T 最初にパルジファルが現れたときには、一緒にいるクンドリーの意味ありげな発言もあり、彼こそ待望された〈けがれなき愚か者〉かもしれないとグルネマンツは直感し、聖堂へ案内します。しかし、そこで騎士団にとってもっとも重要な聖杯の儀式をアムフォルタスが執り行うのを見ても、パルジファルが茫然と無反応のままなので、彼は何も理解していないとグルネマンツは落胆するわけです。
でも、実際にはパルジファルは、この儀式を見てアムフォルタスの苦痛を直感的に理解し、しかもそれが愛につながっていることも理解するのです。その意味ではもっとも本質的な問題を理解したわけですが、他方でこの格式張った儀式に対しては部外者として嫌悪感を感じただけでした。グルネマンツは、騎士団に設立当初から加わっている内部の人間であり、パルジファルが聖杯の儀式にもっと違った形で反応すると期待していたので、失望して彼を追い出すのです。もちろん、その結果、彼はより大きなことを成し遂げて戻ってくるわけですが。
─この聖杯の儀式を行うたびに、アムフォルタスは筆舌につくしがたい苦痛を味わうわけですが、それでもティトゥレルおよび騎士たちは彼にそれを強要します。グルネマンツは同士としてそれについてどう思っているのでしょうか?
T グルネマンツはニュートラルな立場にいると私は思います。彼がアムフォルタスに強い同情を寄せていることは音楽からもよく分かると思います。少なくともアグレッシヴな騎士たちと一緒になって儀式を強要する側にはいません。アムフォルタスが苦しんでいることに同情し、騎士たちから彼を守ろうとします。でも結局、聖杯の儀式を行わないとティトゥレルも騎士たちも衰えてしまうので、儀式を執り行わなければならないという究極のジレンマに彼も日夜悩まされているのです。
─騎士団はその後、どうなると思いますか?
T パルジファルが聖槍を持ち帰ったことで聖杯と聖槍―すなわち陰と陽―がふたたび一緒になり、騎士団の病は癒えますが、私の考えではオペラの結末は、騎士団というエリート集団の将来を強化するものではないと思います。究極的には、パルジファルが騎士団にもたらすメッセージというのは、騎士団は自分たちのためだけの閉鎖的な社会であってはならない、ということではないでしょうか。
むしろ「ニーベルングの指環」の最後で神々たちが滅亡したのと同じように、「パルジファル」の騎士団もいずれ滅ぶのではないかと思います。すなわち世界が存続するためには神々が死ななければならないのと同じように、聖杯の騎士団は滅びますが、そのスピリチュアルな真実はずっと受け継がれていくのです。聖杯も聖槍も騎士たちのためだけであってはならず、すべての人々のためであることを〈けがれなき愚か者〉は示してくれているのだと思います。