2013年9月
2013年9月16日
河合祥一郎さんのコラム「マーロウの素顔②」
では、お待ちかね、河合祥一郎さんのコラムの第2回目です!
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事件は1593年5月30日(水)、ロンドン南東テムズ河沿いの町デットフォードで起こった。マーロウはその日の朝10時から、未亡人エレナー・ブルが経営する居酒屋で、3人の男と一緒に過ごしていた。そして、夕食後の午後6時、勘定書きをめぐって口論となったという。当時の検死報告書によれば、イングラム・フライザーとつかみ合ったマーロウは、フライザーの腰の短剣を奪って二度相手の頭に傷を負わせたが、フライザーが短剣を奪い返して、マーロウの右目を貫いた。深さ2インチ、幅1インチの致命傷により、マーロウは即死だったという。
シェイクスピアが1599年に書いた『お気に召すまま』第3幕第3場で、道化タッチストーンが「小さな部屋の大きな勘定書きよりも人を死んだ気にさせる」(it strikes a man more dead than a great reckoning in a little room)という不思議な表現を用いるのは、マーロウが勘定書きをめぐって小さな部屋で殺されたことに言及したものだとされている。
だが、マーロウは本当に勘定書きをめぐっての喧嘩で殺されたのだろうか。そもそも「目を刺されて即死ということはありえない」と、『クリストファー・マーロウ暗殺』(1928)という本を書いた医師サミュエル・A・テネンボームは指摘する。
決定的なのは、一緒にいた3人の男たちが、マーロウと同じく、政府の諜報部員だったということだ。4人とも、スパイマスターとして知られる政府高官フランシス・ウォルシンガムに雇われていたのだ。
そのうちの一人、ロバート・プーリーは、事件当日オランダから帰国し、早朝ウォルシンガムのもとへ行って機密情報を渡してからデットフォードへ急行している。イングラム・フライザーは、マーロウ殺害により拘留されながらも、すぐに釈放され、ひと月も経たぬ6月29日にはウォルシンガムのために別件で働いている。すべてはウォルシンガムの仕組んだ計画どおりだったらしい。
だが、マーロウはなぜ暗殺されなければならなかったのか。(つづく)
↑ エリザベス朝の居酒屋