シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
開校記念特別講座
5月30日(土)17時〜 新国立劇場中劇場
特別講師:ジョン・ケアード
(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー名誉アソシエート・ディレクター、『夏の夜の夢』演出)
特別ゲスト:『夏の夜の夢』出演者
村井国夫
麻実れい
チョウソンハ
司会:鵜山 仁(演劇芸術監督)
通訳:垣ヶ原美枝

シェイクスピアは真実を語る劇作家

ジョン・ケアード(以下ジョン)●こんばんは、というより、こんにちは。時間を勘違いしてちょっと遅れました。じゃあ、シェイクスピアについて何のお話をするかと言うと、イギリスだとシェイクスピアのレクチャーとなると聞いている人はみんな眠ってしまいます。(場内笑)というのは、イギリスでは、シェイクスピアとは子供のころから学校で必死に勉強しなければならないものとされているからです。イギリスでは、シェイクスピアが好きという人よりも、シェイクスピアにアレルギーをもっている人のほうが数が多いのです。ところが、日本の観客のみなさんにシェイクスピアの話をするのは、イギリスより面白いかもしれないと、いま感じています。なぜかと言うと、みなさん日本語でシェイクスピアのセリフを聞いているので、イギリス人よりもシェイクスピアをわかっているかもしれないからです。
シェイクスピアの芝居をイギリスで英語上演でご覧になった方、手を挙げてみてください。かなりいらっしゃいますね。今回の日本の『夏の夜の夢』をご覧になった方は? ほとんどみなさんですね。ありがとう。
今日のレクチャーの案内チラシを見ますと、僕はシェイクスピアの真実について語らなければならないと書いてあります。(笑)シェイクスピアの真実とは何かと問われれば、シェイクスピアは真実を語る劇作家だったと答えます。彼の世界観とは、本当にすべてを包括しているものです。たぶん西洋の演劇界をみても、歴史的に過去も現在も、シェイクスピアという人は初めてバランスのとれた見方をして、人間の全体像を描こうとした作家だと思います。国王の話も書いていますし、女王もでてきます。貴族、武者、知識人、子供たち。それと驚いたことに、男性にも女性にもフェアな見方をして描くことができた作家です。ほとんどの作家は、シェイクスピア以前も以後も通じて、それができる人は本当に少ないのです。チャールズ・ディケンズのような大作家のような人でも、そうです。彼は、若い女性のことを書くことができなかった。若い女性のことを書くとなると、どこかで勇気を失ってしまって書ききれない。トルストイは、女性となるとセンチメンタルな見方しかできなかった。シャーロット・ブロンテは、男性をきちんと描くことができなかった。書いてはいるけど、あまりうまくない。男性にしろ女性にしろ、人間性をきちんと描くことができたのは、チェーホフとシェイクスピアぐらいかもしれません。
もうひとつ大事なのは、シェイクスピアは、何も恐れずにその人間の心の奥底まで見通して描こうとしたことです。ディケンズは、あるタイプの女性については細かく書くことができる。ところが、結婚適齢期の美しい若い女性を書くことはできなかった。それは本人が、そういう女性たちが怖くてたまらなかったからです。これは有名な話です。きれいな女性の前に来ると目の前にシャッターが降りたようになってしまう。常にきれいな女性の人間性を見ることができなくて、きれいな顔しか見ていなかったのでしょう。
シェイクスピアの戯曲はたくさんありますが、観ておわかりのように、ありとあらゆる種類の人間が描かれていることに気づかれると思います。
『夏の夜の夢』について考えてみましょう。女性たちを見ると、ティターニアがいて、ヘレナがいて、ハーミアがいて。この3人は、女性として本当に信じられないくらい違っているじゃありませんか。自分の女友達のことを考えてみてください。この人はティターニア・タイプだろうか、あるいはヘレナ・タイプだろうか、それともハーミア・タイプだろうか、どのタイプか考えてみてください。『お気に召すまま』でも考えてみましょう。この人は、ロザリンドだろうか、シーリアだろうか。すばらしい女性が出てくるので、自分の友達をあてはめて考えることができます。ところが、『夏の夜の夢』でひとつ失敗しているなと思うところは、若い男2人、ディミートリアスとライサンダーが似ていることです。なぜかというと、それはシェイクスピアが特別なことを言いたかったからだと思います。つまり恋をしてしまって、ある若い女を自分のものにしようとして、競争し始めると若い男はやっぱり似てしまうということです。
でも、シーシアスの描き方は、頭がいい、立派な男の人で、非常に正確な描き方をしています。また、芝居を作ろうとがんばっている職人たちの描き方も正確で細かいものです。そして、いたずらいっぱいで頭がおかしいんじゃないかと思うほどの男の子の描き方もすばらしい。ただ、シェイクスピアの芸術を考える時に大事なのは、パックを描くのに想像力だけで描いているのではないということです。妖精ではなくて、本当のクレイジーな男の子なんです。こういう男の子をみんな知っていますよね。なにかというとトラブルに巻き込まれる男の子。人のことをいじめてみたり、物を壊してみたり、エネルギーを抑えられず常に転がり回っているような。ベッドに入った途端に意識を失ったように眠るのです。僕には3人息子がいますが、3人とも同じようなところがあります。娘もそんなところがあるので、ちょっと心配です。(笑)
それから、ティターニアは信じられないくらい面白い人です。シェイクスピアの書いた時代には、女性の役は少年俳優しか演じることができなかった。その時代を考えてみると、こんなにパワーをもっている女性、こんなに性的な衝動に突き動かされる女性を描いたのは、非常に勇敢なことだったと思います。それに、ティターニアは、後に書いたクレオパトラのスケッチだな、下書きだなと感じます。シェイクスピアは、そういう書き方をよくしているんですよ。彼の書いている登場人物は、後に大きな役目を果たす人物の芽生えだと思える人がよく出てきます。『夏の夜の夢』の始めのほうのライサンダーのセリフにこうあります。
「あるいは、何もかも釣り合っていても、戦争とか、死とか、病気とかに包囲され、音のように束の間、影のようにはかなく、夢のようにすぐに消えてしまう」
たった5、6行のセリフなんですが、しかも芝居の最初のほうのシーンです。ライサンダーはここで素敵なセリフを言うのですが、その後のシーンではそういうすばらしいセリフがありません。ライサンダーのこのセリフのようなすばらしい詩的な言葉をずっと探していくと、『ロミオとジュリエット』でロミオが言うセリフと似ているんです。おそらくシェイクスピアは『夏の夜の夢』の2、3カ月前に『ロミオとジュリエット』を書いていると私は思います。 『夏の夜の夢』に“ピラマスとシスビー”という悲劇が出てきますね。あれは、『ロミオとジュリエット』の風刺になっていると思いませんか? 『ロミオとジュリエット』を書いていなかったら、“ピラマスとシスビー”は書けなかったと思います。ライサンダーのいま言ったセリフの何行かの間、ライサンダーはロミオになっています。それを聞いているシェイクスピアの時代の観客は、「これはまたすばらしい愛の物語になるんだねえ」と思うのです。「絶対望みのない愛に夢中になって、そして引き裂かれてしまう恋人たちの物語になるのね」と思うのです。ところが、その12行ぐらいあとに行くと、ハーミアがそれに答えますね。そのあとでライサンダーは「僕には未亡人の叔母がいる、大きな資産を継いでいて、子どもはいない」「恋人たちの駆け落ちを隠してくれるころ、僕らはアテネの城門を抜け出す」森へ駆け落ちしようと言うのです。観客は『ロミオとジュリエット』もそうすればよかったのになんでそうしなかったの? と思います。(笑)梯子を登って塀を越えて庭へ入り込むことができるんだったら、ジュリエットだって塀の向こう側へ出て行けばよかったじゃありませんか。ジュリエットはそんなことできないのです。なぜかというと、彼女は死ななきゃならない。これは悲劇なんです。ロミオとジュリエットは、最初から自分たちは死ななきゃならないとわかっていて進んでいくのです。『夏の夜の夢』の最初のところで、ハーミアが結婚に同意しなかったらどうなりますか? というのにシーシアスが答えます。ねぇ、村井さん。

村井●「死刑か、さもなくば世間との交わりを一切絶つ」(拍手)