シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

VI シェイクスピアは『ヘンリー六世』をなぜ書いたのか? 河合祥一郎(英文学者)
2009年11月19日[木]

Topにもどる→

このスタンレー卿は政府にあまりにもにらまれた結果、その当時の大蔵大臣、ウィリアム・セシルという男が多くのスパイを放ち――本当にこれはスパイ映画のような事件がいろいろありまして――暗殺されてしまいます。暗殺される前の1591年から翌年にかけて、スタンレー卿は宮廷の女王陛下の前でわざわざ自分の劇団の上演をさせています。何を上演したのかはわからないのですが、エリザベス女王のおじいさまの頭に王冠を載せたせたのは誰でしたか?ということを思い出させる芝居、すなわち、『ヘンリー六世』三部作と『リチャード三世』を見せたことがあったとすれば、それはストレンジ卿には大きな意味を持っていただろうと言えるわけですね。

ちなみに『ヘンリー六世』三部作と『リチャード三世』は、3つと1つで四部作になる。これは、シェイクスピア学者の中で、四部作の中でも「第1・四部作」というふうに言われています。「第2・四部作」とは、『リチャード二世』、『ヘンリー四世』二部作、そして『ヘンリー五世』という4つを合わせたものを指します。
『ヘンリー五世』の後に『ヘンリー六世』が来るわけですから、歴史の順に並べていきますと、「第2・四部作」の後で、「第1・四部作」が来るということになるわけです。先に書いたほうを第1と言っていたわけです。

さて、
『ヘンリー六世』上演されてから3年ぐらいしてからの1593年5月6日付のストレンジ卿一座の記録があります。それを見ますと、道化役者のウィリアム・ケンプ、トマス・ホープ、ジョン・ヘミングズ、オーガスティン・フィリップス、ジョージ・ブライアンなど、後にシェイクスピアの宮内大臣一座の仲間たちの名前が並んでいます。シェイクスピアの名前はまだありません。おそらく、シェイクスピアは、ストレンジ卿一座に『ヘンリー六世』の台本を提供はしたけれど、ひょっとすると役者として、つまり劇団員としてはまだ参加していなかったのではなかったのではないかと推測されます。
というのは、シェイクスピアの初期の作品をいろいろ調べていきますと、いろいろな劇団が上演しているんですね。どこか一つの劇団にシェイクスピアは属していなかっただろうと推測されるわけです。
『ヘンズローの日記』という書類を見てみますと、1594年1月には、サセックス伯一座が『タイタス・アンドロニカス』を上演していますし、その年に本として出版された『タイタス・アンドロニカス』の表紙には、ダービー伯、ペンブルック伯、サセックス伯の役者たちによって上演されたと記載があります。それから、1594年に出版された『じゃじゃ馬ならし』の表紙には、ペンブルック伯一座が上演したと書いてあります。そして、この『ヘンリー六世』第三部の当時の名前は『ヨーク公リチャードの実話悲劇』というのが最初の名前だったんです。その台本もペンブルック伯一座が所有していました。
したがって、シェイクスピアは若いころはどこかの劇団に所属しないで、執筆活動に専念していたのではないだろうかと推測されるんですね。最初から役者ではなかったかもしれない。これは、シェイクスピア学者たちにもわからないところで、これから議論していかなければいけないのです。けれども、ついつい後にシェイクスピアが役者として活躍したことがわかっているものですから、最初からシェイクスピアは役者としてストラトフォード・アポン・エイヴォンからやって来たんだと考えられがちなのですが、このころシェイクスピアが役者として活躍した記録は実はひとつもない。のちにはあります。したがって最初はひょっとすると執筆から始めたのかもしれない。しかも、最初のうちは、劇作家になろうというよりは詩人として身を立てようとしていたふしがあります。
実際に役者として舞台に立ってしまって、これは面白いぞということになる前に、いろいろ執筆していたのではないか。『ヘンリー六世』三部作を書いたのもそのころだったかもしれないということになります。
いずれにせよ、確実に言えることは、シェイクスピアは『ヘンリー六世』三部作を手がけたことにより、劇作家としての道を大きく歩み始めた、ということです。
この作品でシェイクスピアがデビューをしたということは、この作品を書く前にはシェイクスピアは知られていなかったということです。当たり前のことなんですけれども、ここで、ひとつ大きな誤解があるので、ひとつ先に進める前にその誤解を正しておきたいと思います。
その誤解はあまりにも流布してしまって、シェイクスピア入門書のような本でもまるで事実であるかのように書かれていますが、私としては訂正したいと思います。今回の公演のプログラムを引用しますと、「このころ(1590年前後)20代の後半になろうとしていたシェイクスピアが劇団の要請に応じて書いたこの作品は、しかし、そのせりふの強烈な力と躍動する舞台で、人々の心を揺さぶったに違いない。悲惨な死の床にあった先輩の劇作家、それまで劇壇を牛耳ってきた詩人たちの1人が、この作品の人気を嫉視しながら、劇中のせりふをもじって、その作者を、「役者(劇のなかではマーガレットをさす「女」)の皮をかぶった虎の心」と罵り、この国でただ1人「舞台を揺るがす者(シェイクシーン)」とうぬぼれていると誹謗する文書を書き残したからである。新たな演劇の世界を開こうとするシェイクスピアの役者と劇作家としての力量を証明する貴重な記録ともなった文書であった」
ここに、「シェイクスピアが劇団の要請に応じて書いた」とありますが、今までお話したように、シェイクスピアがどのような状況でこの作品の執筆に加わったかは一切藪の中です。また、この作品が先輩作家の嫉妬を買ったというのも根も葉もないでたらめになるわけで、これはロバート・グリーンが1592年9月、死ぬ直前に書いた『三文の知恵』という小冊子にある一節をめぐる解釈の問題です。グリーンは『ヘンリー六世』第三部第一幕第四場で、ヨーク公がマーガレットに向かって言うセリフ、
「ああ、女の皮をかぶった虎の心」
と言うのをもじって、グリーンが「役者の皮をかぶった虎の心」と書いたというのです。自分こそ国一番のシェイクシーンだと思っていやがる、自惚れていやがる、と。シェイクシーンとは「場面を揺るがす者」という意味です。語呂から劇作家シェイクスピアのことであるという推察が今では通説となってしまっているのですが、それは、誤りであるということは、私が新潮選書『謎解きシェイクスピア』という本に書きました。あんまり宣伝しては申し訳ありません(笑)が、興味ある方はそちらをお読みいただければと思います。
要は、当時20代半ばのシェイクスピアはまだ駆け出しの新人だったことは、肝に銘じて覚えておかなければ間違いをしてしまうということになります。

以上、もう一回まとめてみますと、シェイクスピアは冒険活劇を書きたかった。それには、政治的背景があったかもしれないということが推察されます。
では、なぜこんな長いものを書いてしまったのか? 
ある意味、書きたいように書いてしまっているわけですが、何しろ駆け出しの新米ですから、推敲して短くしようということができなかったということがどうもあるようです。
私自身、12月に銀河劇場で上演の『ANJIN』の脚本を共同執筆しましたが、相方のマイク・ポウルトンという劇作家が最初に出してきた原稿がゆうに500枚を超えるもので、非常にぶ厚い台本で、とにかくそれを何とか3時間以内のお芝居にまとめようとして四苦八苦した経験があります。しかも、私も作家として書き加えたいものですから、それで増えてしまう。でもそれを短くしなければいけない。マイクは「場合によったら2部作や3部作にすればいいよ」と言うのですが、プロデューサーは、「とんでもない、1つの芝居にまとめてもらわなければ困ります」と言う。ですから一つにまとめて、今稽古中ですが、言い換えれば、駆け出しのシェイクスピア君には、そういう厳しいプロデューサーがいなかったということがいえるわけですね。あっちをふくらまし、こっちをふくらましと、書きたいように書いた。作家としては非常にうらやましいなと思う状況ですが、やりたいように書いた芝居だったということが言えると思います。