シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

VI シェイクスピアは『ヘンリー六世』をなぜ書いたのか? 河合祥一郎(英文学者)
2009年11月19日[木]

Topにもどる→

今日のお話のタイトルは、シェイクスピアは『ヘンリー六世』をなぜ書いたのか=B松岡和子さんがシェイクスピアは『ヘンリー六世』で何を書いたのか≠ニいうタイトルでしたので、何を≠なぜ≠ノ変えたということで、ちょっと遊んでいるわけです。なぜ?と言っても、本当のところはシェイクスピアさんご本人に聞いてみなければわからないでしょうし、仮にシェイクスピア本人に聞いたとしても、「そんな昔のことは覚えていない」と言われてしまうかもしれません。
冗談はさておき、私は、翻訳者として、あるいはまた銀河劇場で上演する『ANJIN』を私自身が作家として共同執筆していますが、そうやって芝居を書いたりする際に、この芝居はどういうふうにしたいのかという執筆の動機がはっきりしないと、あるいは作者と同じ気持ちになっていないと翻訳はできないというふうに常日頃考えています。しかし、残念ながらシェイクスピアの原稿以外、執筆メモとか日記が残っているわけではありませんから、作品の中のさまざまな状況証拠と、当時の歴史的状況を分析して判断せざるを得ません。この場合、作品の中にあるものを内的状況証拠と言い、作品の外にあるものを外的証拠というふうに言います。

なぜシェイクスピアは『ヘンリー六世』を書いたのか、まず作品そのものの内的状況証拠から見ていきましょう。
『ヘンリー六世』三部作は、シェイクスピアのデビュー作だと言われています。シェイクスピアが初めて書いた戯曲。つまりストラトフォード・アポン・エイヴォンの田舎から役者としてロンドンに出てきた弱冠26歳のシェイクスピア青年が、それまで戯曲など書いたこともなかったにもかかわらず、いきなりこんな長大な大河ドラマを書いたということになります。
これは、驚くべきことなわけですね。そこで疑問が生じます。はたしてこの長大な歴史劇を、今まで芝居など書いたことのない若者が、一人で企画し、一人で書ききったなどということがあり得るのでしょうか?
エリザベス朝当時、劇作家たちが協力しあって戯曲を共同執筆するのは、日常茶飯事でした。ですから、少なくとも最初のうちは、先輩劇作家と一緒に書き始めたかもしれない。実際、『ヘンリー六世』はシェイクスピアが単独で執筆した作品ではなくて、さまざまな先輩作家との共同執筆であるという学説もあります。あるいは、ひょっとしたら『ヘンリー六世』の時代の歴史劇を書いてみようと企画したのは、先輩劇作家のほうだったかもしれません。それに役者だったシェイクスピアも加わって、一緒に劇作の手伝いをしたということだったのかもしれません。
それにしても、なぜ歴史劇だったのでしょうか?
『ヘンリー六世』というお芝居は、もう一回考えてみますと、ヘンリー五世という国民的英雄だった王が1422年に没して、当時生後わずか9カ月だった王子様が、ヘンリー六世として即位し、そののち1471年にロンドン塔で残忍なグロスター公リチャードに殺される、ちょうど50年間ですが、その50年間を通して、百年戦争、薔薇戦争を描くという壮大な作品であるわけです。
こんな戦争ものを書こうというアイデアはいったいどこから来たのでしょうか?
それはたぶん当時の状況を見てみますと、当時大当たりをとったクリストファー・マーロウの壮大な劇『タンバレイン大王』のように戦争を描いて成功をおさめていた作品があったからかもしれません。『タンバレイン大王』は全世界を支配する野望を持った男の物語であり、戦闘シーンも凝っていました。他にも1588年には、『サイラスの戦い』、1589年には『アルカサルの戦い』といった作者不明の戦争ものが相次いで上演されていました。
日本でも大衆演劇ではチャンバラを好んでやって見せますが、イギリスでも事情は同じでした。舞台の上で立ち回りというものは、なかなかの見せ場を生み出しますし、エリザベス朝当時、紳士階級以上の男性はみな腰に剣を帯びていました。すなわち観客のうち大多数が、剣を持ったまま観劇をしていたわけです。ですから、紳士たちは、舞台の上で起こる、いわゆるチャンバラが、自分たちが日頃やっている剣の稽古とどう違うかというようなものを見る目が肥えていました。舞台上で嘘をやったら即座に野次が飛ぶと。
逆に言うと、そうしたお客さんも満足させるような激しい立ち回りがおそらくなされただろうということがわかります。当時の資料を調べてみますと、紳士たちは劇場を借り切って、いわゆる剣の試合のトーナメントをやったという記録もあります。それほど、剣で戦うことが当時では日常的にあった。これは例えば『ハムレット』の後半で、ハムレットとレアーティーズが剣の試合をしますが、その時にハムレットが「いや、僕は剣の稽古を欠かしたことがないからね」と言います。そのようなことは、エリザベス朝の当時の紳士階級以上の人たちの慣習を表しています。
ですから戦闘シーン――もちろん剣は細身の剣で行います。戦闘それ自体はもちろんもっと厚い大きな剣でやりますから、戦ということになりますと話は違いますけれど、戦うということに関しては共通していた――戦闘シーンはかなり激しいものをやっただろうということが推察されるわけです。

それから当時もうひとつ流行っていたのが、魔法ものです。今で言えば、さしずめハリーポッターのような、魔法が使える修験者が活躍する作品がおおいにヒットしていました。例えば、ロバート・グリーンが1589年ごろに書いて大ヒットした喜劇『修道士ベーコンと修道士バンゲイ』というお芝居では、2人の魔術師が魔法を競い合うという内容が描かれていました。また、同じころに書かれたアンソニー・マンデーの喜劇では、魔術師のジョン・ア・ケントという人と、もう1人の魔術師ジョン・ア・カンバーという人が技を競い合うという、魔術師の技比べのお芝居があったんですね。他にもジョージ・ピールが1590年ごろに書いた『おばあちゃんの物語』でも魔法が出てきますし、クリストファー・マーロウが1592年に書いた『ファースタス博士』ではファースタスが悪魔と取引きをして思いのままにやりたい放題やるというお芝居がありましたから、『ヘンリー六世』第一部でジャンヌ・ダルクが悪魔と取引して魔法の力でジョン・トールボットに打ち勝つという展開は、当時の芝居のありようとしては珍しいものではなかったということが言えるでしょう。1592年前後にはロバート・グリーンが大ヒットさせた『修道士ベーコンと修道士バンゲイ』の続編である『ボルドーのジョン』という芝居でも、やはり魔法が出てきて、ベーコンが雷鳴とともに悪魔を登場させ、悪魔に言うことを聞かせたりします。
ですから、ジャンヌがトールボットと戦う場面では、トールボットが魔法のせいで負けてしまうというようなくだりがひとつの見せ場となったのではないかと推察されるわけですね。
トールボットが懸命に戦うのに、ジャンヌが軽くあしらって、トールボットが驚く中、「ここまでにしときましょ」と言って立ち去ってしまうという場面がありました。人間技ではとても太刀打ちできないジャンヌのスーパーヒロインぶりが、ひとつ、この芝居の面白さになっていたのではないかと推察されるわけです。