2013年8月
2013年8月23日
竹久夢二とバレエ・リュス ~シリーズ:大正ロマンとバレエ・リュス(2/3)
シリーズ 大正ロマンとバレエ・リュス(2/3)
連載第二回 竹久夢二とバレエ・リュス
*竹久夢二*
竹久夢二といえば、大正ロマンを代表するといってもいい画家の一人です。
黄色い着物の女性が黒猫を抱いた『黒船屋』の絵をはじめ、「夢二式美人」と呼ばれる数々の独特の美人画は、当時の女性にとっての憧れの的でした。
その竹久夢二ですが、作品のヒントを得るために明治期から大正期の雑誌の切り抜きを集めたスクラップブックを何冊か残しています。
実は、そのスクラップブックの中に、バレエ・リュスに関する記事が収められているのです。
例えば、アメリカの雑誌である『VANITY FAIR』(1913年創刊、文化やファッションが主なジャンル)からの切り抜きや、バクストの衣装デザイン、シェエラザードの金の奴隷に扮するニジンスキー、などなど。いずれもバレエ・リュスの初期の作品で、当時の西欧を圧巻していた余波が日本に伝わってきたのがわかる資料です。
この集められたバレエ・リュスの切り抜きは、竹久夢二のどのような作品に活かされたのでしょうか?
画像を見ながら、少し説明したいと思います。
大正時代には『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』など、様々な流行歌がうまれ、全国的に普及しました。
この普及に一役買ったのが、妹尾幸陽の出版するセノオ楽譜のシリーズです。
セノオ楽譜は、独唱曲、合唱曲からヨーロッパの名曲、歌劇、童謡にいたるまで、幅広い内容の楽曲を網羅していました。
そのうちの、約270点ほどの表紙が夢二の手によるものでした。
手頃な価格と、絶大な人気を誇る夢二の表紙により、セノオ楽譜は、音楽の大衆化、流行歌の誕生に大きく寄与しました。
さて、妹尾との信頼関係のうちに成り立っていたこの夢二の表紙企画は、夢二にとっても美人画だけでなく、様々なジャンルの絵画に挑戦することができる貴重な場だったようです。
ここで、竹久夢二はバレエ・リュスの数々の写真から得た知識、技術を存分に発揮した作品を描きます。
例えばバレエ・リュス作品の「ル・カルナヴァル」に登場するアルルカン(道化役で、ダイヤの柄の衣装に身を包んでいるキャラクター)は、「Don’t Cry Swanee/ドント・クライ・スワニイ」(イギリス・ロンドンの高級ホテル、Savoy Hotelで演奏していたSavoy Havana Bandというダンスバンドの曲。ちなみに、ディアギレフはロンドンに滞在するときはこのホテルを好んで使っていました)の表紙や雑誌「国粋」の表紙に見られます。
その、「Don’t Cry Swanee」の表紙が、こちらです。
そして、竹久夢二の集めていた写真のうちの、アルルカンのフォーキンの写真が、こちら。
本当に、集めた写真から影響を受けて自らの作品に活かしていたということがわかりますね。
おどけたような独特の動き、ポーズは、軽快なダンスバンドの曲のイメージにもよく合っています。(”Don’t Cry Swanee”で検索すると、原曲の聴けるサイトがあります)
海外の譜面を楽譜化した時にどんな表紙にするのか、というのは、竹久夢二にとっても様々な工夫のできる面白い挑戦の場だったようですね。
また、こちらは当時のフランスで、ジャポニズム、シノワズリ趣味を取り入れた絵で好評を博したイラストレーター、ジョルジュ・バルビエによる、「ル・カルナヴァル」の絵です。
そして、こちらは竹久夢二の『白鳥の歌』の表紙の絵。
いたずらな顔をした町娘の雰囲気や、アルルカンの衣装、また、舞台の幕が描かれているところもこの2つの絵で特徴的なところです。
夢二の絵で、二人の登場人物が幕の中に半分隠れているというのも、面白い構図です。
また、『火の鳥』の初演を踊った、タマラ・カルサヴィナの写真も、夢二は丁寧に切り取り保存していました。
その写真は、セノオ新小唄『曙光』の表紙に大きな影響を与えています。
そして、こちらがカルサヴィナの火の鳥です。
ズボン型の衣装や、背中を反らせるという今までの日本にはない独特の動きは、バレエの影響を受けていることが明らかです。
竹久夢二も夢見た世界、バレエ・リュス。
当時の日本人にどれだけ衝撃を与え、熱狂させたのかも、うかがい知れますね。
連載最後の次回は、当時の日本でバレエ・リュスがどのように紹介されていたのか、その空気の伝わる本をご紹介します。
(M.K.)
2013年8月20日
宝塚歌劇とバレエ・リュス ~シリーズ:大正ロマンとバレエ・リュス(1/3)
シリーズ 大正ロマンとバレエ・リュス
連載第一回 宝塚歌劇とバレエ・リュス
大正ロマン。
西洋の文化が日本の文化に入り混じり、そこに新しい時代への高揚感が加わって生まれた、活き活きとして、そして今振り返るとどこか懐かしいような、同時に逆に新しいような感じもする時代の文化です。
大正ロマンブーム、レトロブーム、なんかも最近耳にしますね。
そんな大正ロマンのまっただ中、バレエ・リュスもまた、当時の日本人の憧れの的でした。
当時ヨーロッパに留学していた作家の島崎藤村は日本の新聞にてバレエ・リュスの海外での活動を報告し、作曲家の山田耕筰はエッセイにバレエ・リュスを観た感動を書き綴り、1917年(大正6年)には音楽評論家の大田黒元雄による本格的なバレエ・リュスの書物が書かれます。
バレエは当時、新聞や雑誌に記事が載るほどのポピュラーな話題だったのです。
もちろん、そんな最先端のアート、バレエ・リュスにインスピレーションを受けた作品も沢山生まれました。
浅草で流行した大衆演劇の浅草オペラでも、バレエ・リュスの東方的な色彩を取り入れたエキゾチックな衣装が人気を集めていました。
今回の連載では、バレエ・リュスの日本に与えた大きな影響の中から、宝塚歌劇団と竹久夢二について、紹介してみたいと思います。
*宝塚歌劇*
現在でも人気を誇る宝塚歌劇団の前身である、宝塚唱歌隊が結成されたのが、大正2年、1913年のことです。(初公演は1914年)
1919年には宝塚少女歌劇と改称されましたが、この宝塚少女歌劇は実はバレエ・リュス作品が元になった演目を何作品も上演しています。
例えば、宝塚を代表する唱歌、「すみれの花咲く頃」の作詞でも有名な白井鐵造の御伽歌劇、『金の羽』(1922年)は、鳥のバレエを作りたいと考えた白井が、バレエ・リュス『火の鳥』からインスピレーションを得た、と、『宝塚と私』(1967年)の中で述べています。
また、バレエ・リュス作品と同じタイトル、衣装、音楽を用い、振付の一部まで使用した作品として、楳茂都陸平の『牧神の午後』(1929年)、『薔薇の精』(1935年)などもあります。
『薔薇の精』の“振付は、フォオキン夫妻の型を基本とし、楳茂都先生の創意を加味されたもの”で、“舞台意匠とコスチュームは、かの有名なレオン・バアークストに依るもの”で、“舞台芸術を口にする人々は一見しなければならないもの”である、と、雑誌『歌劇』(宝塚に関する雑誌で、今なお続刊中)の1934年8月号に書かれています。(フォーキンとバクストは舞台鑑賞者にとって非常に特別な名前だったのだろうというのもわかります)
こちらが、フォーキンの振り付けによる、ニジンスキーとカルサヴィナの薔薇の精。
同じ衣装で同じようなポーズを取り入れていたのがわかりますね。
この、宝塚版の薔薇の精を作った楳茂都陸平は、上方舞の楳茂都流の家元で、宝塚音楽学校の教師兼振付師でした。
彼は、彼にとっての西洋舞踊の最初の先生は人間ではなく書物であり、ロシアン・バレーや近代バレーの原書が到着するたびに丸善に駆けつけた、と著書、『舞踊への招待』(1958)の中で述べています。
彼は実際のバレエ・リュスを観たわけではなく、書物からその知識を得て作品を作っていたというのですから、また驚きです。
この文献からは、当時の日本にはバレエ・リュスに関する本や雑誌の原著が流通していたこともわかりますね。
ヨーロッパ中を熱狂させたバレエ・リュスは、娯楽の殿堂、きらびやかで華やかな皆の憧れの的となる宝塚歌劇で求められた魅力、スペクタクル性を見事に備えていたのでしょう。
次回連載では、竹久夢二とバレエ・リュスについてご紹介します。
彼もまた、バレエ・リュスに関する雑誌や情報を熱心に集めていた一人だったのです。
お楽しみに。
(M.K.)
2013年8月15日
『結婚』花嫁・花婿役決定!
『結婚』の花嫁・花婿役が決定しました!
◆花嫁:本島美和(11/13,16)、湯川麻美子(11/15,17)
◆花婿:小口邦明(11/13,16)、福岡雄大(11/15,17)