シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

V シェイクスピアとジャンヌ・ダルク ―ナショナル・ヒストリーの曙― 佐藤賢一(作家)
2009年11月18日[水]

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こういったように一度は女王の失策やフランスの名君フィリップ二世が現れたりして、このイギリスはイギリス王が治める、フランスはフランス王が治めるという形が、13世紀末にはできたかなという感じにもなります。これで戦争をする必要はないかと思われるのですが、これがまた14世紀からまた戦争が起きてしまう。
それはどういうことかということで、再び百年戦争を振り返ってみたいと思います。
いわゆる百年戦争を始めたのは、イギリス王エドワード三世です。初めに少しふれましたように、直接のきっかけは相続問題でした。
フランス王の家系はフィリップ二世の家系で、その一門がずっと継いでいました。ところが15世紀初頭のフランス王フィリップ四世には3人息子がいましたが、それぞれ病気や事故で亡くなり、ここで初めて家系が絶えてしまいました。家系が絶えたといっても、王家の一族がいなくなったわけではないですから、分家のバロワ伯家というのがいたんですけど、ここのフィリップが分家の当主から本家の当主に格上げになった形で、フランス王位を継ぐ。それはありがちな話で進むわけなんですけど、それに異議を唱えたのがエドワード三世だったんですね。
それはどういう理屈かというと、自分の母イザベルがフランス王女であり、つまりフィリップ四世の王女であり、直系の孫である僕がいるのに、なぜ分家に王位がいって僕のところにこないんだという言い分なんですね。この異議申し立てで始めたのが百年戦争だったというわけです。
理屈としては通らなくはないんだけれども、よその国の話じゃないかという気もしますね。というのも、王女を迎えるのは、わりとヨーロッパのどの国でもしているんですね。ところが王女をもらったから、その国の相続権があると、そこで本気で戦争を起こそうと必ずしもしていない。そうすると、何でエドワード三世とやったのかなあと不思議に思うわけです。実は、エドワード三世は本気で王座を狙っていたわけではない。ノルマンディであるとかアンジューであるとか、アキテーヌであるとか、そういった領土を取り返したかっただけだという説もありますが、それにしても自分たちの先祖がもっていたアンジューやノルマンディを持っていたのは百年から二百年も昔の話ですから、それをまだしつこくやるのか、それもまた日本人の感覚では理解できないわけですね。
どうしたら理解できるのかということで最近言われているのが、実は究極的には感覚の問題ではないかというんですね。
つまりエドワード三世は、イギリス生まれでイギリスで暮らしているんですが、まだ自分はフランス人だと思っていたのではないか。なせかと言えば、大元に言葉の問題があったのではないかというのが最近言われています。というのはエドワード三世というのは普段はフランス語をしゃべっていたんですね。自分はエドワードじゃなくて、自分もフランス人だと思っていたのではないか。エドワード三世はイギリス王ですが、ふだんはフランス語を喋っていたんですね。自分のことはエドワードじゃなくて、エドワールというフランス語の名前で名乗っていたぐらいです。先祖がフランス人というだけじゃなくて、自分もフランス人だと思っていたんじゃないか。
どうしてこういう状態が生まれるのか。そこが、先ほどのノルマン朝の成立やプランタジネット朝の成立に非常に関わってくる話なわけです。
征服王ノルマンディ公ギョームに戻ると、自分が征服したイギリスについて、主従関係をきっちり明文化した資料を残しています。1085年の検地台帳を見るとどういう人間がイギリスの領主になったのかがわかります。王からの直接の領主が180人いて、そのうち昔からイギリスにいたアングロサクソン系の貴族はわずか6人、ほとんどのイギリスの領主、貴族はフランス人だったわけですね。
つまり、イギリスは王様から貴族まで支配階級がみんなフランス人だった。支配階級の言葉こそフランス語であり、英語は被支配階級、庶民の言葉でしかなかったといえるかと思うんです。そうすると、王様はあえて英語を喋りたいと思うわけがないんですね。自分はあくまでフランス人だ、貴族の言葉を喋るフランス人であって、いつかはフランスに帰りたいという気持ちがいつまでものこり続けるということがあったんじゃないかなあと言われています。

再び百年戦争に話を戻すと、エドワード三世はフランスに乗り込んで戦争を始めます。その長男ブラックプリンス、黒太子エドワードが大活躍するわけですね。それでイギリスは圧倒的な優位を占めるんですけど、話をもう一回翻ってフランスに注目したいんですね。
イギリスがいくらやる気だからと言って、フランスはそれにしても弱すぎるという気がするんです。兵数だけ見れば、イギリス軍はフランス軍の6分の1とか、ひどいときは10分の1程度しかなかった。それなのに、どうして大軍であるフランス軍はこんなに弱いのかという疑問が浮かびます。
簡単に言えば烏合の衆だったから、大軍の中身がバラバラでまとまっていなかったから。なぜまとまっていなかったのか。まずフランスの世界という意識が強かった。イギリス王もフランスに属しているんだ。「俺はフランス人だ」と言って、フランス貴族たちはフランスに属している意識が強いのですが、かっちりしたフランス王国と言う枠があったのかと言うと、そうではなかったといわれています。つまり、もっとゆるやかで漠然とした世界としてフランスはあったけれども、フランス王の号令一下、きちっと統率される組織としてのフランスという国はなかった。そうなりますと、フランス王が戦争をやると、王様の軍隊だからみんな、いざ鎌倉みたいなもので、兵隊を連れて出て来いと言うんだけれど、そんなこと命令されるいわれはないと、かつてイギリスが形ばかりのイギリス王であったように、お前も形ばかりのフランス王じゃないか、実は俺たちは自立的な勢力だし、誰にも命令されないという、みんな反骨の気持ちを持っていた。
実際イギリスが勝ったといっても、実はその中にはフランス人、かつてのイギリス王の旧領だったノルマンディ、ブルターニュ、フランドル、それからアキテーヌといった影響力のあるところの貴族はやっぱり多いんですけれども、多数のフランス人がイギリスの軍隊にも参加していて、それで自分は国を裏切ったという感覚もない。つまり国の感覚自体、フランスの場合も希薄だった。それがフランスの序盤の劣勢の原因かと思われます。それを中盤でフランスはいったん逆転すると言いましたよね、それは、シャルル五世の時代に逆転したんですけど、この人はなかなか名君でして、それだったらフランス軍は数に頼らなければいいじゃないか、もっとイギリスよりもコンパクトな軍団、自分達の言うことを聞く、フランス王にもっぱら仕える者だけ使えばいいんじゃないかということで、イギリスより小さな軍団を使って、フランスでも一二を争う名将と言われるディレクランという将軍がいたんですが、その人にコンパクトな軍団を預けてイギリス軍を次々破っていき、、見事な逆転を遂げたということがあったわけです。つまり、フランスは大国として勝ったんじゃなくて、小国として14世紀に勝っていく。それでイギリスはまたイギリスに閉じこもるしかない、引き上げるしかなくないということが14世紀末の時点で起きてしまうわけです。
その時に実際和平条約、休戦条約が結ばれますから、その当時の感覚としては、のちに百年戦争と呼ばれるようなものではなくて、実は50年戦争で終わっていたかもしれない。

ところが史実を見るとそれから15世紀にも戦争をしている、これはどういうことなのかということを次ぎに考えていきたいと思います。
14世紀、15世紀、百年戦争と一口に言ってしまいますが、ここで革命的な事件が起きていたことに話を脱線したいと思います。
大きく捉えると、ルネサンスということですね、文芸復興と呼ばれますけど、それが端的に現れるのが、実は言葉の革命だったんです。つまり俗語の勝利、書き言葉に対する話し言葉の勝利といわれるもので、中世ヨーロッパでは、イギリス、フランスにかかわらずどこの国も書き言葉はラテン語だったわけです。ラテン語は、古代ローマ帝国の公用語でした。それがカトリック教会で使われるようになりまして、このカトリック教会を経由して中世ヨーロッパに持ち込まれたわけです。文章を書くと言えば、中世ヨーロッパでは聖職者の仕事であり、いきおいラテン語が書き言葉として定着していく。書き言葉は、万国共有、翻訳者いらずなわけですから、国際組織カトリックに適した言語だったんですけれど、かたわらで、各国の人たちがしゃべっているのは、フランスはフランス語、イタリアはイタリア語だった。それが俗語ですが、俗語で書いたものはなかった。神様の言葉を俗語で書くのはおかしいとして、書き言葉はラテン語だと指導していた。一部の吟遊詩人の言葉を例外にして、書き言葉はラテン語でした。この書き言葉はラテン語という図式が崩れるのは、14世紀から始まっていくんですね。
最初は、ダンテの『新曲』が1321年、ラテン語ではなく、俗語イタリア語で書かれた。同じような動きが、フランスやイギリスでも見られるわけです。フランスでもフロワサールとう人が百年戦争の歴史をつぶさに記録した大年代記をフランス語で書かれています。
イギリスでは、1377年、宗教改革の先駆けとして有名なウィクリフという人が、ラテン語の聖書をみんなにわかるように英訳を提唱しました。さらに1400年、チョーサーという人が『カンタベリー物語』を初めから英語で書きました。
つまり俗語の勝利と言いますけれど、ここでイギリスの場合は、支配階級の言葉だったフランス語ではなくて、ラテン語に勝利したのは庶民の言葉である英語でした。ラテン語に勝利したのは英語だった。国語の誕生と言ったほうがいいかもしれない。14世紀末にイギリスでは英語がだんだん国語になっていく過程が見られるようになったと思います。これは、実は単に領地を増やすより革命的なことで、つまり人の意識まで変えていくわけです。イギリスでは、実際にフランス語を話していた貴族たちまで、この14世紀の末から15世紀にかけてどんどん英語を話すようになった。
過渡期には英語とフランス語の折衷だったと思いますが、いずれにせよフランス語はすあべらなくなって、みんなが英語をしゃべり始める。まさにルネサンスがヨーロッパ全体の動きとして徹底していく。
百年戦争に話を戻すと、ますますイギリスはイギリス、フランスはフランスでよさそうなものですが、戦争は続く。イギリスはイギリス、フランスはフランスで力強く歩き出すには、まだ何かが足りなかったということです。