シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

V シェイクスピアとジャンヌ・ダルク ―ナショナル・ヒストリーの曙― 佐藤賢一(作家)
2009年11月18日[水]

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それというのも、それじゃ同じ時代、16世紀、17世紀のフランスではというとですね、実は、ジャンヌ・ダルクのことをそんなに大事にしていないんですね。
ジャンヌ・ダルクは不人気だったと言うよりも、存在自体が、今日ほど知られていなかったわけです。ジャンヌ・ダルクが戦ったオルレアンと、出身地のドンレミ村、シャンパーニュの東のはずれで、ロレーヌの手前ですが、こういったごくごく限られた場所では確かに記憶されていたんですけど、それだけのことで、つまりは地方限定のアイドルでしかなかったんですね。フランス全土的にはジャンヌ・ダルクのことなどほとんど忘れてしまっていた。
忘れる忘れないでいうと、やっぱりやったほうより、やられたほう、つまりイギリスのほうが覚えているわけで、やったほうのフランスでは逆に、百年戦争の手柄をジャンヌ・ダルクに独り占めされてたまるものかという心理が働くわけですね。
「確かにいたかもしれないけれども、ほんとうにがんばったのは俺たちだよ」といった将軍がいたり、兵隊がいたりするわけですから。むしろ、ジャンヌ・ダルクなんていう存在は積極的に打ち消したい。そのぐらいの勢いだったのかなと思います。
フランスでは、ジャンヌ・ダルクを長い間知らなかった。イギリス人がジャンヌ・ダルクをシェイクスピアを通してこんなふうに知っていることさえ、大半のフランス人は長らく夢にも思わなかった。
じゃあシェイクスピアのフランスでの受け入れられ方はどうかと言いますと、これは19世紀になってからなんですね。フランスの文豪ビクトル・ユゴーの息子がシェイクスピア全集のフランス語訳を出して、ここで初めてフランスでもシェイクスピアが受け入れられ始めました。ですから、リアルタイムの16世紀17世紀では、フランスはジャンヌ・ダルクを知らなかった。19世紀になってから知った。じゃあ、19世紀になってシェイクスピアが衝撃をもって受け入れられたかと言うと、これがまた微妙な話です。

実はジャンヌ・ダルクがフランスで受け入れられたのは、19世紀の初めの話なんですね。ジャンヌ・ダルクを取り上げてさかんにキャンペーンをしたのは誰かというと、ナポレオン・ボナパルトだったんですね。正確に日付がわかっていまして、1803年、フランス皇帝になる前の年なんですけど、『モニトゥール』という雑誌を使って、いってみればジャンヌ・ダルク特集みたいなものを組ませて、フランス全土的にこういう救世主がいたんだよということを広めたわけです。故意に宣伝したわけです。それは、ほかでもないフランスというのは救世主が現れる国、現代の救世主というのは私だとだから僕(ナポレオン・ボナパルト)はフランス皇帝になってもいいでしょうとアピールした。
つまり、まさに1803年以降になって、ようやくジャンヌ・ダルクというのがフランスに認められた。そのあと、なるほどイギリスからシェイクスピアが入ってくれば、シェイクスピアも知っているじゃないかと。さらに、ジャンヌ・ダルクとは、バチカンが認めた聖女ですね。それも1920年、20世紀に入ってからの話なわけです。
ジャンヌ・ダルクは、実は15世紀に出た人で、ずっとアイドルだったわけではなく、むしろかなりあと、19世紀になってからフランスのアイドルとして、ある意味で作られたような歴史だということも認めなければならないのかなと思います。

では、ジャンヌをどう評価したらいいのかという話になってきます。
これはもう作られた歴史だから無視していいんだという暴言をはくつもりもありませんけれど、だからといってもう一度15世紀の昔に立ち返って、救世主としての大活躍を評価すべきだとか、あるいはフランスに対する勝利への貢献度そのものをしっかりはかってみるべきだとか、そういうことを訴える気も僕はありません。
というのもジャンヌ・ダルクが意義深いのは、むしろ同じ時代、15世紀に生きた名も無き民衆の代弁者だったからではないか、というのが僕の考え方だからです。
つまり「フランスを救え!」という叫びが、この場合のキーワードになるかなと。
こちらのジャンヌ・ダルクが「フランスを救え!」と叫べば、あちらのシェイクスピアはイギリス賛美、イギリス擁護、イギリス万歳に貫かれた作風で歴史劇を仕立てる。ジャンヌ・ダルクとシェイクスピア、こんなに悪く書きながら、この二人はイギリス、フランス両方の国の側も立場は違えど、実は同じような立場、対の関係にある二人ではないかと僕は思うわけです。
そういうと、国粋的な響きがありますし、嫌だなと思われる方もいるかもしれませんけど、つまり、ここで問題にしたいのは国粋主義とか国民意識とか、国民国家とか、そういう感覚自体がいつ生まれたんだろうという話なわけです。