シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

III シェイクスピアの時代に歌舞伎は何を描いたのか? 古井戸秀夫(歌舞伎研究家)
2009年11月11日[水]

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図(8)  図(6)

図(5)大詰で代表的なのが、【図(8)】の『不動』です。成田山の不動明王が出現する芝居です。これを1773年の絵を出しておきましたけど、真ん中の中央上にいるのが不動明王です。二代目市川團十郎は不動明王に祈願して生まれた子なんで、代々不動さんを信仰しているんですね。ですから屋号を「成田屋」です。
その不動明王が現れたところなんですけど、その前に2人の勇者がいます。片方が善人方、片方が悪人方、代表的な場面になると両方が馬に乗って出てくるそうです。悪者の大将が馬に乗って出てきて、善人の大将も馬に乗って出てきて、一騎打ちをする。『ヘンリー六世』にもたくさんの一騎打ちがありましたね。『ヘンリー六世』では必ずどっちが勝ってどっちが負けますよね。
歌舞伎は違うんです。いざ一騎打ちをしようという時に、この不動明王が出てきて、台詞は決まっているんです。「やみなん、やみなん」と言います。「やめなさい、やめなさい。けんかしゃだめよ」ということです。そして本来なら善人のほうが勝って、悪人はやられちゃうんですけど、ここでは悪人を守るんです。そして、善人方に向かって「これからもあなたたちのことをずっと見守っていますよ」と言います。そうすると妙なる音楽が聞こえてきまして、同時に五色の雲、五雲というのが現れて、空からは花が散ってくる。これを仏教のほうでは散華と言っていますね。この散る華、華といいましても、歌舞伎で使うような紙のひらひら落ちてくる花じゃございませんよ。丸い極彩色の曼荼羅を描いたものがちらちら落ちてくる。こういう形で大詰を終えるんです。

図(7)ですからみなさんのなかには、歌舞伎はどうせ時代劇だから最後になると善人が勝って悪人が滅ぼされる、勧善懲悪なんだろうと、お思いになっているんじゃございませんか。違うんですよ。やられるのは小さな敵役だけなんです。【図(7)】を見てください。
これは、篠塚五郎という英雄が悪者たちと戦っているところですが、首がいくつも飛び散っていますね。みんなこれは名もない兵卒ばかりなんです、巨悪は滅びないんです(笑)。巨悪は一番目の終わりで生き残って、二番目になると甦ってくるんです。生きたまま甦ることもありますし、亡霊になって人に取り憑いたりします。こいつらが悪いことをさんざんするわけです。いじめにいじめにいじめ抜いて、善人たちがじっと我慢して、最後になって善人が勝つかなあと思うと、「やみなん、やみなん」と出てきます(笑)。民主的でしょ。そんな簡単に善人が栄えたりするがずはないんだ。世の中には、善人もいれば悪人もいるんだ、それが全部で社会というものを構成しているんだ。
これがひとつの社会の中に住んでいる役者と見物人と、そのなかにつくられている共同体のあり方なんですね。
ですから、出雲のお国の時には政治は将軍に任せろ、その政治で傷ついた人たちの心を歌や踊りでちょっとだけ、忘れさせてあげるよう。それで明日に生きる喜びを与えてあげよう。それが、成熟した社会になってくると、政治は政治であると同時に、今度は自分たちの社会を自分たちでどうつくるのか、そういうものを一緒に考えていく場になっているんだろうと思います。

はたしてシェイクスピアの時代に、シェイクスピアはどんなふうに歴史を考えて歴史劇をつくったんでしょうか。そしてそれが、ずっと今日まで語り継がれて、今われわれは、シェイクスピアにどんなものを憧れとしてもっているのでしょうか。
私は『ヘンリー六世』を観ながら、そんなことを考えていました。
ちょうど時間がまいりました。私も本日は「これ切り」にさせていただきたいと思います(拍手)。