シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

II シェイクスピアは『ヘンリー六世』で何を書いたか? 松岡和子(翻訳家)
2009年11月5日[木]

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もうひとつ強烈なイメージがでてくる。切り落とされた首です。これはもう本当に第一部から二部三部と、プロットが進行していくにつれてどんどん残虐、残酷、流血の惨事が多くなります。
何しろヘンリー六世の暗殺が最後の場面の一つ前のシーンですからね。ほとんどそれで終わるといっていいくらいのお芝居になっていますから、いわば血みどろの残酷劇といってもいい。
実際に切り落とされた首がこんなに出てくるお芝居は、シェイクスピア劇の中でもほかにないんじゃないかと思います。例えば一番強烈なのが、愛人サフォークの首をかかえたマーガレットですよね。もうグロテスクすれすれという感じです。それから、今回の舞台でも長いポールの先につくりものですけど、2本首が突き刺してあってそれをキスさせるというような、これもブラックでグロテスクというシーンが出てくる。元財務長官のセイという貴族と娘婿の首です。それから反乱を起こしたジャック・ケイドの首も王様の前に献上されるし、サマセットの首をリチャードが見せびらかして、「ヘンリーの首もこうしてもやりたい」と、新国立劇場版ではトンと床に置くけれども、もしかしたら髪の毛をもって振り回すという動作だったんじゃないかなというふうに思います。
それから極めつけが、ヨーク公爵の首ですね。紙の王冠をかぶされてさんざん愚弄され、しかもその前に、自分の愛息子ラトランドの血にひたされたハンカチで涙をぬぐえと言われ、その挙げ句に首を斬り落とされ、その首がヨーク市の城門の上にさらされる。

それだけじゃなくて、これ面白いっていっちゃいけないんですけど、こういう書き方もするのかというイメージがあるんで、ちょっと読んでみます。
これはマーガレットとエリナーという、実際に首を斬るという残虐な行為はしないけれども、もしも男なら実際にやっただろうというようなことを思わせる。エリナーが呪術師とか巫女を呼んで来て、占いをさせる時に、グロスターがセント・オールバンズに鷹狩りに同行しろという国王王妃のご下命があったと、自分は行くけれど、お前も来るかと、で、「あとから行きます」と返事をする。「あとから行くしかない、先に行くことはできないんだから」という、これも有名なエリナーのセリフですけれども、それに続くのが、「私が男で、公爵で、王の血筋に近ければ、ああいう小うるさい邪魔者をきれいに片付け、首から下だけが並ぶ平らな道をすいすい歩いて行くのだけれど」というふうに訳したんですけど、要するにイメージは、頭がついている人間が並ぶと凸凹していますよね、でもそれをさーっと斬っちゃえば首から下だけが並んでるわけだから、平らというね、まあ何という残酷な、という感じなんだけれども、なかなか強烈なインパクトをもったイメージです。
それから似たようなイメージをマーガレットも言います。
これは王妃マーガレットがグロスター伯爵を刺したあと、亡きものにしてしまえというようなことを言う文脈の中で出てきます。
グロスターのことを王様が弁護すると、「ああ、こういう愚かな身びいきほど危険なものがあるだろうか」というようなことを言って、「用心なさい、陛下、私たちすべての安寧はあの裏切り者の背丈を頭ひとつ分低くすることにかかっているのです」という言い方なのね。
これも言い方はちょっと凝ってるけれど、やはり首をはねてしまえという趣旨です。

こういうふうに「首」ひとつとっても、言葉のうえから実際の舞台に出てくるものにいたるまで、ものすごく残酷なんだけれども、このお芝居の面白さというか、さすがシェイクスピアだと思わせるのは、その中に笑いというか、喜劇性を盛り込んでいるということです。それは、例えば、ニセ盲人の奇跡の話だとか、それからさっきも対決のところでちょっと挙げた武具職人のホーナーと徒弟のやり取り、腰抜け同士の決闘だとか、そういうことがあると思います。
あとやっぱりアイロニーだなあと思うのは、同じ場面で陳情者たちが摂政のグロスターにいろいろ訴えようと思ったら、間違えちゃってサフォークとマーガレットに陳情書を読まれちゃうところがありますよね。あそこで一人が自分の財産から自分の女房から全部もってかれちゃったんで、それを訴えようと思ってるんだって言うと、サフォークが「それは確かにひどい」と言うんだけど、そのサフォークが現に王妃様を王様から寝取ってるわけで、こういうところもチクっとした、フフッと笑わせるようなアイロニーを効かせてあるなあと思います。

そういう残酷さと裏腹というか、喜劇的なものに転換する面白さも、この芝居の特徴の一つだと思うんですけど、あと人間一人ひとりに対しても、非常に残酷で、私たち観客、読者の反感というのか、ほとんど嫌悪感に近いような感情をどんどん盛りたてておきながら、最後の最後になってパッと共感に変えるという、そのあたりのテクニックというのかな、人間を相対的に見る目っていうんですかね、そのあたりもシェイクスピアは早くもこのお芝居で獲得していると思う。それは、マーガレットとサフォークをさんざん悪役としてこれでもかこれでもかと書いていきながら、最後の最後で、別れの場面ですね、もうあそこは、本当に『ロミオとジュリエット』のあの衣衣(きぬぎぬ)の別れの場にも匹敵するくらい、言葉がきれいですし、2人がどれだけ深く愛し合っていて、生木を裂かれるような思いをしているかという辛さが一行一行に込められていると思う。
エリナーもそうですよね。ちょっと困った女性だなあ、この人は、って思わせておきながら、最後、マン島に追放される、国内追放される刑を受けた時の、グロスターとの別れの場面のエリナーの言葉というのも非常に心にしみるものをもっている。
シェイクスピアは何か一方的に、この人物はこういうイメージだと、それを固定することはしないんですね。必ずどこかでそれを修正したり、違うレベルのところにもっていたりということをしている。