シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

II シェイクスピアは『ヘンリー六世』で何を書いたか? 松岡和子(翻訳家)
2009年11月5日[木]

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【出来事】
『ヘンリー六世』に描かれているものは、さまざまな対立、これが上から下までなんですね。 第一部ではイングランド対フランスの対立が描かれ、第二部第三部では、舞台がほぼ全面的にイングランド国内になって、ヨーク家とランカスター家の対立が描かれます。上が対立すると、その影響が下々にまで及んでみんなが巻き添えを食ってしまうところが、ひとつ大きいポイントですね。
シェイクスピアの芝居というのは、悲劇であれ、喜劇であれ、それから歴史劇であれ、また時代と場所をどこにとろうが、上は王様、王侯貴族から、下は一般庶民までをだいたい包括している、ピラミッドの各階層が全部描かれているというのが特徴ですけど、そこがすごいところというか、面白いところです。この戦争を含む対立というのも、上から下までです。

第一部のイングランド対フランスの対立は、トールボットとジャンヌ・ダルクの戦いに象徴されるわけですね。第二部第三部では、例えば、最初からウィンチェスターの司教対グロスター、貴族階級対平民・庶民、これは、ジャック・ケイドの乱で面白く描かれる。下の身分の最たるものが、武具職人の親方ホーナーとその徒弟ピーターが決闘で黒白をつけるように追い込まれるくだりだけれども、それだってやはり親方が正統な王位継承者がヨーク公爵だと言った言わないということが争点になるわけですから、巻き込まれたのもいいところです。

もうひとつ大きなポイントは、世代の交代です。ヘンリー五世とトールボットに代表される英雄時代の終わり。あとは、本当に大貴族といっても、全国民の称賛を一身に集めるというような、そういう英雄的な王様、それから英雄的な将軍が出てくる時代はもう終わっちゃった。 これも私は、いろいろ史料を調べていて初めて知ったし、この劇の中でも描かれているんですけれども、ヘンリー六世というのは、自ら戦場で戦うことのなかった初めての王だそうです。それまでの王はみんな、そしてその後もリチャード三世もヘンリー七世も自分で剣をとっていました。ヘンリー六世にはそういう経験がなくて、その意味でも何かにつけて国民的英雄のヘンリー五世、お父さんと比較されるわけです。この一点をとっても非常に父王と対照的な王だったということがわかるんじゃないか。

あとは、歴史は繰り返すというところも面白く描かれていると思います。第一部から第二部にかけては、ヘンリー六世の結婚が一つの大きなテーマになっています。最初はアルマニャック伯爵の令嬢というか、お姫様を妃にするという話が進みかけているときに、サフォークがマーガレットに一目惚れしちゃって、彼女を自分の愛人にしつつ、うまく事を運ぼうと、結局ヘンリー六世の妃はレニエの娘であるマーガレットになってしまいます。
それと似たようなことが、今度はエドワード四世の妃選びの時にも起こるわけですね。第一部でフランス国王だったシャルルは亡くなっていて、次のルイ十一世の代になっていんですけど、ルイ十一世の妃の妹であるボーナ姫とエドワード四世を結婚させようと、ウォリックがわざわざ海を超えてフランスまで行きます。その間にエドワード四世はマーガレットたちによって没収されてしまった夫の領土を返してほしいと請願に来たグレイ夫人に一目惚れして、彼女と結婚してしまう。何か似たようなことを繰り返して、それが大いなる禍根になって国家を脅かすという構造になっています。
国家を脅かすということで面白いなと思うのは、ジャンヌもマーガレットもフランスの女性なわけです。片や武器をとって外から、つまりフランスでの戦争で戦うことによってイングランドを脅かすフランス女性がジャンヌ・ダルク。他方、脅かそうという意図は全然ないんだけれども、ヘンリー六世のお妃になったマーガレット、彼女も芝居を観ればおわかりのように非常に野心家ですよね、そのフランス女性がお妃になることによって内側からイングランドの国家を脅かす。この構図もなかなか面白くて、見事な企みだと思います。

トールボット対ジャンヌ・ダルクということを申しましたけれど、これと、レジメで【材源の駆使】という項目を立てましたが、シェイクスピアは「出会うはずのない人物たちを出会わせ、対決させる」。例えばトールボットとジャンヌ、マーガレットとエリナーというふうに書きましたが、そこの話をちょっと先にします。時間が限られていますから、あまり自分で組み立てた順序にこだわっていると、ちょうどおいしいものをあとで食べようと思っていて、おなかがいっぱいになっちゃって食べずに終わっちゃったということが結構あるので(笑)、おいしいものはさっさと食べちゃうという方針で、いきたいと思います。
私が翻訳しながら、つくづく感じたのは、もちろん言葉のすごさもあるんだけれども、シェイクスピアがいかにソース、材源とした歴史書、ホリンシェッドとかホールとか、いずれ学者の先生がここでお話してくださると思いますが、彼らの書いた年代記を読み込んで、いったいヘンリー六世の治世には、何年から何年までにどういうことがいつ起こって、誰と誰が対決したかというのを、全部自家薬籠中のものとして、そのうえで嘘をつくんですね。そこが見事だなあと思います。
私は実は、ちくま文庫版の『ヘンリー六世』の巻末に年表を入れたんですけれど、それは歴史年表を上に書いて、その下のコラムのところにシェイクスピアがこの劇の中の何幕何場でそのことを描いているかというのを対照させたものです。最初から、この本にこれを入れようと思ってつくったんじゃなくて、今申し上げたように翻訳してる時に、原文テキストの脚注に実際にはこうだと書いてあったり、あれ?この事件ってこの時点で起こってるのかしらというふうに疑問に思ったり、面白いなと思ったりしたことがあったものですから──そこが今コンピュータを使って翻訳しているとありがたいことで、自分の翻訳のファイルと、年表のファイルが、いつでもクリックするとすぐ出てくるようにしておいて、どんどん書いていったんですね。それは、あくまでも自分の興味のためだったんだけれど、あまりにも巧みにシェイクスピアがぬけぬけと確信犯的に嘘をつくことのすごさに感銘を受けてしまったので、この本の最後にもいれようというふうに編集者と相談して載せることにしました。