現代戯曲研究会

座談会 連続3回掲載その(2)
いま、同時代演劇とは?

小田島恒志 佐藤 康 新野守広 平川大作 鵜山 仁(進行)

古典の再解釈から生まれるもの

佐藤●フランスでは、80年代の始まりぐらいに、演出家が古典を再解釈するという演劇の意義が問われ始めました。演出家が古典を再解釈するといっても、横にはドラマトゥルクがついているわけです。アカデミズムと演劇現場を結ぶ理論的な読解役です。その背景には、精神分析とマルキシズムという2つの武器があって、だいたいどちらかを使って分析する。こういうドラマトゥルクの力を借りて演出家が表象化する。このシステムは、演出家が複雑な謎々を観客に解かせているだけで、本来のブレヒティズムがもっていた多様な意味を産出する力としての演劇というものの姿からほど遠くなっているんじゃないかと問われ始めた。これだけ知的な仕掛けをしましたよ、正解はこれですよ、インテリたちよ、解きなさい、と現場と批評の関係がそうなってしまった。一義的な作品の世界は窮屈でしょうがない。80年代以降、演出家の演劇には反乱が起きるんですね。それまでのように巨大なシステムの頂点に演出家がいるのではなく、演出家はコーディネーターでしかなくなってくる。俳優にも自由度がある。音楽家や美術家や舞台を作るスタッフのコーディネーターとして演出家はふるまう。そうすることで、舞台がハイブリッドなものの出会いの場になっていく。そのような演劇を構成するものの一つとして「演劇テクスト」がある。構成要素の一つとしての「演劇テクスト」を作家が書き始める。これが80年代以降のフランス演劇の大きな特徴です。戯曲そのものが一つの作品世界を完成させているのではない。俳優の身体があったり、音楽があったり、美術があったり、演出という作業があり、それらを総合する場所として劇場や演劇を考えていこうというのが、80年代に始まった流れだと思います。このような流れのなかで戯曲はそれまでのものとは違う様相を呈してくる。ここに一つの完成された世界があるのだと見てしまうと、なんだかよくわからないものになってきます。

鵜山●アメリカの場合、「68・9年」は公民権運動と結びついていた。日本とヨーロッパの「見ると聞くとは大違い」のギャップの一つとして、アメリカやヨーロッパの劇場に行って、どうして客席にこんなに黒人がいないんだろうと驚いた記憶があります。かなり先鋭的に人種問題にかかわった芝居を上演しているのに、観ているのは白人ばかりでした。

小田島●それは僕もイギリスですごく感じましたね。例えば『オセロー』を黒人が演じるということで、あたりまえのように上演されるようになったのに、観ているのは白人ばかり。

鵜山●いまだにそうなんですか?

小田島●そうだったのが80年代です。いまはがらっと変わりました。黒人をバカにするセリフを客席で黒人たちが笑って見ている、なんてこともドンマー・ウェアハウス劇場なんかでは普通に見られる光景です。