英国のヴェテラン演出家グラハム・ヴィックは40年近く第一線で活躍しており、そのプロダクションはスカラ座、メトロポリタン歌劇場、英国ロイヤル・オペラ、ヴェローナ音楽祭、ブレゲンツ音楽祭など、世界の主要な歌劇場および音楽祭で多くの観客を魅了してきた。日本でもこれまでサイトウ・キネン・フェスティバルでの「道楽者のなりゆき」(1995年)やスカラ座の来日公演での「マクベス」(2003年)などで、彼のプロダクションをご覧になった方もいらっしゃることだろう。
これだけ多くのプロダクションを制作しているヴィックなので、その演出手法もとても多面的で、彼のスタイルについて一言で語ることは難しい。1980~90年代の英国において、彼は「ラディカル」な演出家として知られてきた。ただ彼の場合は最近のヨーロッパで「ラディカル」とされるビエイトやグート、ヘアハイムのように、つねに大胆な読み替えで観客の意表をつく手法というよりも、各々の劇場とその観客を考慮した上で、ときにはヴィジュアルなスペクタクルであっと驚かせたり、またときには観客にとって身近な社会に設定を置き替えて人々に熟考を迫ったりと、現代社会におけるオペラの意味をつねに問うている。たとえば最近では、ロッシーニ・オペラ・フェスティバルにおけるロッシーニの「エジプトのモーゼ」(2011年)において、モーゼをテロリストのビン・ラディンを想起させる設定にして物議を醸した。
こうした世界の一流の歌劇場での仕事と並行して、ヴィックがもっとも力を注いできたのは、母国の地方オペラ、バーミンガム・オペラ・カンパニーの活動である。彼は一昨年、あるオペラ誌のインタビューに答えて、「私の使命は、オペラをコミュニティや社会に根差したものにすること」であり、「高級な花屋でしか花を買わない客に温室の蘭のようなオペラを提供することではない」と語っており、オペラをより広い層に定着させることを使命としてきた。
地元密着型のバーミンガム・オペラ・カンパニーは、敢えて本拠地の劇場を持たず、毎年、市内のさまざまな大型の建物(たとえば体育館や倉庫など)を舞台にし、市民にオペラを身近なものとして肌で体験してもらおうと活動を続けている。昨夏はロンドン2012フェスティバルで、ヘリコプター弦楽四重奏曲で知られるシュトックハウゼンの大作「リヒト」からの「水曜日」を世界初演したことでも有名になった。
その中で、ヴィックがバーミンガムで2010年に演出したヴェルディの「オテロ」は特に印象に残っている。廃屋となった工場という体育館のようなスペースで上演され、地元の人々を合唱やダンサーとして起用、さらに観客もヴェネツィア人として演出に参加し、単なる傍観者ではなく、ひとりひとりがオテロとデズデーモナの運命に関わっていることを体験できる特別なプロダクションであった。
さて、今回の新国立劇場の「ナブッコ」は、グラハム・ヴィックにとって日本のオペラハウスのための初のオリジナルの演出となることから、現代の日本の社会を意識したプロダクションにしたい、と意気込みを見せている。どんな演出になるにせよ、ヴィックはこのオペラを旧約聖書のバビロニアの物語としてではなく、現代に生きる私たちの物語として提示してくれることを確信している。