SKIP

COLUMN

AN INVITATION TO
GREEK TRAGEDY
Yamagata Harue

第一回 『ギリシャ悲劇』とは

第二回 『オレステイア』とは

第三回 アイク版『オレステイア』とは

YAMAGATA Harue

ギリシャ悲劇研究家、翻訳家。日本大学教授。

津田塾大学英文科卒業。早稲田大学大学院博士課程満期修了。ギリシャ政府給費留学生としてアテネ大学大学院に留学。著書に『ギリシャ悲劇 古代と現代のはざまで』『古代ギリシャ悲劇観劇ガイドブック』『ギリシャ悲劇大全』など。04年『エレクトラ』の翻訳で第11回湯浅芳子賞、翻訳・脚色部門受賞。2011年度AICT演劇評論家協会賞受賞。

〒151-0071 東京都渋谷区本町1丁目1番1号
TEL : 03-5351-3011(代表)

京王新線(都営新宿線乗入)「初台駅」/
中央口(新国立劇場口)直結。
2018/2019シーズン・特別支援企業グループ
  • ONWARD
  • KAO
  • TBS
  • TOYOTA
  • ぴあ
  • HITACHI
当サイトに関する内容一切の無断転載及び使用を禁じます。
COPYRIGHT © NEW NATIONAL
THEATRE, TOKYO. ALL RIGHTS RESERVED.

THE FIRST

「ギリシャ悲劇」とは、前5世紀に都市国家アテネで最盛期を迎えた世界最古の演劇である。劇の上演は、酒神ディオニュソスの大祭で行なわれる神への奉納行事だった。祭り全体を運営するのは国家だが、上演費用は富裕市民が任命制で負担し、演者を含め舞台制作全般は市民が輪番制で担当。厳選された3人の劇詩人が各々4本の劇を3日間かけて披露して優勝を競う。この演劇祭の実施は国家の政務を司る執政官にとって最も重要な任務であり、上演に直接携わる市民にとっては神聖かつ名誉な公共奉仕だった。

前5世紀前半、ギリシャ連合軍はペルシャ帝国の侵攻を2度食い止めた。だが帝国の脅威は去らず、備えが必要だった。対ペルシャ戦争で主導的立場に躍進したアテネにとって、演劇祭は市民の結束力と愛国心を高め、アテネの文化力と経済力を内外に誇示する絶好の機会となった。国を挙げての、この一大イベントには、外国からも多くの見物客が訪れた。こうした国内外の観客約2万人を擁する野外劇場で不朽の名声を得たのが、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの三大悲劇詩人である。2400年の時を経て生き残った彼らの計32篇こそ、我々がいま「ギリシャ悲劇」と呼んでいる演劇なのだ。

ギリシャ悲劇最大の特徴

当時のアテネの国制は直接民主制であり、すべての国事は全市民が参加する民会で決められた。民会を主導・執行する500人の評議員は毎年抽選で選ばれ、市民全員が公平に平等にこの公職に就いた。こうした等質的な社会を舞台に反映させた登場人物が「コロス」である。神々や英雄、王族や将軍を主人公とする物語に、彼らは「集団役」として参加した。例えば、アイスキュロス作『オレステイア(三部作)』の第一部では「アルゴスの長老たち」として王妃の行為を非難し、第二部では主人公の姉弟の仇討ちに「奴隷女たち」の立場で加担し、第三部では主人公の罪を糾弾する「復讐の女神たち」を演じる。

物語に関与するだけではない。コロスは劇の始めに登場し、物語の展開と結末をすべて見届け、最後に退場する「目撃証人」である。また物語の背景や状況を説明する「解説者」であり、観客の気持ちや第三者的な意見、作者の思想の「代弁者」でもある。コロスはこうした内容を物語の展開の合い間に歌い踊る。演じる者も見る者も、合唱舞踊の熱狂の中で共同体への帰属意識と連帯感に陶酔した。ギリシャ悲劇最大の特徴は、この変幻自在で多機能をもつ「コロス」だといえよう。

現代上演を阻むコロス

ギリシャ悲劇は読めばなかなかおもしろい。だが見ておもしろい舞台はなかなかない。理由はコロスの処理にある。『オレステイア』のコロスは12人だが、この集団を初演時と等しく機能させるためには、直径20m以上の円形舞台が必要だ。さらに当時の観客の熱気まで再現しようとすれば、少なくとも1万人以上の客席が要る。いずれも現代の一般的な室内劇場では不可能に近い。そこでほとんどの場合、コロスの人数は物理的・経済的理由で削減される。だがコロスはアテネ市民の集団的エネルギーの象徴である。半数以下の人員で集団の活力を表現するのはむずかしい。しかも現代的リアリズムの舞台では、コロスの存在は不条理すぎて違和感が残る。

ではいっそのこと、コロスそのものをカットしてはどうか。だがそれは、果たして「ギリシャ悲劇」と言えるのだろうか。R.アイク作『オレステイア』が挑んだのは、まさにその「集団役が登場しないギリシャ悲劇」なのである。

第二回 『オレステイア』とは

第三回 アイク版『オレステイア』とは

THE SECOND

オレステスに殺害されるアイギストス

『オレステイア』とは「オレステスの悲劇」の意で、『アガメムノン』『供養する女たち』『慈悲深い女神たち』の3作(三部作)から成る。アイスキュロスは、これらの作品と関連する題材のサテュロス劇(一種の軽喜劇)とともに、前458年にディオニュソス大祭で上演し優勝した。

『オレステイア』は、アトレウス王家の家族間で起こった殺人事件を題材とする。第一部で母に父を殺されたオレステスが、第二部で母を殺して父の仇討ちを果たし、第三部でその罪を裁かれる。だがそもそも第一部の事件は、父が娘(オレステスの姉)を殺したことに起因する。その経緯はエウリピデス作『アウリスのイピゲネイア』で描かれている。R.アイクはこの悲劇を加えた4作品を包括して『オレステイア』とした。事件の因果関係を理解するには、確かにその方がわかりやすい。ではなぜアイスキュロスはそうしなかったのか。当時は「悲劇3本とサテュロス劇1本」という上演規定があったからだ。それなら、「姉の死・父の死・母の死」で三部作にすればいい。だが彼は最初の事件を省き、裁判劇に代えた。つまり、アイスキュロスの意図は、復讐の発端より復讐の連鎖の結末を描くことにあったと言えよう。第三部の法廷の場こそ、『オレステイア』の本質なのである。

アトレウス家の悲劇

発端となった出来事は2つある。1つはアルゴスの王位継承争いだ。弟テュエステスは兄アトレウスの妻と関係を持つことで優位に立ったが、結局は兄が王位に就き弟を追放する。だが姦通の事実を知った時、兄は報復として、弟を「和解の宴」に招き、弟の息子2人の肉で作った料理でもてなす。知らずに我が子の肉を喰った弟は、兄を怨み復讐を誓う。そこで神託の指示どおり、実の娘と交わり息子アイギストスをもうけた。

もう1つの出来事はトロイア出陣時の天候である。父アトレウスの後を継いで王となったアガメムノンは、ギリシャ連合軍の総大将となる。だが出航準備が整っても、順風は吹かない。出発延期が長引くにつれ人々の苛立ちは募る。ついにアガメムノンは神託の指示どおり、長女イピゲネイアを生贄に捧げてしまう。風は吹き、出陣は叶い、時間はかかったが戦争にも勝った。だが妻のクリュタイメストラは娘を殺した夫を許せない。彼女は利害が一致するアイギストスと情を通じ、戦争から戻った夫を殺して娘の仇を討つ。その7年後、今度は息子のオレステスが姉エレクトラの助力を得て、母とその愛人を殺し父の復讐を遂げる。

現代上演を阻む結末

クリュタイメストラの死後、彼女の呪いを代行する「復讐の女神たち」が現われ、母殺しの罪を自らの命で贖えとオレステスに迫る。怯える彼に神アポロンは告げる。「アテネで裁判を受けよ」。こうして、オレステスを被告とした裁判が始まる。裁判長は女神アテナ、告発者は復讐の女神たち、弁護人はアポロン。アテネ市民が陪審員を務める。神と人間が混在する法廷。この現実離れした設定は神と人間の距離の近さを物語る。

オレステスと復讐の女神たち

判決は無罪。理由は「子の親は父のみ。よって、本件は『親殺し』ではなく『親』を殺した者への報復であり、正当な行為」だから。この理不尽な論理に現代の観客は啞然とする。しかも陪審員の票は同数でアテナの一票で結審した。なぜ彼女は無罪票を入れたのか。「私も親は父だけだから、父親に味方する」。確かに、アテナは父ゼウスの頭から産まれた。この意表を突く論拠に古代の客は拍手喝采しただろう。だが現代の客の共感は得られない。結局、『オレステイア』は父権制社会でしか通用しない神話劇という印象を残して終わることが多い。

では現代でも成立する裁判シーン、共感できる現実的な結末とは何か。R.アイクが提示する『オレステイア』の結末は、観客にどんな印象を与えるのだろう。

第一回 『ギリシャ悲劇』とは

第三回 アイク版『オレステイア』とは

THE THIRD

コロスと三人俳優制度

アイク版『オレステイア』は古代劇の劇作法を踏まえたうえで変換している。例えば、コロスは集団で1つの役を演じる登場人物だが、物語の目撃証人でもあり観客の代表でもある。劇の合い間に行われる合唱舞踊は、物語を中断する異化的な効果もある。アイク版のコロスは「女医」だ。劇の前半でオレステスの過去を演じる再現劇を観客目線で見る彼女は、後半では完全に登場人物の一人となる。女医とオレステスが劇を見ながら時々言葉を挟む設定は、現在が過去に介入することで異化効果を生む。

3人の俳優が全役を演じる古代劇の様式には、劇中劇を使って役を兼ねる仕掛けで応じる。原作では第1俳優がアガメムノン・アイギストス・オレステスを、第2俳優がクリュタイメストラ・エレクトラ・アポロン神を演じ、第3俳優はトロイアの王女カッサンドラ・侍女キリッサ・アテナ女神ほか複数の役を担当した。つまり、殺された父と父の仇討ちをする息子を同じ俳優が演じ、夫を殺す妻を演じた俳優が、彼女を殺して復讐せよと命じる神として登場したのである。配役の妙に、つい深読みしたくなるが、兼ねる役はあくまで物理的な理由が最優先された。アイク版では再現劇を演じた俳優たちが役を代えて裁判劇を演じる。こちらはもちろん意図的な配役なので、深読みの楽しみがある。

サフラン色のドレス

原作の手法を応用して新たな場面を創る試みもある。例えば、戦地から戻った夫の目の前に、クリュタイメストラは深紅の絨毯を敷いて歩かせようとする。だがそれは2000個の貝から1gしか採れない染料で染めた高価で神聖な敷物だ。踏むのは畏れ多いとためらう夫に彼女は言う。「富を誇る大国を征服した偉大な将軍にふさわしい待遇です」。深紅の道を歩くアガメムノンは血の海を渡っているように見える。この後、彼は風呂場で妻に惨殺され血色の湯に浮かぶ。原作の「絨毯の場」はこれから起こる殺人を予兆させる場面として有名だ。

一方、アイクは、劇中で殺される2人の少女、イピゲネイアとカッサンドラの衣裳を「サフラン色のドレス」と指示している。サフランとは世界一高価なスパイスの一つで、1g採るのに170個の花が必要だという。古代ギリシャ人はこれを栽培し染料として使用していた。アリストファネス喜劇に頻出する「サフラン色(明るい黄色)の衣」は良家の女性の衣裳だった。この色のドレスは少女たちの家柄や共通の境遇を示すだけではない。彼女らの死後、別の登場人物が着ることで、意外な事実が発覚する。色を用いた劇的場面が新たに生まれた。

サフラン

くしゃみと徴(しるし)

アイクはさらに初演当時の文化をも活用する。例えば、「くしゃみ」だ。劇中で3人の登場人物がくしゃみをするト書きがある。1人はその直後に「お告げ」を語り、2人は殺人を実行する。くしゃみは意図せずに生じる制御困難な生理現象であるため、古来より、霊的な存在からの働きかけと信じられてきた。古代ギリシャでもホメロスなどに、くしゃみを予兆や神からのメッセージと解する描写がある。アイクはある雑誌のインタヴューでこう語っている。古代ギリシャ人は、くしゃみは神が体内に入って起きる現象であり「神の存在の徴(しるし)」だと考えていたので、台本に「戦略的に」取り入れた、と。

彼が言う「(神の)徴sign」とは原作の「神託」に代わる語である。徴はアガメムノンとオレステスが殺人に踏み切る契機であり、その物的証拠として紙片が提示される。だがくしゃみも紙片も、本当に「神の啓示」なのか。いや、そもそも徴など存在するのか。古代社会では神託は真理であり従うのが当然だった。だがその前提がない社会では徴は審理にどう影響するのか、劇作家は問いかける。

アイク版『オレステイア』には古典作品に新しい生命を吹き込む技法が詰まっている。それが本作の最大の価値ではないかと私は思う。

第一回 『ギリシャ悲劇』とは

第二回 『オレステイア』とは