マンスリー・プロジェクト
レポート


マンスリー・プロジェクト
トークセッション「戯曲翻訳の現在」


2010年12月18日(土)新国立劇場オペラパレス ホワイエ
出席 宮田慶子
    長島確[ヘッダ・ガーブレル]/常田景子[やけたトタン屋根の上の猫]
    水谷八也[わが町]/岩切正一郎[ゴドーを待ちながら]

言葉の選び方の難しさ

宮田●話を戻しますと、水谷さん、さっき、『わが町』は非常に透明感のあるとおっしゃって、そういう1本1本のもののつかみっていうのは、どのあたりで。
水谷●話を戻す前に、常田さんの発言で思い出したんだけど、学生のときに授業で使ったテキストで、その時点でもうかなり古いテキストだったんですけど、ウィリアム・インジの『ピクニック』を読んでて、Tシャツが出てきたんですよね。そのTシャツに“注”が付いて、“木綿の下着”って書いてありました(笑)。今でこそ笑えるけど、当時は注が必要だったんでしょうね。それで、話をもう一回元に戻すと、僕はそれほどたくさんの翻訳をやっているわけではなくて、翻訳家っていわれると、いつもちょっと戸惑うんですけれども、でも、たまたまこの新国立劇場では、今回の『わが町』と、もう1本、2004年でしたかね、チリの劇作家で今アメリカにいるんですけども、アリエル・ドーフマンっていう人のものですが、翻訳しています。2人ともその作品の内容と形式を密接に関係させているので、おのずと文体が決まってくるんですよね。対照的なんですが、ワイルダーのほうは、先ほど言ったように、非常に単語数が少ないというか、かなりリアルな日常の会話そのままなので、センテンスの構造としては、ユルユルで、単語の羅列みたいなところもあったりするんですけれども、逆にドーフマンっていう人は、スペイン語と英語のバイリンガルですが、ものすごくセンテンスが長い。エッセイなんか読んでいると、気が付くと1ページ1センテンスっていうのがあったりなんかするんですよ。これは、翻訳するときにものすごく困るんですよね。今、常田さんも少しおっしゃいましたけど、構造が違うわけです。向こうの言葉は主語があって、動詞があって、その次に目的語だとか、そのあとどんどんどんどん説明が、いくらでもとは言わないけども、かなり続けられるわけですよね。ところが日本語は、きちんとしたセンテンスにしようとすると、主語があって、動詞が一番最後にきますから、僕も子供のときからよく親に「人の話は最後まで聞きなさい」とかいって怒られるわけですよ。最後まで聞かないと、肯定なのか否定なのかよくわからない。それを、仮にもしその通り訳していくと、めちゃめちゃ長いことになってしまうし、かといってそれをきれいにまとめちゃうと、そのうねうねした感じが何にもなくなって、ツルッとしたものになっちゃう。だからそのときには、日本語を組み立てるっていう、本当にコンポーズするっていう感じでやりました。だから、訳すっていうよりも、一旦訳したものを、これをここにはめられないか、これをここに移動できないか、パズルを完成させるようなことをやりました。それはそれで、日本語としては結構面白い日本語ができていたんじゃないかっていう気がしますね。
宮田●長いセンテンスのものというのもそうですけど、やはり作家それぞれで、ややこしい単語を使いたがる作家と、非常にシンプルな、だけどシンプルだからこそ解釈の幅が広いというか、奥行きが広いというか、そういうことってありますよね。
水谷●そうなんですよね。だからワイルダーの場合、本当そうなんですけど、シンプルな単語を使っているので、それに対する日本語っていうのはいくつも選択肢があって、でもこの一つを選ぶと、その次のものがある程度限定されてしまうんですよね。だから、先ほど言った想像力の余地を残すためには、次の一手は、かなり先を読んでから決めないと、ちょっと話が違う方向に行ってしまったりする可能性もあって、そこは翻訳の難しいところでもあるし、面白いところでもあるな、っていう気はしますね。
宮田●最終現場を預かる演出家と役者としては、最終的に日本語になったときの語感とかを頼りにしゃべっていくじゃないですか。だから、とてもそのことに影響されるんですよね、やっぱり。おそらく、原文もそういう感じなんだろうなとか、我々は非常に感覚的な言語を使いますから、イガイガしたしゃべり方とか、フワフワしたしゃべり方とか、そんなことを、現場は一生懸命セリフからつかもうとしていて。
水谷●だから、だから他の翻訳者の皆さんはどうかわかりませんけど、僕は本読みのとき、本当に嫌なんですよね。針のむしろに座らされているみたいな感じで、特にワイルダーなんか、簡単なようでいてわからないところが多いし、この前もちょっと話題になりましたけど、数字がめちゃめちゃ弱い人なんですよ、ワイルダーって。だから、本をそのまま読んでいくと、「あれ? 年齢がちょっとこれ、おかしいよね?」っていうことになって。
宮田●いい加減にしてくれ、でしたよね、あれは。いまだに稽古場はもめていますよ。
水谷●ただワイルダーの場合には、ありがたいことにワイルダーの甥っ子の人がいまして、その人とちょっとメールのやりとりができる関係にあるので、「本当はどうなんですか?」ってこの前聞いたんですね、年齢のことで。そうしたら、タッパン・ワイルダーっていう甥から返事がきて、「すいません、おじは数字にとても弱くて」っていう、しょうもない返事がきてしまって、「あ、何だ。そうだったのか」っていうことなんですけどね。でもその、最初の本読みのときには、さまざまな質問が来て、私は作者でもないのに、何か周りから責められてる感じがして、「書いたのは、僕じゃないんですけど」って言いたかった、ホントは。でもそれは、すごく緊張すると同時に、やっぱり役者の方々は「あ、この翻訳にこれだけすがっているのか」っていう、ものすごい責任を感じます。だいたい3キロぐらい痩せて帰っていくわけですけどね、嘘ですけど(笑)。
宮田●岩切さんは、いかがです?
岩切●特にベケットの場合は、一般論はともかくとして、言葉自体が、シンタックスが違うっていうようなことももちろんあるんですけども、それに加えて、さっきストリップショーの話が出ていたのでまぁいいかなと思うので、似たような話を、18歳未満の人はいないようなので(笑)。こういうセリフがあるんですよ。最初のほうで、エストラゴンとウラジミールっていう2人が出てくるんですけど、そんなに大した話じゃないですけど、エストラゴンが、木を見まして、「Si on se pendait ?」っていうふうに聞くんですよ。その意味は、「首つったらどうかな?」っていうセリフです。それを聞いた相棒のウラジミールが、「Ce serait un moyen de bander.」っていうふうに言うんですけど、これが「まぁ、勃起するかもね」っていうような内容なんですよ。で、これは、今お聞きになったところの“ポンデ” (pendait)っていうのと“ボンデ” (bander)っていう音で、音の遊びになっているわけなんですよ。pとbが替わると意味が全然変わっちゃうんですね。でもベケットはそれを英語でどうしたのかなと思ってみると、全然そんな音の遊びはもう省いちゃって、「What about hanging ourselves?」「Hmm. It’d give us an erection.」っていうふうになってしまうんです。意味でですね。だから、日本語にする場合っていうのは、ほとんどベケットがやったことと同じで、もう音のつながり方は省いて、意味だけを取って、作っていくことになると思うんですけど、ただそのベケット自身、今のその意味が出てきた元はやっぱりたぶん、フランス語で書かないと出てこない発想で、しかも音によってだから、何か変なものがつられて出てくるっていう、そういうふうにして劇全体がだいたいできているところがあって、これは他の言語に訳すときは、ほとんど難しいですよね。あと、最初の入りのセリフも、有名なフランス語だと「Rien a faire」っていって、英語だと「Nothing to be done.」っていうので始まるんですけど、これはまだ、ちょっと変わるかもしれないので、どう訳したかは言えませんが、ベケット自身は、やっぱりそのdoとかdoneっていう、するっていうことをやっぱり強調していたようで、ドイツ語にするときにも、ツン(tun)とかマヒェン(machen)とかっていう、するとか作るとか、makeとかdoとかですよね、それを使った言い回しにしてくれっていうふうにやっぱり言っているので、でもほかの西洋の言語って、割と簡単にできるみたいなんですよね、イタリア語とかスペイン語とかも。だから日本語にするときは、なかなか難しいといえば難しいので、しかも、そこだけで完結するんだったらいいんだけど、同じセリフを他の場面でやっぱり使うんですよね、3〜4回。すると、その全部に当てはめられる、どういう文脈であろうと、その同じ表現を使って、かつ意味が通じるような日本語にしなくてはいけないので、何かもう、どうしようかなぁ、っていうところがあったり。だから、ベケット自身がデプレッションっていうか、鬱っていうか、落ち込んだときに気晴らしで書いたっていうようなことらしいので、かなりそういう遊びがいっぱい入っていると、逆に難しいなぁっていうふうにやっぱり思うんですけども。それはまぁ、特殊な場合だとは思うんですが。
宮田●それはもう、どうしようもないですよね。どう日本語に訳したところで、その二つの音の遊びっていうのはもう、表現は不可能ですもんね。
岩切●そうですね、詩とかも同じですよね。そういう音で主にできているものを他の言語に移すときっていうのは、だいたいそこはカットして、意味だけ伝えるようにするっていうことですかね。
宮田●確かに、戯曲じゃなくて、詩の翻訳の場合とかも、やはり韻を踏むということって、とても大切な要素なんだけれども、そこに雁字搦めになると何も翻訳作業ができないっていうことが、どうなんですか?  私、最近何かで、「もう、韻はおいとこう」みたいな、ひとつの考え方みたいなのを、どこかでちょっと読んだことがあって、「ああ、なるほど」みたいなことも感じたりしたんですけどね。同じようなことがやっぱり起こってくるんですかね?
岩切●そうですかね。あと、さっき言ったように、ベケット自身が変えていますから、フランス語のバージョンだと、たとえば最初のほうで、最後の瞬間って言って、何か素敵だろうなって言いながら、誰が言っていたんだっけ?  っていうようなセリフがあるんですけど、英語だとそこのところに聖書の一節を引用するんですよ。しかも古語で書いてある。だから、それだと全然もう意味が変わって、フランス語の場合だと、街角で誰か言っていたのをそのままテキストに入れたっていうようなことだったんですけど、それを聖書から採ってくると、全然もう意味がガラッて変わっちゃうし、いったいどっちを採ればいいんだろう?  っていうところがあったりですね。英語で書くっていうときは、結局聞く人が英語のお客さんですから、たとえば全然フランス語のバージョンにはないんですけど、シェリーっていう詩人から引用した一節を入れてみたりとか、パブリックによって変わりますよね。さっきの地名と同じことだと思うんですけど、それをパッと聞いて、「あぁっ!」って連想する下地がみんなにあるのかないのかっていうところで、その地名だって、言ってすぐわかるものとわからないものとあったり。ボークリューズっていう地名が出てくるんですけど、これも、何かパッと聞いたらピンと来ない人も多いと思うんですよ。だって英語だって、マコンっていうふうに言い換えてますし。けど、ベケットがレジスタンスのときに、戦争中ですね、いたときの地方なので、彼にとっては非常に重要な地名だから、やっぱりこれはわからなくても外せないかな、とか。でもわかるようにしなきゃいけない、工夫がいるかな、っていうようなことが、やっぱりありますね。
宮田●その、特定の意味とか作家のこだわりとかを、固有名詞で使われた場合に、本当にどうそれを補足していったらいいんだとかっていうの、悩みますよね。さっきのdoの話にしてもそうだけど、ある幅の広い単語っていうのを、どうも外国語はもっているんじゃないかということも考えますし。日本語って、逆に1つの状況に対してありとあらゆる言葉を使うっていうのかな。「篠つく雨」とか。たとえば「篠つく雨が降り続く」とかって日本語で言ったときに、英語だと何なの?それ、水谷さんだったら何て訳します? 「篠つく雨」、英語だったら。
水谷●何だろう?  結構激しく降ってるってことですよね? でも”hard”とか”heavily”とか、副詞をつけるのが普通かな。
宮田●そうすると「篠」の感じはなくなるよね。
水谷●うーん、だから、何だろう? 視覚的なイメージが英語に直すと、結局、副詞で補うか、雨の種類、本当の雨の種類にしかならなくて、言葉の「綾」みたいなもの、皮膚感覚だとか、そういうのはやっぱり抜け落ちてしまいますよね。だから結局、イコールで結べる言葉はないんですよね、最終的には。
宮田●アメリカにだってきっと、ダーって矢のように降る雨はあるんだろうけど、でもちょっとこう、ね、篠つくっていうのは“つく”にミソがあるわけで、篠つくって、肌にまっすぐ刺さるようなとか、そんなことをポンという言い方ってないのかなって。でも、そんな雨だってあるだろうにと、思ったりするんですよね。
水谷●ひょっとしたらあるかもしれないけれども、アメリカ大使館の人とかいませんよね?(笑)あっても、やっぱりすごい大味っていうか、ざっくりいっちゃっている感じがしますけど。
宮田●イギリスだって、篠つく雨、降りますよ。どうしてなんだろうね?  常田さんなら何て?
常田●いや、ちょっと、単語力がないから、辞書で調べないとちょっと返事ができませんけど、あると思いますよ、逆に私は。その、篠つく雨って、私たちがその言葉を聞いて受け取るイメージとは違うけど、そういった雨を形容するものはあると思います、特にイギリスには。
水谷●日本は四季があるから、そういうことに対する言葉、とても多いじゃないですか。イギリスにはかなり雨に関して細かい言葉があるような気がしますね。たとえばエジプトなんかだと、ラクダに対して単語数がめちゃめちゃ多いんですってね。“子供を産んでいないメスのラクダ”だとか、あらゆる状況のラクダに対応する呼び名があるらしいんですよ。それは必要があるからそうなるわけで、エジプトの人から見れば、「日本人ってラクダに関してざっくりしてるよね」っていうことになると思うんですよね。
常田●そうですね。逆に、日本語から英語に訳すっていうことを考えると、たとえばト書きに「笑う」とか書いてあったときに、英語だと、微笑むと笑うはもちろん違うけど、ただ笑うのでも、giggleなのかchuckleなのかとか、いろいろあるじゃないですか。laughなのかとか。だからそのへんはやっぱり、細かいところもある。
宮田●そうなるとやっぱり、文化ですかね。まさしくラクダと同じように、ないものは言わないのか。
常田●たぶんそうだと思います。ただその、さっきの数字の話じゃないけど、アメリカの作家は、どっちかというとやっぱり、多少大雑把な人が多いなというのが印象ですね。逆に、演出家の方とか日本人の俳優の方が「こことここは辻褄が合ってないけど、間違ってませんか?」とか言われて、「あぁ」って見ると、「あ、でもそう書いてあります」っていうことが時々あるんですよ。じゃあアメリカで上演したときは現場で直したのかもしれないし、もしかしたら気にもしなかったのかもしれないと思うことがあるわけです。その場で辻褄が合っていれば。
宮田●『わが町』なんかすごいですよね。12歳の子が3年後に17歳になってた。もう何だ っていうか、「足し算ぐらいしようよ、ワイルダー」っていう感じですよね。
水谷●本当に数学ができない人だったので。作者に代わってお詫びします(笑)。