シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

IV 登場人物にみる『ヘンリー六世』 安達まみ(英文学者)
2009年11月12日[木]

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ケードが読み書き能力を憎むのはおわかりいただいたと思いますが、読み書き能力を劇中で最も体現しているのはヘンリー王その人だと思います。信仰篤いヘンリーを単に軟弱と解釈することもできますが、信念の人とも解釈することもできますし、今回の公演でもやさしく深い愛をたたえるヘンリーに共感された方も多かったと思います。ヘンリーは聖書や祈祷書などの本好きな人物として描かれていますので、リテラシーを憎むケードの対極にあります。
そして、さらにヘンリーと対決する人物がリチャードです。第三部五幕六場大詰めで王殺しを企むリチャードが、ロンドン塔のヘンリーを訪れた時、開口一番言った言葉は、「やあ、熱心に読書しておいでか?」です。
祈祷書を読むヘンリーは文字通りの聖人君子の典型であり、一方リチャードは悪党の典型です。そこをヘンリーは直感的に見抜きます。思わずリチャードに「善良な公爵」とリチャードを呼んだ前言を撤回してヘンリーは言います。「「善良なグロスター」と言うのは「善良な悪魔」と言うのと同じ程度に不自然だ、だから「善良な公爵」はとり消そう」
リチャードに刺されてヘンリーは祈りながら死んでいきます。でも、ヘンリーは自分のためだけでなくリチャードのためにも祈っています。ヘンリーの最後の言葉です。
「神よ、わが罪を許したまえ、おまえも許されるよう!」
これは、十字架上のキリストの言葉を思わせまして、おだやかなヘンリーが悪魔リチャードにとって、手ごわい敵であることを示唆しています。一方、ヘンリーがキリスト教的な愛を体現するなら、リチャードは次のように言い放ちます。
(10)です。
「年寄りどもが神聖視する「愛」などということばは、似たもの同士の人間のあいだに住みつくがいい、おれのなかにはおいてやらぬ、おれは一人ぼっちの身だ。」
この言葉に、一切の人間的なものを拒否して、自分だけを頼りに生きるリチャードの孤独や不幸な生まれゆえの深い疎外感さえ感じ取ることができると思います。リチャードの魅力は、彼ほどたくさんの伝説を残した人物はいないということにも反映されていると思います。
図(8)【図(8)】をご覧ください。
現在、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに所蔵されるリチャードの肖像画です。ご覧のように身体的な欠陥があるようには見えません。むしろ、落ち着きや思慮深さを感じさせる格好いいリチャードです。シェイクスピアの描くリチャードと言いますと、トマス・モアの種本のリチャードを色濃く映しています。種本では確かに極悪非道の悪党なんですが、同時に頭の回転が非常に速く機知に富んでいます。書き手のトマス・モアその人もそうでしたが、シェイクスピアもきっと頭の回転が速く、機知に富んでいた人間だったと私は勝手に想像しています。そのようなシェイクスピアがリチャードに興味を惹かれたのではないかと思います。

シェイクスピアは、第三部の最後に種本にはない創作場面を加えました。王妃のエリザベスが幼いエドワード王子を腕に抱いてやって来て、エドワード王子を愛でるふりをして、リチャードは虎視眈々と彼を無きものにする機会をうかがっています。そうとは知らずにエドワード王は言います。
「これからは、永遠の喜びがはじまるのだ。」
ところが、リチャードの胸の内を知っている観客は、この言葉はいかにも虚しい言葉だと不安を感じる締めくくりになっています。