シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

I シェイクスピアは楽しい 小田島雄志(英文学者)
2009年11月4日[水]

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最後にお話したいのは、【一歩引いてみる目が楽しい】ということです。
劇作家にはいろいろなタイプがいます。自分の代弁者みたいな主人公を登場させる人もいます。ただ、あんまり感情移入して書くとメロドラマになるんですね。泣いたりすることも多いんだけど、自分の個人的な感情をあんまり登場人物に注ぎ込むと、どうしてもメロドラマになってしまう。
シェイクスピアはそこから一歩引いて物事を見る達人だと思います。『ヘンリー六世』は26歳ぐらいに書いた、ほとんど彼のデビュー作といってもいい。一つの例を挙げれば、第1部1幕2場では、乙女ジャンヌに、タイトルロールのヘンリー六世の父親であるイングランドの英雄ヘンリー五世の死を思って言わせるセリフがあります。
アザンクール(英語でアジンコート)の戦いで4倍とも6倍ともいわれる、シェイクスピアだと12倍ぐらいにしてますけど、フランスの大軍をイングランド軍がやっつけたために、百年戦争のイングランド軍の英雄がヘンリー五世、もうひとりの英雄にトールボットがいて、フランス側の英雄がジャンヌ・ダルクです。
オルレアンの乙女といわれるジャンヌ・ダルクですが、実際オルレアンの町に行ってみると、もうジャンヌ・ダルクの銅像とかレリーフとか、町中どっちを向いてもジャンヌ・ダルクの姿がある。僕が初めて行ったときに、一緒に行った奴が「ここはジャンヌ・ダラケの町ですなぁ」と言って、僕が言いたいことを先に言ってしまわれたんですが、町にジャンヌ・ダルクの記念館があります。そこへ行ってみたら、ヘンリー五世とトールボットの風刺漫画的な非常に矮小化した絵が壁に描いてあった。もうフランス人にとって、この2人がまったく敵なんですね。逆にイングランドにとってはジャンヌ・ダルクが敵なんで、シェイクスピアも悪霊を呼び出す魔女のような女として描かれています。最後に悪霊に裏切られて火あぶりになってしまいます。
ジャンヌ・ダルクは要するに神の啓示を受けてオルレアンの町を解放せよと言われて現れた。この芝居の冒頭、ヘンリー五世が死んだというところから始まりますけれど、そして出てきたジャンヌ・ダルクがヘンリー五世の死を思って、フランスの皇太子たちに向かって言います。
「栄光というものは、水面にひろがる波紋のように、いつまでもどんどんひろがっていって、ついにはひろがりきったところでむなしく消えてしまう」
こういう比喩というのが実にうまいんですよね。ポエティックと言えばポエティック。ここで僕が言いたいことは、現在というものにとらわれていると見えないものが、一歩引くと、長い目で見ると、いまヘンリー五世がフランス各地をどんどんイングランドのものにしていった。だけど、ヘンリー五世の栄光が終わったら、今度はフランスがどんどん取り返していく番だという見方をこのセリフは示しています。
ほかにも、例えば『マクベス』の冒頭に言う台詞に、「どんな荒れ狂う嵐の日にも時間は経つものだ」とあるし、実にいいセリフです。
現在にとらわれていると見えないものを一歩引いて見ると、岡目八目ということばもありますけれど、それまで見えなかったものが見えてくる。シェイクスピアはそういう達人です。そう思って見ると、おごる平家は久しからず、ではありませんが、とらわれない自由な目でものを見るということがあると思いますね。
もう一つは、相対的な見方ができる。人間というのは絶対の善や悪、絶対こうだという見方をしてしまうところを、一歩引くと善も悪も両方ある、これは相対的に見るわけですね。泥棒だって三分の理屈があるんだという見方、これが一歩引いて見るとよく見えてくる。
第3部では、子供の死、生と死のコントラスト、相対的な目とレジメに書きましたが、まず第3部1幕3場で、ヨーク公の4男ラットランド、これは歴史的事実よりシェイクスピアはずっと幼くしてありますけれど、ラットランドがランカスター側のクリフォードという男に惨殺されます。「僕は何にもしていない」と言うのに、「おまえの父親が俺の父親を殺したじゃないか、だからお前を殺す」と言って惨殺する。そして、その血をぬぐったハンカチで、今度は次の1幕4場、マーガレット妃がヨーク公をなぶり殺しにします。ヨークをしばりあげて、おまえ悲しいか、だったらこれで涙をぬぐえ、つまりラットランドの血、ヨーク公にとってはかわいがっていたいちばん末の息子ラットランドの血をぬぐったハンカチで涙をぬぐえと言われ、さらに紙の王冠をかぶせられて、ヨーク公が惨殺される。
5幕5場になると、ラットランドの兄さんたち、長男のエドワード、次男のジョージ、三男のリチャードですが、次男は弟リチャード三世によってロンドン塔でワイン樽につけられて殺されることになる。最後のリチャード三世は日本の舞台でもよく知られている人物です。
そのヨーク公の息子3人は、結局5幕5場でマーガレットの息子、つまりヘンリー六世とマーガレットの間に生まれた皇太子エドワードが、母親マーガレットの目の前で3兄弟によって刺し殺されるという場面がある。それだけじゃなくて、皇太子が倒れている、倒したエドワードが下手に引っ込むときに、何と言うかというと、「おれはそろそろロンドンの妃の所に行こう、男の子を生んでいいころだ」、ヘンリー六世の子供を殺しておいて、自分の妻が男の子を産むころだという、本当に生と死のコントラストですよね。そして最後に、この赤ん坊、生まれたばかりの赤ん坊が抱かれて出てきます。しかし、エドワードと名付けられ、エドワード五世になりますけれど、これも幼くしてリチャード三世によってロンドン塔で惨殺される運命にあります。これはわれわれ『リチャード三世』という芝居で知っていますし、夏目漱石もこの芝居を観て『ロンドン塔』という短編で幼い王子2人が殺される場面を思い描くという、これも何かにとらわれてそこで止まっていたら描かれないものが、ひとつの芝居の中で、幼い息子、王子たちが次々に殺される。それをおもしろがっては本当はいかんのだけれども、このように、歴史も一歩引いてみることでわかることがある。生と死のコントラストまで見えてくるということです。
われわれも一歩引いて芝居を観れば、感傷的なパセティックになって観るのではなく、ひとつひとつに対して自分なりの共感と批判を両方感じながら、芝居を観ることができる。これはやっぱり芝居を観る面白さでしょうね。芝居の中に没入してはいけない、いけないというよりは楽しみ方が狭くなります。ですから、シェイクスピア全体をできるだけどん欲に楽しむためには、とらわれないで、引いて観るということも必要になってくると思います。

まだまだシェイクスピアの楽しみ方はいろいろあると思いますが、きょうはほんの一部をお話しました。最後まで聞いていただき、本当にありがとうございました。