シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

I シェイクスピアは楽しい 小田島雄志(英文学者)
2009年11月4日[水]

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本題に入ります。
そういうシェイクスピアを僕なりに楽しんできたわけですけど、その話だけで、10時間や20時間じゃしゃべりきれないくらいありますが、今日は1時間なので、とりあえず、その楽しさを3つ選んでみました。『ヘンリー六世』三部作をやっている舞台なので、できるだけ『ヘンリー六世』の話を選んでみようと思いましたが、どうなりますか。
最初に、【むだが楽しい】。民主党に怒られそうなタイトルですが(笑)。政治経済においては、ほんとうに“むだ”はやめてほしいですね。
ところがシェイクスピアでは、むだが楽しいと言えることがある。
『リア王』の中の有名な台詞ですけど、リアは、三女コーディリアは追放しちゃって、100人の騎士を連れて長女ゴネリル、次女リーガンのところで世話になろうとする。2人のお姉さんは困るわけですよね、100人も騎士を連れて1カ月交代で泊まりに来る。老人介護はほんとうに大変な問題だというのは僕もよくわかるんだけど(笑)。長女と次女2人でお父さんを追い出そうとするときに、まず問題になったのは100人の騎士を連れて来なくていいじゃないかということ。50人だっていいじゃないか、あるいは25人だって10人だって、いや1人もいらないんじゃないか。「自分たちの召使いがいるから、それに世話をさせますよ。だから、1人だって必要でしょうか?」と言われて、リアは、「ええい、必要を論じるな!」と叫ぶんですよね。どんな貧しい人であろうと、どこかにむだなものをもっているはずです。余計なものが何かあるはずなんで、このセリフは痛切だと思います。シェイクスピアの芝居は、本当にむだだらけなんですね。
『ヘンリー六世』でいえば、例えば第2部ですけど、ジャック・ケードという男が登場します。これはイギリスの有名な歴史的事件です。薔薇戦争でヨーク×ランカスターの戦いが始まって、ヨーク公がアイルランドに行かされることになったときに、ヨークがイングランドに何か騒ぎを起こしておいて自分はアイルランドへ行こうとするわけですね。そのときに、王権の相続者といってもいい男がいて、それにそっくりな男がジャック・ケードなんです。これを双子の男で棄てられてこうなった、ケント州の田舎で育ったとでっちあげている。それでジャック・ケードが肉屋のディックとか町の連中を集めて、どんどん勢力を強めていく。これはイングランドの支配者たちがだらしなかったからこういう事件が起こって力をもったんでしょうけど、一時はロンドンの王宮まで占拠するという事態になる。だけど、これは薔薇戦争の外伝ですね。例えば『忠臣蔵』の外伝に『四谷怪談』とか、あるいはいま新橋演舞場でやっている『盟三五大切』とか、実はきょう昼間観てきましたが、染五郎と菊之助と亀治郎、素晴らしい舞台なんで、本当はきょうその話をしたいくらいで(笑)。それを話すと外伝の外伝になっちゃいますからやめますけど。
ジャック・ケードの乱は、歴史的には有名だけど、薔薇戦争の大筋とはあんまり関係ない。そこから少しはみ出したエピソードですね。だけど、芝居の中にこれがないとさびしいんです。つまり日本でいうと江戸時代に百姓一揆がありました。百姓一揆は、本当にどこかパセティックで悲壮感があって、庄屋たちがもう直訴すれば自分が縛り首になるとわかっていながら、やせこけてみじめな格好で一揆を起こす。シェイクスピアが書くと、ぜんぜんそうはならない。陽気なお祭り騒ぎになる。だから、楽しいという言い方はおかしいかもしれないけど、芝居の中にこれがなかったらどこかさびしいような、そういうところ非常に多いわけです。
なぜこういう話をするかというと、シェイクスピアでむだな場面だからといって批判された、シェイクスピア学者のなかでいちばん有名な話は『ハムレット』の1幕3場です。
オフィーリアの父ポローニアスが、息子のレアティーズがパリの大学に留学するときに説教する場面です。「洋服は上等なものを着ろ、でも派手なのはいかん」とか、「金は貸してもいかんし、借りてもいかん、友達をなくすから」といった世俗的な話をえんえん息子に言い聞かせる。これはむだじゃないかとおそらく最初に言い出したのが、詩人で詩劇も書き、批評家としても非常に優れているノーベル文学賞もとったT.S.エリオットです。20世紀の初め頃、彼がまだ若いときに、“Hamlet and his problems”『ハムレットと彼の問題』というハムレット論を書いた。何で有名かというと、『ハムレット』はArtistic failure、芸術的失敗作と決めつけた。そのあと彼はだんだん年をとってくると『ハムレット』の面白さをいろいろ言いますけど、最初に書いた『ハムレット』のことは芸術的失敗作で、その理由は何かというときに、1番目に、objective correlative、こんな言葉を使ったのはエリオットしかいないと思いますけど、翻訳すると客観的相関物の欠如だと言います。非常に簡単にいうと、芝居というのはいろんなエモーション、感情が描かれるけれど、それには悲しみや喜びがあった場合、それに対応するだけの客観的な事実がなければならない。例えば、これだけ主人公が悲しんでいる。何もないところで悲しんでも観客には何も伝わらない。愛する恋人に死なれたという事実があれば、これだけ悲しんでいるとわかる。それが、objective correlativeという言い方になるわけです。ハムレットは出てくるなり、自殺したいと言う。自殺願望の原因、客観的事実は何かというと母親の早すぎる再婚だと、そんなことで自殺するほど悩むかどうか。つまりハムレットには客観的相関物が欠けているから芸術的失敗作だと言っている。
2番目に、先ほどの1幕3場のポローニアスの説教は、『ハムレット』のテーマにとってirrelevantだと言う。無関係ということですね。要するにむだということです。それに対して、F.ファーガソンがポローニアスのエピソードを擁護した。彼は、Idea of the theater『演劇の理念』の中で、ポローニアスの場面は『ハムレット』にも“Father and son relationship”父と子のテーマがある。もちろん母親と息子の関係もあるし、オフィーリアとの関係、ホレイショー、友人との関係もあるけど、そのなかでも一番重要なのはFather and son relationshipだと。その“comic variation”(喜劇的なバリエーション)としてポローニアスの息子への説教というのがあるんだと擁護した。ただね、観客として『ハムレット』を観ていて、ポローニアスの説教する場面を、これはハムレット父子のテーマのcomic variationだなんて思う人は、まずいませんよ(笑)。文学作品として分析すればそうなるけれど、芝居としてはそうじゃないと思う。せいぜい、「あの説教を俺も親父に言われたことがある」と思うぐらいじゃないでしょうか。
実は、僕は友達の親父に言われたことがある。旧満州から引き揚げてきて、一緒に船で引き揚げてきた仲間と別れて、旧制高校に1年だけ通って、大学に入り、僕は新制東大1期生なんですが、下宿がなくて困っていたら、満州からの友達が八畳一間の下宿を借りた。そこに一緒でよければ来ないかと言ってくれた。僕は喜んで行った。彼も下宿代が半額ですみますからね。そこに九州にいた彼の親父が焼酎を持ってやって来て、息子を説教し始めた。そこで何を言うかというと「金は借りても貸してもいかんぞ。貸したりすると金も返ってこない、友達もなくすことになる」と。僕は後で気がつきましたけど、ポローニアスと同じ台詞です。そのときにちらっと僕のほうを見て、「小田島くんなら貸してもいいか」(笑)と言った。僕は大学2年で初めて『ハムレット』を読んだんですが、この台詞聞いたことがあると思いました。誰でも、どっかで自分の親父さんを思い出したりするような場面ではあっても、『ハムレット』の父と子のテーマのバリエーションだとは思わない。
もっと言えば、せめて僕が擁護するとすれば、1幕2場には何があるかというと、ハムレットが嫌いな叔父が母と再婚する。自分は母の早すぎる再婚を嘆いているという、ハムレット一家がバラバラになっている姿ですね。家族の崩壊が描かれている。次の場面、オフィーリアとお兄ちゃんのレアティーズの別れの場面。この兄妹は本当に仲のいいんですが、その姿が描かれて、すぐ後に親父が出てきて説教する。つまりポローニアス一家の団欒の姿ですね。これはハムレット一家の壊滅状態とのコントラストです。観客とすればハムレット一家の暗い気分から、ふっと明るい場面になる。そういう観客にリズムを与える良さがある。そういう意味では意味がなくはない。だけど、あの説教する場面は面白いんですよね、われわれにとって身近で面白い。