はじめてのオールドバラは奇しくも『ピーター・グライムズ』初演50年ということでシンポジウムやレクチャー、関連するコンサートが多く行われていた。観光客が多い時期だとはいえアジア系の顔をした人は見あたらず、町の目を気にしながら私はオールドバラ音楽祭期間中の滞在を楽しんだ。オペラの舞台になった場所はまだ息づいていて、パブは営業中だし教会や集会所そして鉛色の海もすべてが目と鼻の先だ。ブリテンピアーズ図書館を訪ねブリテン愛用のスコアなどを眺めることができた。書き込みは几帳面で興味深く、しばし見入る。ふと町に来る前から頭の中でループしていたグライムズの音符群に思いを馳せ、作曲家が紡ぐ印象的な作劇によって、心はひとときその情景のなかで憩い名残惜しく引き留められた。
プロローグ、およそ断片的にしか歌わない激しいピーターと叙情的に長いフレーズを諭すように歌うエレン、二人はへ短調とホ長調の複調で拮抗するかのように振る舞うが互いにその第3音を共有しホ長調のユニゾンに解け合う。ピーターが夢を語る9度跳躍の歌は美しく儚く響いては残像となり消えてゆく。パブで輪唱される民謡風4分の7拍子“Old Joe has gone fishing (ジョーじいさんが漁に行き)”、村のダンスバンド、集団心理を表出し圧倒的な存在感をもってピーターを追いつめる合唱、管弦楽による間奏曲やパッサカリア。見所満載の歌劇は最終場の長大な告白において美の極致へと到達する。ピーターは今まで自分が行ってきたすべてを思い出し全身全霊で叫ぶ―そこには夢・希望そして挫折を内包して。ブリテンはこれまでピーターに担わせた旋律を切り取り結合させ、主人公をして「社会に対するなぜ」を、もっと言うと自身のイノセンスをも言わしめたのであろう。
さて終わりのダイアログに関して読売日響=マエストロ尾高公演は新しい試みをした。それは草稿時のブリテンのアイディアを復元することであったが、マエストロの気づきはドラマの深層を抉った。草稿時のダイアログではバルストロードはピーターに対し船を沈め最期に至る方法まで具体的に指南する嫌らしさを秘めていた。意外なことにピーターに船を沈める意志は全くなく、半狂乱に陥った彼であっても沖へ出てプラグを外せと結末を仄めかすバルストロードにこう反駁していた―This is too early! (まだ早すぎる!)「現行版で大幅にカットされたこの部分にはピーターがなぜ自殺に追い込まれていくのかというこれまで闇に包まれていた心理過程が見え隠れしていた。(公演プログラム)」このセンスの違いを草稿時に戻して明らかにする実験が1998年サントリーホールで行われた。
それから10年後、札幌交響楽団公演。マエストロはダイアログを現行のものに再び戻された。 それは主人公たるピーターが自ら選択した自分の悲劇を自らの手で完成させることを意味した。エレンそして後押しをしたに過ぎないバルストロードは静かに岸辺からみとったのである。夜明け。人間社会も恵みの海のように恐ろしく深い引き潮になることが示唆される。“yet terrible and deep (さらに恐ろしくそして深い)”と歌う村に鉛色をした海はいつものように相対し劇は幕を閉じる。
1998年読売日本交響楽団、2008年札幌交響楽団による歌劇「ピーター・グライムズ」公演で尾高忠明氏の副指揮者を務めた。指揮を高階正光、尾高忠明、秋山和慶、黒岩英臣、小澤征爾、L.ニコラィエフ、V.シナイスキー各氏に師事。英国ロイヤルオペラハウス、イングリッシュ・ナショナルオペラ等のリハーサルで学ぶ。第5回フィテルベルク国際指揮者コンクール第2位入賞。