ヘンリー5世

新国立劇場

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Column|コラム

続編としての『ヘンリー五世』

小泉勇人(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院)

第1回 『ヘンリー四世』とのつながり

シェイクスピアによる歴史劇は、イングランド王達の交代劇を描いた一連の続き物です。『ヘンリー五世』も例に漏れず、その歴代イングランド王達の生き様を描いた大河シリーズの一編です。リチャード二世が従兄弟のヘンリー・ボリングブルックから王位を簒奪されるまでを描く『リチャード二世』、かつてのボリングブルックであるヘンリー四世が息子のハル王子に王位を継承するまでを描く『ヘンリー四世』二部作、そしてかつてのハル王子、すなわちヘンリー五世の活躍を描くのが『ヘンリー五世』というわけです。

では、過去作である『リチャード二世』および『ヘンリー四世』二部作を知っていると、それらの続編である『ヘンリー五世』をどのように眺められるのでしょうか。実際、シェイクスピアは前作、前々作への目配せを随所で行なっており、『ヘンリー五世』の「前の時代に何があったのか」を観客に伝えようとしているのです。今回は、そういったシェイクスピアの「気遣い」が反映された台詞を二、三拾いながら、前作『ヘンリー四世』二部作と今作『ヘンリー五世』のつながりを紹介します。

「外に出て野卑な放蕩三昧にふけっていたのだ」

『ヘンリー五世』にて描かれる闘いは、フランスとの戦争だけではなく、王自身による内面的な心理的葛藤、この場合「過去との対峙」をも含んでいます。『ヘンリー四世』第一部では、ハル王子がパブに入り浸り庶民と交わる放蕩ぶりが存分に描かれていますが、この放蕩時代を踏まえているからこそ、『ヘンリー五世』冒頭にてキャンタベリー大司教は次のように言うのですー「お若いころの行状からは、こうなられるとは思いもよらなかったが。父君が息を引きとられると同時に、あの放らつなご気性も息を止められ、死んでしまったようだ※ 」(一幕一場)。

しかし『ヘンリー五世』の幕が進むに連れて徐々に明らかになるのは、自分の過去を完全に葬ることはできるのだろうか、という根源的な問です。王ヘンリーもまた、フランスとの政治的対立の中で自らの過去を振り返り、「私はこのお粗末なイギリス国王の座を重んじてはいなかった、/それゆえにこの王座を離れ、外に出て野卑な放蕩三昧に/ふけっていたのだ」(一幕二場)と述懐します。これは、自分の過去がどのようなものであったかを王自身が最もよくわかっていることを示す端的な台詞でしょう。

「フォールスタッフは死んだんだ。これが泣かずにいられるか。」

シェイクスピアはさらに、かつての飲み仲間であるピストルやバードルフ達を再登場させるのですが、彼らは王が葬り去りたい過去を象徴する者達に他なりません。ピストルは「フォールスタッフは死んだんだ、これが泣かずにいられるか。」(二幕三場)と、『ヘンリー四世』の最重要人物フォールスタッフの名前を観客の耳に響かせます。ここで観客が改めて思いだすのは、『ヘンリー四世』第二部のクライマックスにてハル王子が王位を継承する際、遊び仲間でもあり精神的な父親でもあるフォールスタッフを追放したということです。大食漢で大ボラ吹き、「名誉ってなんだ?ことばだ。その名誉ってことばになにがある?その名誉ってやつに?空気だ。」(『ヘンリー四世』第一部五幕一場)と大義に潜む欺瞞を見事に言い当てるのがフォールスタッフです。彼の存在は死してなお、その名が呼ばれるだけで、今作にてイングランド軍が掲げる戦争の大義を相対化しかねない危険を孕んでいます。果たしてヘンリー五世は、このフォールスタッフを切り捨てた己の過去とどのように折り合いをつけ、この戦争を率いて行くのでしょうか。その顛末を是非とも劇場で目撃していただければと思います。

今回は、『ヘンリー五世』が『ヘンリー四世』二部作からの続き物であるという観点から、ささやかな解説を試みました。シェイクスピアが巧みに前作とのつながりを気づかせようとしながら、どのように私達観客を楽しませてくれるのか、その一端を味わっていただけましたら幸いです。

※訳文は全て小田島雄志訳、シェイクスピア全集(白水社)に拠る。

小泉勇人(こいずみ・ゆうと)
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院
関西学院大学文学部英文科を卒業後、早稲田大学文学研究科にてシェイクスピア劇を研究、2015年にロンドン大学にて修士号を取得。2017年4月より東京工業大学リベラルアーツ研究教育院・外国語セクションに着任。シェイクスピア映画を中心に研究し、映画を用いた大学英語教育にも関心がある。