シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

V シェイクスピアとジャンヌ・ダルク ―ナショナル・ヒストリーの曙― 佐藤賢一(作家)
2009年11月18日[水]

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とはいえ、ここで若干話をゆり戻しますと、シェイクスピアの作自体は一概にあくどいものとかたづけることもできないわけですね。
マジックみたいなことを今言いましたけれど、そういう割に自然とイギリス人が信じ込んでしまうというのは、イギリスの歴史を歴代の王ごとに切り取る、つまりヘンリー五世史であるとか、ヘンリー六世史であるとか、そういった描き方というのは割と一般的なんですね。
つまりヘンリー五世という歴史をひとつ区切ってしまう。そこで、戦争も終わったことにしてしまう。それ自体にあんまり不自然なものはないわけです。むしろ、百年戦争という捉え方のほうがシェイクスピアにとっては不自然だったんですね。というのも、当時から百年戦争と呼ばれているのは、長い戦争だという感覚があったんですね。それも休戦をはさんでいくつか続いたんだけれども、ひと続きの長い戦争が行われていた。というのは、当時から確かにあったんですけれども、“百年戦争“という名前が出てきたのは、ようやく20世紀初頭の話なんです。
ですから16世紀、17世紀を生きたシェイクスピアは、百年戦争なんて聞いたことさえなかった。そうしたシェイクスピアにとってみて、ヘンリー五世の歴史を書く、ヘンリー六世の歴史を書く、百年戦争を特に意識しないというのは、なんら不思議でもない。むしろ自然なことなわけですね。

ですからシェイクスピア本人をひどくこき下ろすのもどうかなと思うんですけれど、それでもなお、僕のような特にフランスびいきみたいな日本人からすると、許せない話はあるわけです。
他でもないジャンヌ・ダルクの扱いがあまりにひどすぎるのではないか、ということですね(笑)。
シェイクスピアときたら、フランスの救世主、聖ジャンヌ・ダルクをつかまえて、(改行なし)呪文を駆使して、魔王の手先、悪霊を自在に操る魔女であり、皇太子シャルルからナポリ王ルネと手玉にとって、誰の子供かわからない妊娠をした淫乱な女である。(改行なし)
こういう描き方なわけですから、最大限のこき下ろし方と言っていいかと思います。
フランス側からすると、戦勝をもたらした指導者とかを超えて、当時一種のアイドルになっているわけですから、腹が立って腹が立って仕方がないということもあるわけですね(笑)。
だからというわけではないですけれど、僕なんかは、シェイクスピアめ、ついにしっぽを出したなと、そういう意地の悪い見方もしたくなるわけです。
つまり、このひどすぎるジャンヌ・ダルクの扱い方、それ自体にシェイクスピアが、歴史をそのまま書いたんじゃない、自分の故意でねじまげようとした、その作為が、ここにこそ表れているんじゃないかという意地悪な見方もしたくなるわけです。
実際、シェイクスピアというのは『ヘンリー六世』あるいは『ヘンリー五世』を書く中で、非常にくやしかったんだと思うんですね。というのも自分の作品の中で、フランスに負けたんじゃない、内乱というイギリスの国内事情でやむなく兵をひいただけなんだと、そう印象づけたかったのにかかわらず、このジャンヌ・ダルクという存在のせいでどうしてもそれがうまくいかないということがあったと思うわけです。
つまりジャンヌ・ダルクの故事というのは、シェイクスピアは16世紀の人、ジャンヌ・ダルクは15世紀の人で、およそ百年の隔たりがありますが、この百年の隔たりをもってしても、非常に有名な話だったんじゃないかというふうに想像するんですね。というのも、この百年というのは非常に微妙な時間でして、フランスに女救世主が現れた、悪女でも魔女でも構いませんけれども、とんでもない女が現れて、それまで優勢だったイギリス軍を負かしてしまった。大陸から追い出してしまったんだと、そういった事実が百年ぐらいの時間ですと遠い過去の歴史、あるいは書物を通してする歴史ではなく、まだ生の記憶として残っている可能性が高いんですね。
「大昔に俺はジャンヌ・ダルクを見た」あるいは自分の目で見てないまでもリアルタイムでジャンヌ・ダルクの話を聞いた、あるいはその当時子供の時に話を聞いて衝撃を受けた、そういった歴史の体験者である人達が年をとって、おじいちゃんが自分の孫にジャンヌ・ダルクの話をする。こういうプロセスを経ますと、15世紀の出来事なんですが、百年後の16世紀にダイレクトに伝わってしまうわけですね。
つまり今の日本でいうと、平成の日本でも、明治時代、大正時代は百年前ですけど、そんなに大昔という気はしない。むしろ、おじいちゃん、おばあちゃんから昔話として聞いた、割とリアルタイムの記憶なんですね。これを故意に捻じ曲げるのは非常に難しい作業だということも言えると思うんです。
「あれはフランスに負けたんじゃない、内乱というイギリスの国内事情だったんだ」といくらシェイクスピアが言っても、「おかしいぞ、フランスにジャンヌ・ダルクというとんでもない女がいたんだ、俺はじいさんから聞いたことがある」と客席から言われてしまったら、もうその劇は台無しになってしまう。だから、本当にシェイクスピアという人は、ジャンヌ・ダルク、何とかならないか、これだけはごまかせないからなにとかしなければならない、だから、あれだけのこき下ろし方になっちゃうのではないかなと、僕は安直な推理をしてしまったりもするんですけれども。それにしてもふたたび意地悪い言い方をすれば、シェイクスピアは下手を打ってしまったものだなというふうに繰り返したくなってしまいます。