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『巨匠とマルガリータ』小田島創志(翻訳)×大森雅子(千葉大学大学院教授/20世紀ロシア文学)×上村聡史(演出/演劇芸術監督)スペシャル座談会【後編】
上村聡史芸術監督就任の第1作として、ウクライナ出身のロシア語作家ミハイル・ブルガーコフの代表作『巨匠とマルガリータ』が11月7日から上演されます。
悪魔の舞踏会や喋る猫、そして不滅の愛と芸術讃歌と、20世紀最高の奇想小説を舞台化した本作について、翻訳の小田島創志、20世紀ロシア文学を専門とする大森雅子千葉大学大学院教授、そして演出を担う上村聡史芸術監督によるスペシャル座談会が開催されました。
構成・文:嶋田真己
スペシャル座談会【前編】はこちら
なぜ『ヨシュア』にこだわるのか
上村:ブルガーコフは、なぜヨシュア(YESHUA)にこだわったのか? そういった研究もあるんでしょうか?
大森:はい、あります。ブルガーコフはヨシュアを描くにあたって、歴史的な資料からイエス像に迫った19世紀ドイツの神学者シュトラウスや19世紀フランスの宗教学者ルナンの著作を参考にしたと考えられています。この2人の著作では、新約聖書の福音書のなかの超自然的な説話に登場する神の子イエスの神話的存在が否定されて、歴史のなかに実際に存在した人間としてのイエスが描かれています。
それではなぜ、ブルガーコフがこのような地上の人間としてのイエス像を小説に活かしたのかについては、様々な理由が考えられますが、その1つとして挙げられるのが当時のソ連の反宗教政策です。ご存じのように、ロシア革命によって誕生したソ連は科学的無神論を標榜した国で、旧政権の最も重要な支柱の1つだったロシア正教会に対する弾圧を行いました。特に、1920年代の反宗教プロパガンダでは、福音書の記述は事実無根で、イエスの存在は神話に過ぎないと喧伝されていました。ケンプ版の戯曲でも、ベルリオーズが「イエス・キリストなんてそもそも存在していない」と述べているとおりです。さらに言うと、同じ時期にはイエスの神性を貶める目的で、イエス・キリストがなんとペテン師や女たらしのように描かれる風刺画や詩まで創作されたりもしました。ブルガーコフはこうしたプロパガンダのイエス像に批判的であったことが当時の日記の記述から明らかになっています。つまり、ブルガーコフは、当時のソ連の公的な言説に異議を唱えるために、シュトラウスやルナンが唱えたイエス像を踏まえ、小説では福音書の神話としてのイエスではなく、人間としてのイエスの実在を『巨匠とマルガリータ』のヨシュアに仮託したのではないかと思っています。
ちなみに、呼び名に関して補足しますと、小田島さんの翻訳では、水野忠夫先生の翻訳に則って「ヨシュア」と呼ばれていますが、ブルガーコフの原文ではヘブライ語またはアラム語名の「イェシュア」となっています。福音書のギリシャ語名の「イエスース」(「イエス」)を異化した呼び名が用いられているところからも、福音書のイエス像とは一線を画そうとしたブルガーコフのこだわりが感じられます。

ケンプ版戯曲の特徴
上村:これまでロシア国内では『巨匠とマルガリータ』を舞台化したことはあったのでしょうか?
大森:もちろんありました。最初に上演されたのは1977年のモスクワのタガンカ劇場で、リュビーモフ演出による舞台でした。また、2003年に来日公演を行ったユーゴ・ザーパド劇場のベリャコーヴィチ演出による舞台も有名です。ベリャコーヴィチの演出では、小説と同様に、イワンとベルリオーズの会話から始まったと思います。ですので、今回ケンプ版の戯曲の台本を読んだときに、最初に「あれ?」と驚きました(笑)。小説との違いが面白いなと思いました。
小田島:それはケンプ版の特徴かもしれません。小説では、タイトルロールである巨匠とマルガリータの印象はそれほど強くないですよね。登場するタイミングが遅いということもあると思いますが、ケンプ版は、巨匠が書いた「ヨシュアの物語」の劇中劇の場面から始まるので、巨匠中心に物語が作られているというイメージがあります。そうした展開の仕方は、ケンプ版のオリジナリティだと思います。
上村:映画化の話がたびたび上がるなど、多くの人の興味を惹く作品ですよね。
大森:ロシアでは2024年にロクシン監督によって映画化されてかなり話題になったそうです。私はまだ観ることができていないのですが、映画ではケンプ版の戯曲と同じように、劇作家としての巨匠がピラトについての戯曲を書いたことで文壇から迫害される設定に変更されているようです。ブルガーコフの実人生が巨匠に投影された結果、ケンプ版の戯曲とロクシンの映画で設定が偶然一致したのかもしれません。
上村:ケンプ版の特徴についてももう少し深めていきたいと思います。先ほど創志さんからお話があったように、本戯曲が巨匠から始まることで、小説版でのイワンから始まる「イワンの物語」であるという印象が異なります。ケンプ版には、巨匠が冒頭から登場し、いつのまにかイワンの物語になっている、もしくは巨匠から継承されているという流れになっている。大森さんは、このケンプ版の戯曲について、どのように感じましたか?
大森:最初は少し驚きました。ただ、読み進めながら、イワンが巨匠の物語を継承する弟子のような役割を担っていて、この2人がヨシュアと弟子のマタイとの関係性とパラレルになっていることが徐々に理解できるような仕掛けになっていると感じました。ケンプ版の戯曲ではマタイについては登場人物の台詞の中でしか触れられませんが、戯曲の後半でイワンがマタイの言葉を発する場面もあって、弟子という同じポジションにいるイワンが、あたかもマタイの役柄を演じているかのようです。ケンプ版の戯曲は、ブルガーコフの戯曲『赤紫の島』とよく似ているなと思いました。『赤紫の島』は、駆け出しの劇作家の革命劇が劇場で作られていくまでの物語です。劇場でゲネプロを検閲官に観てもらい、上演を許可してもらうために劇中劇でそれが展開されるのですが、この戯曲の面白いところは、俳優の社会的な地位や性格と、劇中劇で俳優が演じる役の立場や役柄がパラレルになっている点です。ケンプ版の戯曲でも、たとえば文壇に迫害される巨匠がヨシュアの役と重ね合わされる関係性も見られるので、ブルガーコフの作風を意識した構造になっていると感じました。
上村:創志さんは、どうでしたか?
小田島:僕もかなり昔に原作をチラッと読んだことがあったのですが、今回、訳すために戯曲を読んだときに「こんな感じの話だっけ?」と思ったんですよ。それは、巨匠とマルガリータの視点で物語が追えるように構成し直されているからということと、演劇の醍醐味を味わえるのではないかと思う仕掛けがさまざまなところに仕掛けられているからだと思います。ヴォランドは悪魔だけれども、惹き込まれていく存在になっているという作り方もそうです。僕の個人的な印象ですが、原作よりも、表現や主張が抑圧を受けて、自由に言いたいことが言えなくなるというところから、最後に決意して、ヴォランドの「原稿は燃えない」という有名な言葉に行き着くまでの流れが追いやすいように思います。原作を貶しているわけではなく、演劇的にどこに焦点を合わせるか、といった意味合いの話です。1920年代の社会的な状況や、表現の自由や思想の抑圧によって、巨匠が劇場でやりたいことができなくなっていくっていうことと、そのヨシュアの物語を書いた巨匠が言いたいことがリンクして、巨匠とヨシュアの重ね合わせも、戯曲ではクリアに読めたように思いました。

[撮影:阿部章仁]

[撮影:阿部章仁]

[撮影:阿部章仁]

[撮影:阿部章仁]
上村:そうですね、3次元になったときの仕掛けは、精巧に施されているなと思いました。小説には小説の面白さがあるけれど、それを演劇という舞台で立体化したときに、どうこの世界観が立ち上がってくるのかが見えてくる作りになっていると思います。以前私は、どちらかというと、漫画的にも感じる『巨匠とマルガリータ』の世界観より、『白衛軍』の方が、切実味がある印象で好みでした。ですが、『白衛軍』を演出してから、『巨匠とマルガリータ』の方が好きになりました。たしか、2年前の『白衛軍』での大森さんとの対談イベントの際に、大森さんがブルガーコフ『ソヴィエト連邦政府への手紙』(宮澤淳一訳)を紹介してくださり、そのなかから
「内戦の数年間、意思では変えようのない歴史の定めによって白衛軍の陣営に放り込まれた一家を『戦争と平和』の伝統にのっとって描きました。しかし、この種の描き方が導く事態とは、ソ連におけるこれらの作品の作者は、赤軍、白軍どちらに対しても冷静な態度をとろうと懸命に努めていても、そうした描き方のせいで、登場人物と同様に、敵としての白軍の身分証を受け取ることになるのです。そして受け取ったが最後、周知のとおり、ソ連では身を滅ぼした人間だと誰もが気づくことになるのです。」
(太字はブルガーコフ強調箇所)
という一節を引用していただきました。
拡大解釈ですが、思うに「自分が史実を踏まえ述べたことが、それだけで白に見られてしまう。なんで人は表見的なところだけで判断してしまうんだろう」ということにブルガーコフは苦悩したんじゃないかなと。だからこそ、作中では、人や価値観を白と黒といったように区別して描くことはしたくなかったのではないかと感じました。そうした視点で『巨匠とマルガリータ』を読み解くと、「善と悪」を描いているけれども、それはどちらか一方に割り切れるものでなく、つまり、悪魔たちは私たちに刷り込まれている固定概念の悪に満たされただけの存在だけでない。または、権力者は分かりやすい傍若無人な権威的な人間だけでない。というように、イメージとそのイメージと相反するものとの間、間(あわい)のなかの複雑さを見つめることで、人生はより豊かなものになる、とブルガーコフは説いてるようにも感じます。そう感じて読むと、『巨匠とマルガリータ』の漫画的な部分も、より多層的で、人間の可能性を信じているからこその世界のように思えてきました。
戯曲でも、ケンプさんがそこを丁寧に拾っている気がします。特に、全4パートのうちの3パート目以降は、深遠かつ哲学的にも見せている。さまざまなタイプの戯曲を演出する私から見た、本戯曲としての立ち位置は、現場で一緒に作り上げていく台本であり、舞台ならではの、演者を通して、スタッフワークを通して面白さが立ち上がってくる戯曲だと思います。
小田島:ケンプ版では、原作と比べて、ヴォランドの登場も遅いですよね。そして、ヴォランドが登場したときに、この世界がヴォランドを必要とした意味がすごくクリアになっている感じがしました。そこを見ていると、ヴォランドの物語に入りやすくなるかもしれません。
[撮影:阿部章仁]
ブルガーコフが描く「臆病の罪」
大森:ケンプ版の戯曲では、一幕から人間の「臆病の罪」についての話が出てきますが、実はブルガーコフの主要作品を俯瞰したときに、重要な主題の1つがこの「臆病の罪」なんです。ケンプ版の戯曲では、それを最初に持ってきていて、心が震えました。よくぞ、そこに着目したなと。ブルガーコフ自身、臆病は人間の欠点のなかで一番悪いものだと考えていたようです。彼は、革命後の内戦期を扱った自伝的な小説のなかで、自らの死を恐れて、無実の人間を見殺しにしてしまう臆病な主人公をよく描いています。「臆病の罪」は、哲学的にも難しい問題だと思いますが、『巨匠とマルガリータ』でも巨匠とピラトが同じ欠点を抱えています。スターリン時代の作家は、書きたいものを書いて上演したり、出版したりすることができませんでした。ブルガーコフ自身も巨匠のように文壇から激しく批判され、恐怖と絶望から原稿を燃やしたこともありました。また、ブルガーコフと独裁者スターリンとの関係を考えるとき、ブルガーコフが臆病を克服できずに悔やんだこともあったはずです。そうした作家の思いも本作に反映されているのだと思います。一方で、ピラトは中間管理職的な立場で、ヨシュアが無実だと分かっていても、ローマ皇帝の怒りを買うことはできず、自分の保身のためにも死刑を宣告するしかなかった。そうした権力者の立場から見た「臆病の罪」もブルガーコフは描いています。人間にはさまざまな逡巡や心の動きがあって、「臆病は悪いことだから、勇敢でなければいけない」と自覚していても、実際にその場にいたら臆病になるしかないという状況は誰もが経験したことがあると思います。ブルガーコフの「臆病」の原点は、おそらく内戦の記憶だと思いますが、その後の1920年代から1930年代にかけても、さまざまな立場から見たときの「臆病の罪」の問題は、彼にとってとても切実な問題でした。その意味で、この「臆病」のテーマを取り上げているケンプ版の戯曲は、とても素晴らしいと思いました。『巨匠とマルガリータ』は、つい悪魔に目が行きがちな作品ですが、それだけではないのがこの作品の魅力でもあります。
[撮影:阿部章仁]
上村:ちなみに、この作品には、ストラヴィンスキーとベルリオーズというクセのある人物が出てきますが、彼らは有名作曲家の名前を重ねています。大森さんが以前に、彼らは『ファウスト』とも関連があるのではないかとおっしゃっていたと思いますが、あえて揶揄するようなキャラクターとして登場するのでしょうか?
大森:たしかに、『巨匠とマルガリータ』の創作に大きな影響を与えたゲーテの『ファウスト』と関連していますが、揶揄というよりも『ファウスト』の音楽作品に対するオマージュといったほうが適切かもしれません。ブルガーコフは自らの作品にヨーロッパのクラシック音楽を多く取り込んでいます。
まず、文学界の重鎮のベルリオーズについてです。19世紀フランスの作曲家のベルリオーズには、『ファウストの劫罰』というゲーテの『ファウスト』の翻案作品や、『幻想交響曲』があります。『幻想交響曲』にも、『ファウスト』の「ワルプルギスの夜」と同様に、魔女たちの饗宴が描かれる楽章があって、『巨匠とマルガリータ』の悪魔の大舞踏会のシーンを連想させます。ちなみに、この『幻想交響曲』には、『巨匠とマルガリータ』との重要な共通点がもう1つあります。この作品には「ある芸術家の生涯についてのエピソード」という副題がついていて、作曲家のベルリオーズ自身が音楽の情景を説明する物語を書いています。それは、失恋した若い芸術家がアヘンで自殺を図ろうとするのですが、致死量に至らなかったため、さまざまな幻覚を見る」というストーリーです。全5楽章のうちで特に迫力があって衝撃的な標題がついているのが、第4楽章の「断頭台への行進」です。この楽章で芸術家は、夢のなかで恋人を殺害したことで死刑を宣告され、断頭台で首が斬られてしまいます。つまり、ブルガーコフに「ベルリオーズ」と命名された登場人物は、その名前ゆえに『巨匠とマルガリータ』の中でも首を切断される運命にあると言えます。
また、精神科医のストラヴィンスキーのほうですが、バレエ音楽の『春の祭典』で有名な20世紀ロシアの作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーと関係がありそうな気がしますが、ブルガーコフ研究においては、フョードル・ストラヴィンスキーという、イーゴリ・ストラヴィンスキーの父親で19世紀ロシアの有名なオペラ歌手の名前に由来するという説が有力です。彼は、19世紀フランスの作曲家グノーのオペラ『ファウスト』の悪魔メフィストフェレス役を得意としていました。こうして、ブルガーコフは小説の精神科医にメフィストフェレス役のオペラ歌手の名前を授けることで、悪魔の雰囲気をストラヴィンスキー教授に纏わせようとしているのかもしれません。
公演概要


(上段 左から)成河、花乃まりあ、篠井英介
(下段 左から)松島庄汰、菅原永二、大鷹明良
『巨匠とマルガリータ』
【公演日程】2026年11月7日[土]~23日[月・祝]
【会場】新国立劇場 中劇場
【原作】ミハイル・ブルガーコフ
【翻案】エドワード・ケンプ
【翻訳】小田島創志
【演出】上村聡史
【出演】
成河 花乃まりあ 松島庄汰 菅原永二
明星真由美 小松利昌 富山えり子 内田健介 山本圭祐
山森大輔
柴 一平 釆澤靖起 近藤 隼 猪俣三四郎 篠原初実
笹原翔太
大鷹明良 篠井英介
ものがたり
舞台は1930年代のモスクワ。文学界は官僚主義と検閲にがんじがらめ。そんな中、劇作家である、通称「巨匠」は、キリストの処刑を決めたローマ総督・ピラトを題材にした野心的な作品を書き上げる。
しかし、その作品は体制に受け入れられず、激しい批判にさらされ、絶望の淵に突き落とされた結果、彼は自分の原稿を焼き払い、精神病院へと姿を消してしまう。
一方、巨匠には愛する女性、マルガリータがいた。彼女は美しく聡明で、巨匠の才能を誰よりも信じていた。巨匠がいなくなり、絶望的な日々を送るマルガリータの前に、突如として奇妙な外国人ヴォランドとその取り巻きたちが現れる。ヴォランドはモスクワの街で様々な騒動を引き起こしながら、市民たちの本性を試そうとしていた。マルガリータは、唯一の願い"愛する巨匠と再び会うこと"を叶えてもらうためにヴォランドの取引に応じる。ヴォランドの目的、巨匠の運命、そしてマルガリータの愛の行方は一体どうなるのか──?
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『巨匠とマルガリータ』小田島創志(翻訳)×大森雅子(千葉大学大学院教授/20世紀ロシア文学)×上村聡史(演出/演劇芸術監督)スペシャル座談会【後編】