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<ギャラリープロジェクト> 『スリー・キングダムス Three Kingdoms』主人公イグネイシアス刑事の足跡を追って③【エストニア編】
上村聡史(『スリー・キングダムス』演出)× 大中 真(桜美林大学リベラルアーツ学群教授)
イギリス演劇界の奇才 サイモン・スティーヴンスが描く、現代社会の闇を深くえぐる衝撃作『スリー・キングダムス Three Kingdoms』。本作は、ある猟奇殺人を追う二人のイギリス人刑事が捜査を進めるうちにヨーロッパ全土に広がる国際的な犯罪組織の存在にたどり着き、ロンドンからドイツ、そしてエストニアへと舞台を移しながら、資本主義の裏に潜む人間の暗部と対峙していく壮大なサスペンスだ。
今回、日本初演の演出を担当する上村聡史がイギリス、ドイツ、エストニアに深い縁を持つクリエイターや専門家と対談。本作への理解を深めるために、それぞれの国の風土や国民性を探る。第3回となる今回は、桜美林大学リベラルアーツ学群教授を務め、エストニアに関する著作も多数出版している大中 真にエストニアの成り立ちや風土について聞いた。
周辺の大国からの占領を経験してきたエストニア
上村:『スリー・キングダムス』の中にエストニアのタリンが登場していることから、今回はタリンを中心にお話をお伺いできればと思います。タリンはエストニアの首都であり、人口は45万人ほどになります。この45万人の多くはエストニア人だと考えてよろしいのでしょうか?
大中:エストニアの全人口は137万人程度で、その約3割程度がロシア系の人たちになります。なので、純粋なエストニア人は100万人いないんですよ。残りのロシア系の人たちというのは、ソ連占領下にやってきて、そのまま移住して住んでいる人たちです。さらに、全人口の3分の1がタリンに集中しています。なので、ロシア系の人の多くもタリンに住んでいることになります。タリン人口の5割以上がエストニア人、4割近くがロシア系です。
上村:エストニア人、ロシア人以外にはどんな国の人がいるのですか?
大中:フィンランド人など北欧の人が多いですね。ドイツ人やイギリス人もいると思います。日本人も。
上村:エストニアはこれまでドイツ、ソ連などの占領を経験しています。そうした占領時代のどの国からの影響が強いなどあるのでしょうか?
大中:期間はドイツがはるかに長いので、建物や文化もドイツの影響が大きいようです。ドイツ人に言わせるとタリン旧市街は典型的なドイツの街並みだそうです。
上村:例えばポーランドのワルシャワにはスターリン時代に造られた荘厳な建物が今でも残っていますが、エストニアはソ連時代の文化の影響はあまり受けていないのですか?
大中:ユネスコの世界遺産にもなっているタリン旧市街地には、19世紀の終わり頃に建てられたロシア正教の大きな教会があります。丘の一番高いところにそれを作ることで支配の象徴としたのだと思います。ただ、それ以外の街並みはドイツの影響が残ったままですね。街の郊外はソ連の時代にだいぶ開発されたようですが、旧市街だけはおとぎの国のような、ドイツ風の建物がたくさん並んでいて、完全に観光地化しています。
上村:現在のプーチン政権による脅威というものはどのように感じているのでしょうか?
大中:最近、現地を訪れることができていないのですが、相当、警戒していると思います。エストニアは今、EUの中でロシアに対する最強硬派なんですよ。エストニアの前首相が、現在、EUの外務大臣に当たる役職に抜擢されて、ヨーロッパの中枢にいます。そうした経緯や占領されたという歴史もあって、バルト三国とポーランドはロシアに対してもっと強硬に対抗すべきだ、ウクライナをどんどん支援するべきだという路線を採っていて、国民もそれを支持している人が多いように感じます。
上村:国民性という部分ではいかがですか? イギリス人は歴史的にも地理的にも自分たちの誇りを強く固持する。ドイツ人は電車が遅れることがないくらい真面目などとよく言われますが、そうした一般的なエストニアの国民性は?
大中:律儀でパンクチュアル(時間を守る)です。なので、日本人とは合うと思います。その代わり、打ち解けるのには少し時間がかかります。最初は何となく冷たく見えるのですが、いったん仲良くなればかなり心を開いてくれます。僕も若い頃に短期留学で出会った人たちと30年以上、交流が続いているんですよ。最初はとっつきにくい印象でしたが、寡黙ですごく良い人たちです。
若い世代が引っ張るIT先進国
上村:エストニアはIT先進国でもあり、Skype(スカイプ)の発祥国でもあります。エストニアがITに強くなった理由は何かあるのでしょうか?
大中:明確な理由というと難しいですが、1991年に独立回復した後、早い段階からコンピュータ教育を国家として進めていました。それは小国が生き残るための手段だったのではないかと思います。アントレプレナーシップという理念のもと、起業家を支援し、それを使って立国しようという国家の政策でした。
上村:IT化にあたり、どこかの国の協力は仰いだのですか?
大中:もちろん支援を受けたとは思いますが、どの国でどういった支援だったのかまでは分かりません。現在、エストニアには電子IDカードと呼ばれるものがあり、全てのことがその1枚でできるんですよ。選挙の電子投票も銀行の決済も行政手続きも全てそのカード1枚です。
上村:マイナンバーカードの発展したものというイメージですか?
大中:実は日本のマイナンバーカードはそのエストニアのIDカードをモデルとしているんです。日本のマイナンバーカードを作るときに、エストニアの技術者が支援したそうです。
上村:他のバルト三国のラトビアやリトアニアに比べても、エストニアはITの印象が強いですよね。
大中:そうですね。それから、政治学でいうと体制転換がうまくいった国でもあります。ソ連からの独立回復後に、計画経済や共産党の一党独裁をやめて、自由経済や民主主義を導入しましたが、それが最も成功した国の一つだと思います。ポーランドのように通貨の価値が落ちて、反動的に右翼的な政党が起こるということもなく、エストニアは一気に改革に進んでいきました。
ソ連から独立を取り戻した後に、20代、30代の若い人たちが国の指導権を握ったということも大きかったと思います。だからこそ、ソ連時代の共産主義的教育のしがらみがなく、一気に改革を推し進められたのかなと。当時、タルトゥ大学という名門校の20歳の若者が、その若さで法務大臣顧問になったことが話題となりましたが、若い世代が引っ張ることで柔軟にITを使った国の在り方を進めていったのだと思います。その若者はその後、EU史上最年少の35歳の若さでエストニア首相になりました。
上村:若い人たちが中心になったというのは、「若い人たちにチャンスを」という積極性からくるものですか?
大中:そうだと思います。世代対立があったのか分かりませんが、社会が完全に分断されたり、分かれたわけでもなく、ただ世代交代が進んだと、外から見ていると感じます。
上村:ITの話に戻りますが、エストニアはデータ大使館をあえてルクセンブルクに置いていると聞きましたが、これはロシアの脅威があるからですか?
大中:その話の詳細は知りませんが、十分ありえると思います。もし、ロシアがまた占領してきても、仮想空間で国家を存続可能にするということは真剣に考えていて、それによってエストニアは独立を保つことができるという発想ではないかと思います。
上村:仮想空間で国家を? 先生がそう想像されたというのは、エストニア人が土地に対する執着よりも、ネット上でも国家を成立させるという価値観があり得るからでしょうか? 例えば日本でも土地への執着が強い人は多いと思いますが。
大中:日本の場合は、他国に占領されて虐殺されたことがないので感覚が違うのかもしれません。もちろんエストニアでも土地に対する愛着はあるでしょう。ロシア革命の後に土地を手に入れて、農民として土とともに生きてきた国民性なので。ですが、現実問題として外国に何回も占領されたり、虐殺されたりしているので、ネット空間を生かそうとしているのではないでしょうか。
上村:経済的な面でいうと、エストニアはインバウンドや移民の積極的な受け入れはあまり考えていなかったのですか?
大中:あまり考えていないのではないかと思います。やっぱり寒い国ですから(笑)。ロシアの軍事侵攻後、ウクライナの避難民を積極的に受け入れているようですが、移民は少ないと思います。
上村:冬の厳しさはやはり相当なものがあるのですね。
大中:タリンは港町なのでそこまで寒くはないかもしれませんが、内陸はもっと寒いでしょうね。
上村:エストニアではどのような食事が一般的なのですか? ロシア系というよりはやはりドイツ系?
大中:僕はそういう印象があります。ジャガイモとスープとビール。それに黒パン。エストニアはビールもおいしいんですよ。ドイツ人がエストニアでビールを作り始めて、それが根付いたそうです。もちろんウォッカもありますが、「あれはロシア人がエストニア人をだめにするために持ち込んだんだ」とエストニア人が怒っているという笑い話もあります(笑)。
礼儀正しく真面目な国民性
上村:本作では、登場人物のセリフの中に国境近くの「ナルヴァ」という街の話も出てきます。その場所を巡って「ロシアなのかエストニアなのか」というセリフがあります。それから、罪を犯しても「ロシアに入ってしまえば、エストニアには引き渡せない」というセリフもあるのですが、実際にロシアとエストニアは行き来しやすいものなのですか?
大中:エストニア最東端のナルヴァは、エストニアとロシアの国境線というだけでなく、ヨーロッパとロシアの国境線なんですよ。僕も1度、訪れたことがありますが、ナルヴァ川が国境線になっていて、警備はすごく厳重でした。現実には、簡単に行ったり来たりはできないと思います。ナルヴァは、人口の95パーセントがロシア系の人なんですよ。ソ連時代にどんどんロシア人が入ってきて、ロシア化が極限まで進んだ街という印象です。
上村:ナルヴァでは、ロシア語が使われているのですか?
大中:市内のマクドナルドに入ったら、全てロシア語で書かれていました。その下にエストニア語が書いてあって。どこか殺伐とした感じがあって、治安もあまりよくなかったです。僕が訪れた90年代の終わり頃は、まだ引き倒されたレーニン像が広場にゴロゴロ転がっていて、エストニア政府も注意深く運営していたのではないかと思います。90年代にはナルヴァのロシア系住民がロシアに対して返還運動を始めて、ロシアがそれを利用してナルヴァを占領するのではないかという、現実的な懸念があったほど、政治的な場所です。なので、先ほどのセリフのように、行ったり来たりできるという雰囲気ではない。何重にもゲートがあります。今は特に、ロシアが戦争をしていますが、徴兵拒否のロシア人が逃れようとやってきて、フィンランドもエストニアも国境をシャットダウンしています。先月もそうした問題でエストニアでは逮捕者が出ていました。ですから、情勢を考えるとあまり現実味のないセリフかもしれません。
上村:なるほど。台本の中ではエストニアという国はロシアの闇にも近い、犯罪が眠る街という雰囲気を漂わせているのですが、タリンの治安はいかがでしょうか?
大中:タリンの治安は比較的良いと思います。観光地の旧市街は夜に出歩いても問題ないです。そもそもエストニア人はすごく礼儀正しくて真面目な国民性です。凶悪犯罪が頻発するということは少ないと思いますが...。
上村:タリンには歓楽街はあるのですか?
大中:さあ、僕が知らないだけかもしれませんが、アムステルダムの飾り窓のような地区はないですし、表立って売春婦がいるという場所も聞いたことないです。
上村:人身売買に絡んでいるという一面も台本の中で書かれていますが、エストニア国内の経済格差は大きいと感じますか?
大中:あまりない気がします。ずっと共和制でしたから、身分が固定されている昔からの家系の家とか、代々苦しくて、それこそ娘を身売りしないといけないような階層があるというのは聞いたことがないですね。
上村:そうすると、台本では、かなりデフォルメして書かれているのかもしれませんね(笑)。フィクションとして捉えたいと思います。これまでロンドン、ドイツ、そしてエストニアとお話を聞いてきましたが、エストニアという国とタリンという都市は国民性と都市性が一致している印象がありました。イギリスとロンドン、ドイツとハンブルクは、その国のイメージと都市のイメージが乖離している印象があったんです。そういった意味では、人口が少ないからこそ、国とコミュニティの連動性が密接なんだろうなと感じました。ありがとうございました。
大中:こちらこそ、今日はありがとうございました。
『スリー・キングダムス Three Kingdoms』公演情報
【公演日程】2025年12月2日(火)~14日(日)
【会場】新国立劇場 中劇場
【作】サイモン・スティーヴンス
【翻訳】小田島創志
【演出】上村聡史
【出演】伊礼彼方、音月 桂、夏子
佐藤祐基、竪山隼太、坂本慶介、森川由樹、鈴木勝大、八頭司悠友、近藤 隼
伊達 暁、浅野雅博
あらすじ
刑事のイグネイシアスは、テムズ川に浮かんだ変死体の捜査を開始する。捜査を進めるうちに、被害者はいかがわしいビデオに出演していたロシア語圏出身の女性であることが判明する。さらに、その犯行が、イッツ・ア・ビューティフル・デイの名曲『ホワイト・バード』と同名の組織によるものであることを突きとめる。イグネイシアスは捜査のため、同僚のチャーリーとともに、ホワイト・バードが潜伏していると思われるドイツ、ハンブルクへと渡る。
ハンブルクで、現地の刑事シュテッフェンの協力のもと捜査を始める二人だったが、イグネイシアスがかつてドイツに留学していた頃の不祥事を調べ上げていたシュテッフェンにより、事態は思わぬ方向に進んでいくのであった。
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