2009年 10月 29日|鵜山 仁
ロンドン塔
明日はユーロスターでロンドンからパリに向かうという、「ヘンリー六世」戦跡ツアー、英国編の最終日。
朝のうちに、シェイクスピアの生地ストラットフォードをたってロンドンへ。市内の地下鉄が半分は運休という悪条件の中、ロンドン搭を見学。ここは第三部の大詰め、グロスター公リチャード(後のリチャード三世)によるヘンリー六世殺害の「現場」である。
夏目漱石の言葉を借りれば、「倫敦搭は宿世の夢の焼点(しょうてん)のようだ」と。塔の歴史を彩るのは、必ずしも陰惨な物語ばかりではない。監獄であり、王宮でもあったというイギリス史の収蔵庫だが、この悪名高い場所に来ると、やはり人間が生きるということの負の部分、闇の部分についつい目が向いてしまう。
広い塔内を、文字通り駆け足で走り抜け、休む間もなく、ロンドンの中心部から北へ二十キロ、「ヘンリー六世」第二部、王家の「鷹狩り」と、「シンコックスの奇蹟」騒動の舞台であり、また第二部のエンディング、薔薇戦争最初の戦闘の地となった小都市、セント・オールバンズに向かう。
駅にたどり着いたのは、長い春の日も暮れなずむ頃。市街戦の現場にほど近い、「アベイ」と呼び名されるセント・オールバンズ大聖堂を訪ねたが、大聖堂の中では、オーケストラと合唱付きの大がかりな演奏会の真っ最中。他にあてもないので、遅まきながら当日券を買い求め、御堂の中に入ってみると、その夜のプログラムはカール・ジェンキンス作曲の「Armed Man平和のためのミサ曲」だった。約一週間、血で血を洗う戦いの現場を巡り、最後の最後に思いがけなく、コソボ紛争の犠牲者を悼んで作曲されたというミサ曲に出会うことになったわけだ。聖堂の闇に反響する鎮魂の調べに身をひたしていると、少しは胸のもやもやが晴れて、どこからか薄日が差してくるような気分になった。
その時はちっともそんなつもりはなかったのだが、八月以来稽古を重ねているうちに、今回の「ヘンリー六世」にも、この曲の中から、何曲か使ってみようという気になった。後で知ったことだが、「Armed Man」のメインテーマは15世紀の民謡に由来するらしい。百年戦争とは関係浅からぬ音楽だったわけだが、それにしても縁というものは不思議なものだ。
今日は第一部の初日。成功裏に幕を下ろせたと確信しているが、これまで二か月余の稽古ではぐくまれた、役者と登場人物の格闘を皆さんにお披露目する、うれしいような不安なような、晴れがましいようなちょっと寂しいような、印象的な一日だった。
セント・オールバンズ大聖堂
2009年 10月 19日|鵜山 仁
スワン劇場は改装中
シェイクスピアは1564年にストラットフォードに生まれ、1616年にやはりストラットフォードでなくなった。この生没年は、「ヒトゴロシ」、「イロイロ」と覚えるようにと、むかしむかし小田島雄志先生に教わった。
テュークスベリーからタクシーで約二時間、二十五年ぶりに立ち寄ったこの町、云わずと知れたシェイクスピア専門劇団、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの本拠地でもある。
現在メインシアターのスワン劇場は改装中だが、その代替劇場で、2008年に「ヘンリー六世」三部作を上演したコートヤード・シアターで、「冬物語」を観劇。そこで、今回、シェイクスピア大学の監修をお願いしている河合祥一郎さんにばったり。
この機会にと、ストラットフォードからバスで40分程度のところにある、「ヘンリー6世」でも大活躍の「キングメーカー」ウォリック伯爵を生んだ名家ネヴィル家の居城、ウォリック城まで足をのばしてみた。
シェイクスピアが自作中でも、格別な思いを披歴したとされる、故郷ウォリックシャーの、ここは中心地の一つである。アトラクションや、展示等、サーヴィス精神にあふれる観光スポットだが、ネヴィル家のステイタスの一端に触れた思い。
何しろ「キングメーカー」といわれただけあって、王位の行方を思うままに差配したらしい大プロデューサー、ウォリック。そんな彼も、「ヘンリー六世」第三部、死の場面では恐ろしく孤独だった。自らは演出者として、夢を作ることが生きがいの人生だったらしい永遠のナンバー2。彼の生と死は、僕たちライブアートの仕掛け人にとって、他人事とは思えない感興がある。
10月11日、稽古場では一、二、三部、ノンストップの通し稽古を敢行した。全編見渡してみると、ストーリーの質というか、目の付けどころがよくわかり、俳優諸氏の表情にもメリハリがついてくる。
ホッと一息つく間もなく、スタッフはいよいよ劇場の仕込みにかかる。キャストは稽古場最後の通し稽古クール。そしていよいよ16日からは俳優諸君も劇場入り。ここまではともかく「順調」にきている…。
ウォリック城
2009年 09月 24日|鵜山 仁
テュークスベリー寺院
さて初日まで一月余り、あいかわらず稽古場のスケジュールはぎっしりだが、さいわい順調に、前向きに進行していて、そろそろ通し稽古が楽しみ…という段階だ。舞台装置や衣裳、もろもろの発注のための打ち合わせも大詰め。
戦跡ツアーの方は、グロスターシャーのテュークスベリー。前回のウェークフィールドからはマンチェスター、バーミンガムを経由して、南に半日の行程。西暦1471年5月4日、この地での戦いが「ヘンリー六世」の最終戦だった。といっても、国王自身は既に捕らえられ、ロンドン塔に幽閉されていて、この戦闘には参加せず、指揮を執ったのは妻のマーガレット。ところが直前の「バーネットの闘い」で、名将ウォリックを失なったランカスター軍は、ここテュークスベリーで壊滅的な敗北を蒙り、ヘンリー六世の皇太子エドワードまでが殺害。続いてヘンリー六世も、ロンドン塔で暗殺されてしまう。このあたりが第三部の第5幕のクライマックスとなるわけだ。
現地テュークスベリーの街の中心には、命からがら聖堂に逃げ込んだランカスター軍がヨーク軍に皆殺しにされたと言われるテュークスベリー寺院が建っている。南郊に広がる草原には「血染めヶ原」なんて呼び名される一角もある。毎年6月には戦いを記念して、市民参加の戦闘アトラクションが催されるようだが、今年4月、現地を散策した日は、朝から霧が立ち込め、霧の中か何やら凄みのある木々が浮かび上がり、540年前の凄惨な戦いをほうふつさせる気配だった。それにしても、どこへ行ってもいつ果てるともしれない戦いの痕跡。僕らの戦跡ツアー、そろそろ別の潤いを探し求めたい気分にもなる。
霧に浮かぶ凄みのある木々
2009年 09月 14日|鵜山 仁
サンダル城址
サンダル城址
ヨーク市からは電車で約一時間、同じヨークシャーの田舎町、ウェークフィールドの街はずれ、住宅地の真ん中の丘の上に、というヨーク公リチャード・プランタジネットゆかりの城跡がある。
今では遺跡の入り口に、小さいながら歴史展示館めいた建物が立っていて、こぎれいな史跡センターといった体裁だが、数年前までは幽鬼のような城跡がわずかに崩れ残った、何とも不気味なロケーションだったらしい。しかしまあ今回の戦跡めぐり中、唯一戦跡らしい雰囲気を漂わせていたのは、何といってもここサンダル城だ。
「ヘンリー六世」第三部、一幕二場。ヨーク公とその息子、エドワード、ジョージ、リチャードの三兄弟が、数の上での不利を承知でランカスターとの決戦に打って出る、一族決意の場面の舞台がここサンダル城。この戦闘でヨーク公は王妃マーガレットをはじめとするランカスター方に惨殺され、ヨーク市の城門にさらし首になるわけだが、その「ウェークフィールドの戦い」の主戦場は、城跡のある丘の周辺。城址から三百メートル程ほど下った小学校の校庭にはヨーク公終焉の地という黒ずんだ碑が立っていて、丁度桜の花が花盛りだった。
稽古場は立ち稽古の第二段階。一部から三部まで一通り見当をつけて、先週末からは二順目に入っている。あたり前の話ではあるが、まあ相当な分量なので、とにかく先へ先へと稽古を進めないと、次、いつまた出番が巡ってくるか全く予断を許さない。楽しいながら、何かと気ぜわしい、本番四十五日前の稽古場である。
ヨーク公終焉を示す碑
「ウェークフィールドの戦い」のかつて主戦場には、小学校が建つ
2009年 09月 09日|鵜山 仁
タウトン古戦場の慰霊碑
古都ヨークからタウトンへは、タクシーで約30分。タクシーでなければ行けないような、へんぴなというか、とにかく見わたす限り、ただの野っぱら。ほんとに何もないところなのです、ここタウトンは。
史実によればヨーク方の総帥ヨーク公リチャード・プランタジネットの死後、西暦1461年3月27日、ランカスター方の勇将クリフォードが首に矢を受けて倒れ、その翌々日、29日、降りしきる雪の中、赤薔薇のランカスター vs. 白薔薇のヨーク、敵味方入り乱れての死闘が繰り広げられたこの古戦場。
両軍に別々に徴兵された親と子供が、偶然同じ戦場に居合わせ、敵味方に分かれて殺しあったという、文字通り血で血を洗う乱戦を、ひとり丘の上から見下ろすヘンリー6世の、哀切きわまるモノローグ。今回の第三部中でも、ひときわ印象に残る場面です。
約550年前の激戦とほぼ同じ季節。訪れた我々を迎えてくれたのは、あくまでも青く晴れわたった春の空。野中にぽつんと建った慰霊碑には、それでもひっそりと、黄色い花が手向けられていました。
稽古場の方は立ち稽古が始まったばかり。どんなアイディア、表現が飛び出してくるか分からない、現場ならではの、とてもスリリングな毎日です。ただし一度ざっと当たった場面を、更に練り直す機会が次に巡ってくるのは…何しろ1週間以上も先…まあそれも全編9時間、長大三部作上演の稽古場の醍醐味かと、一座あくまでも前向きに、ヘンリー6世ライフを満喫しています。