シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

VI シェイクスピアは『ヘンリー六世』をなぜ書いたのか? 河合祥一郎(英文学者)
2009年11月19日[木]

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最後に、別の切り口から『ヘンリー六世』執筆の動機を探っておきたいと思います。
今度は質問の仕方を変えておきます。
シェイクスピアはどんなものが書きたくて、結果として『ヘンリー六世』を書いたのか? という質問です。
書きたかったのは冒険活劇だとすでに申し上げましたが、その他にもあと4つのことを指摘しておきたいと思います。
一つは英雄、ヒーローですね。
二つ目が恋愛、ラブ。
三つ目が政治、ポリティクス。
そして四つ目が、民衆。大衆ですね。
まず英雄というのは、ジョン・トールボットがそれにあたります。面白いことに、このお芝居の中で、英雄はトールボット以外出てこないですね。ジャンヌ・ダルクは最初は英雄のように活躍しますが、後で悪魔と関わっていたことがわかって、英雄ではなくなってしまいます。ヨーク公もあまりにも人間味がありすぎ、英雄とは言い難い。途中で殺されてしまいますしね。後にシェイクスピアは、『ヘンリー五世』というお芝居で、いかにも英雄というヘンリー五世という王様を描いています。当時のイングランドにとっては非常に重要なお芝居で、国威を発揚した非常に政治的なお芝居になったわけですが、何しろヘンリー五世は、フランスを制覇し、イングランドをヨーロッパいちの国に持ち上げた立派な王様だったわけです。その立派な英雄ヘンリー五世が死んだところから『ヘンリー六世』は始まるわけですが、この芝居には、トールボット以外英雄がいない、英雄の影が薄い。主人公たるヘンリー六世は英雄のイメージではない。軍を率いるタイプではない。しかも、英雄たるべきトールボットも政治の権謀術数のもつれの中に巻き込まれて、いわば味方の内輪もめで命を失ってしまう。英雄を輩出することができない時代を描いた、描きたかったと言えるかもしれません。後に『コリオレイナス』というお芝居で同じことを描いています。コリオレイナスは英雄たるべき資格があるのに、民衆のおろかな考えのために追放されてしまう。トールボットが死んだのは、敵のせいではなく、自分たち味方の内輪もめのせいだという状況があったように、コリオレイナスは、おろかな考えのために民衆から追放されてしまう。
それを考えると、すなわちシェイクスピアが書きたかった英雄というのは、英雄とは英雄そのものとして存在するのではなくて、その周りの人々がどう支えるかによって、英雄は存在するということだったのかもしれません。トールボット自身がそう語っています。
「私は本物のジョン・トールボットだが、ここにいるのは、本物のジョン・トールボットではない。トールボットの影にすぎない」
というようなことを言って、オールヴェニュー伯爵夫人を煙に巻くわけです 。すなわち本来の英雄としてのトールボットは、軍を率いている軍隊全体がトールボットなのであって、一個人としてのトールボットは、本物のトールボットであっても、英雄トールボットではない、と。
私はトールボットの影にすぎない、というのは実に重要なセリフです。影(シャドー)は、シェイクスピアの大きなモチーフになっています。
私自身が卒業論文で書いたのが「シェイクスピアの影」だったのですが、影には、例えば『リア王』の中で道化が影のようにリアに付き従うとか、似姿とか、いろいろな意味があります。ユング心理学では、心の暗い部分、おろかな部分を指しますが、これはちょうどシェイクスピアの戯曲をみていてもぴったりあうんです。
英雄は実際に物理的に存在するのではなく、人々が頭の中で想像してそれを誰かに投影することによって英雄が存在する。そしてそれがトールボットという形でこの芝居の中では存在しえたはずなのに、人々自身がそれを壊してしまっている。
これは、のちに語る民衆の描き方にも繋がります。

次は、恋愛です。シェイクスピアはこの『ヘンリー六世』の後、さまざま恋愛悲劇を書きます。『ロミオとジュリエット』や『アントニーとクレオパトラ』など、その出だしがここにあった。特にマーガレットとサフォークの恋愛は、史実にはありません。シェイクスピアは完全にオリジナルで作り上げた。あれはいい場面ですね。サフォークがマーガレットに出会った時に独白をし続けています。相手の美しさに打たれてしまって独白をしつづけ、放っておかれたマーガレットが「何をぶつぶつ言っているのかしら」という展開は、明らかにシェイクスピア独特の描き方です。『エドワード三世』というお芝居でも、国王が伯爵夫人にほれて独白し続け、この女性を自分のものにできないだろうかと考える場面があります。マーガレットとサフォークの出会いの場面のみならず、後に別れなければいけない場面もシェイクスピア的です。ヘンリー六世に命令されて、サフォークが追放になるわけですが、これは明らかに『ロミオとジュリエット』で、ロミオが追放され、ジュリエットと別れなければいけないという場面の伏線と言いますか、一番最初のモチーフがここにあるんですね。