演劇研修所ニュース

第19期生 広島国内研修レポート

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2025年7月31日(木)より上演の朗読劇『少年口伝隊一九四五』の稽古開始に際し、舞台の地・広島に赴き、原爆の被害や平和の大切さを学ぶ3泊4日の現地研修を行いました。この国内研修は、「全日本空輸株式会社による新国立劇場若手俳優育成のための国内研修事業支援」により実現しました。

朗読劇『少年口伝隊一九四五』は、原爆によって壊滅的な打撃を受け、敗戦の後、9月、戦後最大級の枕崎台風の襲来によって更なる惨禍に見舞われた広島の悲劇を三人の少年の姿を通じて語る約1時間のドラマです。研修生たちにとってこの4日間は、作品の前提となる知識を得ると同時に、歴史を知ること・学ぶことの重要性を再確認する大変貴重な機会となりました。

研修生からの感想と共に、研修の様子をお届けします。

1日目
【見学場所】原爆ドーム、広島平和記念資料館

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原爆ドームの様子をつぶさに観察しました
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広島平和記念資料館の前で

広島に到着後まず向かったのは、原爆ドーム、そして広島平和記念資料館です。

様々な位置から撮られたキノコ雲の写真、強い熱戦で影の残った石、黒い雨がへばりついた壁、苦境にありながら被爆者の方々が書き残した手紙、ギザギザに変形した原爆瓦。研修生たちは4時間以上かけて、じっくりと資料館の展示を見つめていました。平和な生活では決して見ることのない、異常な痕跡の数々を目の当たりにし、想像もできないほどの熱や爆風の苦しみが存在したことを痛感しました。


2日目
【見学場所】本川小学校平和資料館、広島市平和記念公園レストハウス、放射線影響研究所、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館


2日目はまず、本川小学校平和資料館を訪れました。実際の被爆した校舎が保存して資料館として活用されており、熱でねじ曲がったガラス瓶や缶詰、広島の地形を示したジオラマなどが展示されています。

その後、広島市平和記念公園レストハウスに向かい、ガイドの方から原爆投下前後の広島の様子を聞きながら平和記念公園を歩き、被爆者の証言や過去の写真等の史実をベースにした再現VRを体験する「PEACE PARK TOUR VR」に参加しました。あの日あの瞬間に立ち会うかのような体験をして、「平和は創るもの」という教訓を深く心に刻みました。

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広島市平和記念公園レストハウスにて
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VRで1945年8月6日を追体験しました

午後には放射線影響研究所に伺い、放射線が人体にどのような影響を及ぼすかについてのレクチャーをお聞きしました。

放射線についての前提知識や基本的な用語説明に始まり、放射線影響研究所が被爆者の方々のご協力のもと行った、放射線による健康影響の研究について、科学的な視点から教えていただきました。
被爆時の体勢や体が向いている方向や周囲の環境によって被ばく線量の程度が変わることや、劇中で「原爆症」と呼ばれる症状について解説いただき、研修生たちは「より戯曲の理解が深まった」と口々に話していました。

広島がヒロシマになったあの日から今に至るまでの、人々の血の滲むような努力を感じた一日となりました。

3日目
【見学場所】袋町小学校平和資料館、旧日本銀行広島支店、広島県立文書館、呉湾艦船巡り、海上自衛隊呉資料館 てつのくじら館

3日目の午前中は、袋町小学校平和資料館、旧日本銀行広島支店、広島県立文書館を訪れました。

袋町小学校は原爆投下後に救護所にもなった場所です。行方不明者を探すための「伝言」がびっしりと残っている壁を見学し、当時の広島の人々の混乱や行方不明者への思いを知りました。


日本銀行広島支店は、原爆投下後の混乱の中でいち早く預金払い出し業務を再開し、そのことは『少年口伝隊一九四五』の劇中にも登場します。当時から残る重厚な金庫や、ガラス片が突き刺さったまま残る壁を見学し、当時の混乱に思いを馳せました。


広島県立文書館には、中国軍管区司令部による被害状況の記録や広島県知事の書簡、1945年当時に発行された中国新聞などの閲覧のために訪れました。研究員の方の解説のもと、手書きの文書や写真、絵など、貴重な実物資料を手にとって拝見する機会を頂き、一同大いに勉強になりました。

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広島県立文書館にて
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呉湾艦船巡り

午後には呉市に移動しました。海上自衛隊の潜水艦にまつわる史料館の見学や、湾艦船巡りのクルージングへの参加を行いました。海上自衛隊呉史料館 てつのくじら館には、第二次世界大戦中に設置された機雷の除去などを行う掃海艇についての展示があります。原爆被害のみならず、海上での戦闘や戦後に残存した機雷の除去にあたっての事故で亡くなった方も多くいることを学びました。研修生たちは、そんな方々への追悼の意も込めて朗読劇を上演しようと、思いを新たにした様子でした。

4日目
【見学場所】宮島、広島市郷土資料館


最終日は、井上ひさし作品にゆかりのある新劇俳優・丸山定夫が亡くなった地・宮島を訪れました。豊かな自然と静かな空気に包まれたこの地で、彼が最期を迎えたことに思いを馳せ、歴史の重みと命の尊さを深く感じました。


そして旅の終わりに、広島郷土資料館を訪れ、牡蠣養殖や山繭織りといった産業の資料を通じて、原爆投下前後の広島の風土や人々の暮らしを学びました。先人たちのたゆまぬ努力に触れ、地域に根差した文化と歴史を実感する一日でした。


こうして、朗読劇『少年口伝隊一九四五』の舞台の地・広島の地形、気候、風土、歴史を五感で感じ取り、原爆被害の実相とその復興を目撃する、実り多い研修旅行となりました。

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厳島神社にて
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広島市郷土資料館にて
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島の地場産業について学びました



~4日間を振り返って~

・原爆についても、戦争についても、学校で学習した範囲内の知識はあれど、どれ程凄惨な影響があったのかということについて、私が実感を持てるまで考えたことは今までなかった。この研修を通じて、原爆についての知識を深めたことはもちろん、自然や文化に触れることで、生活していた人の息づかいを、私の肌で感じることができたように思う。原爆が投下された、その事実を他人事として風化させることがないよう、この作品に臨みたいと考えるようになった。


・被爆された方のお話や残されている証言は、初めて知ることも多く、作品作りにおいても、俳優人生としても、とても得るものが大きかった。

放射線影響研究所でのお話も、作品への科学的な目線からのアプローチの可能性を感じるとともに、得たことをどう捉えどう扱うか、ということも考えなければならないと思った。

それらに加え、広島という地へ実際に立ったことが何よりも大きな収穫だった。凄惨な出来事があった場所、復興への火が灯っていた場所であり、実際に被爆した建物の周辺などは、匂いや空気感が全く違っていた。

被爆された方はいつか居なくなってしまう。原爆投下によって引き起こされた惨事を、そこから今ある広島の形まで復興を続けた広島の人々の心を、「平和」に向かって、我々がどのように未来へ伝え、つむぎ続けられるかを考え続けなければならないと強く思った。

・広島の地を歩き、遺された建物や資料に触れたことで、原爆の恐ろしさや日常の重みを肌で感じました。崩れた校舎、焼け焦げた持ち物、残された手紙。平和とは、命とは、生きるとは、様々なことを考える4日間でした。

言葉にすることの責任と向き合いながら、先々で感じたことを胸に、舞台では事実を真っすぐに届けていきたいと思います。

・自分の目で見て、肌で感じたこの4日間はとても貴重な日々でした。本や映像といった資料を見ているだけでは表れなかった感情がたくさん湧き出ました。

特に印象的だったのは、広島平和公園が「平和を創り出すための工場」として設計されたということです。「二度とこんなことが起こってはいけない」というメッセージを受け取った人たちがそれぞれの土地で語り、それが受け継がれていくことで平和が創り出されていく。私も今回の朗読劇『少年口伝隊一九四五』で語ることで、平和を創り出す一員になりたいと強く強く思いました。

・今回の研修旅行では、平和記念資料館や被曝建造物など、当時の資料を見て学ぶとともに、土地の空気感や人々の暮らしなど、80 年以上前から連綿と続いてきた生活に触れることができました。

またそれだけでなく、戯曲に出てくる川や自然を実際に見られたことは、舞台を作るにあたり、非常に大きな財産になったと感じます。

井上ひさしさんが描いた広島の世界を生き生きと表現できるよう、この研修旅行で得られた情報や感覚を大切に、演技に活かしていきたいです。

・広島では、VR 体験や映像をみて、原爆が歴史上のものではなく、現実だということを改めて感じました。どれも心が痛くなるものばかりで、これを伝えていかなければという気持ちが強くなりました。東京で原爆について調べると、悲惨なものやネガティブなものばかりが出てきますが、広島で見た資料には、原爆や戦争の悲惨さだけでなく、復興のことがたくさん書かれていました。広島県民がどのように立ち上がっていったのか、その復興の速さに感動もしました。

・生活の中にある、緑色、青色、白色、その他何千何万もの色が黒色に塗られていました。それから 80 年、今の広島があるのは立て壊しと再建の連続でした。荒野になってから、生きるためだけに建てた住居たちは今はサッカースタジアムになっています。一方で、路面電車は 80 年間走り続けています。

4 日間で感じたのは、人間の底力、草木の生命力、物事の二面性、言葉するとこのような事です。しかし、大事だと思ったのは言葉にできない感覚です。

・私は4日間の研修を通して、「ヒロシマ」のイメージが大きく変わりました。本などで見ていた広島は、私にとっては原爆が投下された悲劇の街でした。しかし、実際にこの土地に立ってみると、生々しい傷だけではなく、人々の生きる力強さが溢れていました。言葉では表しきれない痛みを抱えながらも、生き続けよう、誰かを生かそうと、8月6日のその日から復興に向けて前に進み始めた人々の足跡が、広島には残されていました。この力強い足跡を舞台上で誠実になぞりながら、ひとりの表現者として「平和」を繋ぐために何ができるのか、模索し続けていきたいと思います。

・最も多い移動手段は徒歩でした。呉の港、宮島の潮の満ち引きと潮風、広島市を流れる川、それらから得られる匂いや、風、地面の感触。当時生きていた人々になれない僕らが限りなく近づくための要素が、多く得られました。

人為的な惨劇と自然災害、それぞれがもたらした被害の爪痕を見て、感じ、学んだ四日間。当事者でない僕たちが戦後80年の節目の年に、この物語を上演する意義を見つける為のヒントとなる時間でした。

・口伝隊をたくさんの方の前で朗読する前に、広島の数多くの資料館や土地へ行き、色んな話を聞いたり見たりすることが出来たことは、本当にありがたいことだなと思いました。3泊4日という短い時間の中でひとつひとつしっかり見ていくと、思っていた以上に時間が足りず、各所にあるものや歴史を学び尽くすことが出来なかったので、それが凄く心残りです。しかしそれほどの歴史が各資料館にあり、人の数だけ歴史があるということを改めて実感することが出来ました。たくさんの人たちの暮らしがそこにあったことを伝えていきたいです。


・作品で描かれている土地を訪れて、実際のものを見たり、触ったり、感じたりできたことはとても貴重な経験となりました。実際に被爆した本川小学校や、被爆と人の健康についての研究を行っている放射線影響研究所、当時の資料を拝見することができた広島県立文書館、「ヒロシマ」を復興というテーマで描いた展示の「PRIDE OF HIROSHIMA」など、様々な視点から「ヒロシマ」を知ることができました。このような素晴らしい研修に、ご尽力いただいた全ての方々に感謝の気持ちを忘れず、作品と向き合っていきたいと思います。