鏡花往来

明治6(1873)
11月4日、石川県金沢町下新町(現金沢市尾張町)に生まれる。本名鏡太郎。父は彫金師、母は江戸下谷の生まれで、大鼓師中田萬三郎の娘。幼少時代は、母に草双紙の絵解きをねだり、薄葉で口絵や挿絵を透き写しにして物語の世界に遊んだ。
明治15(1882)
9歳 母すずが29歳で死去。若く美しい母が亡くなったことは、後の鏡花文学に決定的な影響を与えた。
明治17(1884)
11歳 金沢区高等小学校より転じた北陸英和学校の米人校長ポートルの妹に愛された。また近所の時計店の娘しげ、そして親戚の目細てるに親しむ。この3人は、亡母とともに鏡花文学の女性像の原型となる。夏に父と石川郡の行善寺に詣で、摩耶夫人像を拝し、以後同像への信仰をもち続ける。
明治24(1891)
18歳 前年小説家を志し上京。10月、東京・牛込区(現新宿区)横寺町の尾崎紅葉宅を訪ね、入門を許される。
明治25(1892)
19歳 第一作『冠弥左衛門』が京都の「日出新聞」に連載された。
明治26(1893)
20歳 初の出版『探偵小説 活人形』〔春陽堂)が刊行された。
明治27(1894)
21歳 父清次死去、帰郷するも一家貧窮で自殺も考える。この間『鐘声夜半録』『貧民倶楽部』などの秀作を紅葉に送ると、紅葉から叱咤激励の手紙が届く。再び上京。
明治28(1895)
22歳 紅葉宅から小石川に移る。『外科医』発表、田岡嶺雲に絶賛され、島村抱月らからは観念小説と称せられるなど、新進作家として文壇に迎えられる。『義血任血』が川上音二郎一座により浅草座で「瀧の白糸」の外題で初演されたが、無断上演をめぐり、紅葉との間で軋轢があった。
明治29(1896)
23歳 好敵手と目していた樋口一葉が没した。
明治32(1899)
26歳 神楽坂の芸妓桃太郎(伊藤すず、当時18歳、後の鏡花夫人)と出会う。秋に牛込区南榎町に転居。
明治33(1900)
27歳 小栗風葉らと春陽堂社員となり、『新小説』編集に携わる。『高野聖』を発表。
明治34(1901)
28歳 日本画家鏑木清方と出会い、以来、刎頸の友となる。
明治36(1903)
30歳 牛込区神楽町に転居、すずと同棲するが、紅葉に厳しく叱責される(このことは、後の『婦系図』に描かれる)。その紅葉が10月30日没し、葬儀では弔辞を読む。
明治39年(1906)
33歳 鏡花作品に傾倒する新派俳優喜多村緑郎の訪問を受ける。
明治40(1907)
34歳 やまと新聞に『婦系図』を連載。ハウプトマン原作『沈鐘』を登張竹風と共訳。
明治41(1908)
35歳 『草迷宮』刊行。『沼夫人』を発表。
明治43(1910)
37歳 5月に麹町区(現千代田区)下六番町に転居、終生の住処となる。
明治45(1912)
39歳 谷崎潤一郎と初めて対面する。
大正2(1913)
40歳 『夜叉ケ池』『狸囃子』(後の『陽炎座』)『海神別荘』を発表。久保田万太郎と知り合う。
大正4(1915)
42歳 本郷座で新派『日本橋』初演。
大正5(1916)
43歳 本郷座で新派『夜叉ケ池』初演。
大正6(1917)
44歳 『天守物語』を発表。
大正12(1923)
50歳 『山吹』を発表。
大正14(1925)
52歳 「鏡花全集」(春陽堂)15巻の刊行開始。参訂者は、小山内薫、谷崎潤一郎、里見弴、水上龍太郎、久保田万太郎、芥川龍之介。
昭和2(1927)
54歳 芥川龍之介が自殺、葬儀では先輩総代として弔辞を読む。
昭和4(1929)
56歳 『山海評判記』を新聞連載。
昭和12(1937)
64歳 帝国芸術院会員となる。
昭和13(1938)
65歳 歌舞伎座『湯島詣』上演に際し、巖谷三一脚本に加筆。
昭和14(1939)
66歳 谷崎潤一郎の長女鮎子と佐藤春夫の甥竹田龍児の結婚式で媒酌人を務める。絶筆『樓紅新草』を発表。
9月7日、肺腫瘍のため死去。枕頭の手帳に「露草やあかのまんまもなつかしき」と記されたのが絶筆となった。雑司ヶ谷墓地に埋葬。

※満年齢で表示
※吉田昌志編「年譜」(新編 泉鏡花洲 別巻二 岩波書店)ほかを参照

・大正6年に発表されて以来、昭和14年に鏡花が逝去するまで上演されることはなかった。

<人名は、演出、富姫、亀姫、図書之助、桃六の順>

昭和26年10月
[新派]伊藤道郎、花柳章太郎・水谷八重子(初代)・伊志井寛・藤村秀夫
昭和30年2月
[歌舞伎莟会]中村歌右衛門・中村扇雀(現坂田藤十郎)・守田勘弥・市川団蔵 ※莟会とは歌右衛門が主宰する勉強会。
その後、35年11月、47年9月に歌舞伎座の本公演で上演、演出は、岡倉士朗、戌井市郎
昭和35年10月
[宝塚月組]白井鐵造、天津乙女・神代錦・淀かほる・加茂さくら※ミュージカル・ファンタジイとして上演
昭和40年1月
[日生劇場]観世栄夫、中村扇雀(現坂田藤十郎)・澤村田之助・市川猿之助・片岡仁左衛門(先代)
昭和49年12月
[文学座]戌井市郎、杉村春子・稲野和子・大出俊/江守徹(Wキャスト)・三津田健
昭和52年12月
[日生劇場]増見利清、坂東玉三郎・中村梅枝(現時蔵)・三沢慎吾・小沢栄太郎※その後、図書之助は、坂東八十助(現三津五郎)、片岡孝夫(現仁左衛門)、真田広之、堤真一、宍戸開 亀姫は、中村芝雀、井上英以子、中村芝雀、宮沢りえ 桃六は、菅原謙次、鷲巣照織、坂東弥十郎、島田正吾が演じている。※平成18年より[歌舞伎座]で玉三郎演出
昭和54年3月
[日本オペラ協会]早川昭二 ※創作オペラとして、水野修孝作曲、金窪周作台本による。同協会で5演され、平成11年2月には新国立劇場制作で公演(公演監督:大賀寛)
平成元年10月
[演劇集団円]渡辺守章、後藤加代・野口早苗・佐古雅誉・宋英徳
平成7年
[松竹映画]坂東玉三郎監督、玉三郎・宮沢りえ・宍戸開・島田正吾
平成8年5月
[ク・ナウカ]宮城聡、美加理・※12年にはアジア各地で上演、23年6・7月にはSPACとしてふじのくに⇄せかい演劇祭2011で上演
平成9年2月
[花組芝居]加納幸和
※12年に再演 
平成19年6月
[遊劇体]キタモトマサヤ
平成23年6月
[少年社中]毛利亘宏、あづみれいか・大竹えり・廿浦裕介・堀口大介

主な上演歴

鏡花ゆかりの地を歩く

【その一】 誕生から青少年期をすごした金沢の街

明治六年十一月四日、金沢市下新町二十三番地に生る。名は鏡太郎。(「自筆年譜」(昭和三年)
加賀百万石の城下町、金沢の街を流れる女川の異名をもつ浅野川に程近い下新町に鏡花は生まれた。間口の広い大店の構えが歴史を感じさせる家屋が並ぶ尾張町の大通りの裏側の小路(新町通り)に瀟洒な泉鏡花記念館がある。ここが鏡花生家跡。記念館には自筆の原稿や書簡、初版本、鏡花遺愛の品などを所蔵展示。特に圧巻は、小村雪岱が描いた口絵、装丁本。画号も鏡花から授かり、意を凝らした装丁は鏡花独自の物語世界を見事に表象している。
この記念館の斜め向かいに、「あそびなかまの暮ごとに集ひしは、筋むかひなる県社乙剣の宮の境内なる御影石の鳥居のなかなり。」(『照葉狂言』より)と、書かれている久保市乙剣宮(通称:久保市さん)がある。鳥居脇には鏑木清方筆による「うつくしや鶯あけの明星に」という鏡花句碑が建つ。境内を通り抜け、社殿の右側を行くと短い石段の下り坂に出る。人呼んで「暗がり坂(暗闇坂)」。昔は商家の旦那衆がひと目を偲んで花街に通った細く狭い坂。特に黄昏時(逢魔時とも)ともなれば、魔怪を誘う唄をうたうには格好の場所。幼少の鏡花にとって境内は格好の遊び場、そして坂は魔物が現れては消える場所だったに違いない。
暗がり坂を下ると主計町の茶屋街。迷路のような路地を行くと浅野川河畔に出る。右に3径アーチも美しい、大正ロマンの趣を今に伝える浅野川大橋、左には中の橋(旧一文橋、鏡花は、この橋を渡って川向こうの小学校に通っていた)。この間の河畔が「鏡花のみち」。ゆったりと流れる浅野川のほとりに建ち並ぶ茶屋街を少年・鏡花は歩いた、に違いない。
浅野川大橋から東へ、梅ノ橋そばに「滝の白糸碑」がある。鏡花の『義血侠血』のヒロイン、初代水谷八重子がモデルだという。
浅野川の対岸に位置する、緑豊かな標高141メートルの卯辰山(通称:向山)も鏡花ゆかりの地だ。母鈴はこの山の望湖台の一角に埋葬されたし、母の化身ともいえる摩耶夫人像を祀っている善妙寺(元は通妙庵にあった)もこの山にある。鏡花が9歳の時に亡くなった母に寄せる思慕の念は、夫人信仰と結びついて神秘化され、亡母憧憬は鏡花の一生を貫くテーマとなった。

【その二】作家として牛込から神楽坂、そして麹町

明治22年、鏡花は友人の下宿で尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読み、魅せられる。そして、作家となるべく金沢を発ち、上京したのは17歳の時。すぐにでも紅葉を訪ねるつもりだったが、都会の広大さにも圧倒され、1年間の放浪生活の果てに帰郷を決意するも、せめて最後の思い出にと牛込横寺町の紅葉宅を訪ねる。そこでかえってきた紅葉の言葉は「お前も小説に見込まれたな」「狭いが玄関に置いてやる、荷物を持って来い」。翌日から玄関番をしながら、作家修業に励む。その紅葉宅、当時の建物は昭和20年の空襲で焼失したが、旧宅跡として残っている。この旧宅跡から数分のところに島村抱月が松井須磨子とともに興した芸術倶楽部もあり、今はそれを示す標識がある。
明治28年、紅葉宅を出て小石川戸崎町に移り、さらに小石川大塚町、牛込南榎町を経て、硯友社の新年宴会で出会った神楽坂の芸妓桃太郎(本名:伊藤すゞ、後に鏡花と結婚)と同居するために神楽坂下へ。南榎町の自宅跡(ここで『高野聖』などを執筆)は神楽坂の赤城神社から数分、今は2階建てのアパートになっていて、もちろん面影もない。当時、鏡花を贔屓にしていたというのが、割烹「うを徳」の初代主人。「うを徳」は『婦系図』に出てくるめ組、芝っ児の魚屋だが、今も神楽坂の雰囲気にぴったりの黒い板塀の高級割烹料亭として知られている。そして、神楽坂の坂を下り、今の東京理科大学神楽坂キャンパスのあたりに「泉鏡花・北原白秋旧宅跡」という碑がある。
そして、逗子での5年間の静養生活(ここでは『婦系図』『草迷宮』などを執筆)ののち、東京に戻り、明治42年、麹町土手三番町に新居を構えるも、翌年同じ麹町下六番町に転居。亡くなるまでをここで過ごす。向かいには里見弴宅や有島武郎邸、水上滝太郎宅も近くにあり、ここで『夜叉ヶ池』『天守物語』などを執筆。今は六番町という住居表示だが、一帯は「番町文人通り」という標識もあるくらいで、ほかに与謝野晶子、菊池寛、直木三十五、武田麟太郎、島崎藤村、藤田嗣治、中村吉右衛門なども住んでいた。鏡花の旧宅跡にもモダンな銘々板がある。
鏡花が世を去ったのは昭和14年9月7日のことだが、戒名は佐藤春夫撰による「幽幻院鏡花日彩居士」、小竹雪岱が墓石を構成し、雑司ヶ谷墓地に眠っている。

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