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※吉田昌志編「年譜」(新編 泉鏡花洲 別巻二 岩波書店)ほかを参照
明治六年十一月四日、金沢市下新町二十三番地に生る。名は鏡太郎。(「自筆年譜」(昭和三年)
加賀百万石の城下町、金沢の街を流れる女川の異名をもつ浅野川に程近い下新町に鏡花は生まれた。間口の広い大店の構えが歴史を感じさせる家屋が並ぶ尾張町の大通りの裏側の小路(新町通り)に瀟洒な泉鏡花記念館がある。ここが鏡花生家跡。記念館には自筆の原稿や書簡、初版本、鏡花遺愛の品などを所蔵展示。特に圧巻は、小村雪岱が描いた口絵、装丁本。画号も鏡花から授かり、意を凝らした装丁は鏡花独自の物語世界を見事に表象している。
この記念館の斜め向かいに、「あそびなかまの暮ごとに集ひしは、筋むかひなる県社乙剣の宮の境内なる御影石の鳥居のなかなり。」(『照葉狂言』より)と、書かれている久保市乙剣宮(通称:久保市さん)がある。鳥居脇には鏑木清方筆による「うつくしや鶯あけの明星に」という鏡花句碑が建つ。境内を通り抜け、社殿の右側を行くと短い石段の下り坂に出る。人呼んで「暗がり坂(暗闇坂)」。昔は商家の旦那衆がひと目を偲んで花街に通った細く狭い坂。特に黄昏時(逢魔時とも)ともなれば、魔怪を誘う唄をうたうには格好の場所。幼少の鏡花にとって境内は格好の遊び場、そして坂は魔物が現れては消える場所だったに違いない。
暗がり坂を下ると主計町の茶屋街。迷路のような路地を行くと浅野川河畔に出る。右に3径アーチも美しい、大正ロマンの趣を今に伝える浅野川大橋、左には中の橋(旧一文橋、鏡花は、この橋を渡って川向こうの小学校に通っていた)。この間の河畔が「鏡花のみち」。ゆったりと流れる浅野川のほとりに建ち並ぶ茶屋街を少年・鏡花は歩いた、に違いない。
浅野川大橋から東へ、梅ノ橋そばに「滝の白糸碑」がある。鏡花の『義血侠血』のヒロイン、初代水谷八重子がモデルだという。
浅野川の対岸に位置する、緑豊かな標高141メートルの卯辰山(通称:向山)も鏡花ゆかりの地だ。母鈴はこの山の望湖台の一角に埋葬されたし、母の化身ともいえる摩耶夫人像を祀っている善妙寺(元は通妙庵にあった)もこの山にある。鏡花が9歳の時に亡くなった母に寄せる思慕の念は、夫人信仰と結びついて神秘化され、亡母憧憬は鏡花の一生を貫くテーマとなった。
明治22年、鏡花は友人の下宿で尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読み、魅せられる。そして、作家となるべく金沢を発ち、上京したのは17歳の時。すぐにでも紅葉を訪ねるつもりだったが、都会の広大さにも圧倒され、1年間の放浪生活の果てに帰郷を決意するも、せめて最後の思い出にと牛込横寺町の紅葉宅を訪ねる。そこでかえってきた紅葉の言葉は「お前も小説に見込まれたな」「狭いが玄関に置いてやる、荷物を持って来い」。翌日から玄関番をしながら、作家修業に励む。その紅葉宅、当時の建物は昭和20年の空襲で焼失したが、旧宅跡として残っている。この旧宅跡から数分のところに島村抱月が松井須磨子とともに興した芸術倶楽部もあり、今はそれを示す標識がある。
明治28年、紅葉宅を出て小石川戸崎町に移り、さらに小石川大塚町、牛込南榎町を経て、硯友社の新年宴会で出会った神楽坂の芸妓桃太郎(本名:伊藤すゞ、後に鏡花と結婚)と同居するために神楽坂下へ。南榎町の自宅跡(ここで『高野聖』などを執筆)は神楽坂の赤城神社から数分、今は2階建てのアパートになっていて、もちろん面影もない。当時、鏡花を贔屓にしていたというのが、割烹「うを徳」の初代主人。「うを徳」は『婦系図』に出てくるめ組、芝っ児の魚屋だが、今も神楽坂の雰囲気にぴったりの黒い板塀の高級割烹料亭として知られている。そして、神楽坂の坂を下り、今の東京理科大学神楽坂キャンパスのあたりに「泉鏡花・北原白秋旧宅跡」という碑がある。
そして、逗子での5年間の静養生活(ここでは『婦系図』『草迷宮』などを執筆)ののち、東京に戻り、明治42年、麹町土手三番町に新居を構えるも、翌年同じ麹町下六番町に転居。亡くなるまでをここで過ごす。向かいには里見弴宅や有島武郎邸、水上滝太郎宅も近くにあり、ここで『夜叉ヶ池』『天守物語』などを執筆。今は六番町という住居表示だが、一帯は「番町文人通り」という標識もあるくらいで、ほかに与謝野晶子、菊池寛、直木三十五、武田麟太郎、島崎藤村、藤田嗣治、中村吉右衛門なども住んでいた。鏡花の旧宅跡にもモダンな銘々板がある。
鏡花が世を去ったのは昭和14年9月7日のことだが、戒名は佐藤春夫撰による「幽幻院鏡花日彩居士」、小竹雪岱が墓石を構成し、雑司ヶ谷墓地に眠っている。
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