演劇公演関連ニュース
<『巨匠とマルガリータ』関連コラム>ブルガーコフの生涯と作品
ミハイル・ブルガーコフにより執筆された小説を原作とする『巨匠とマルガリータ』が、11月7日(土)より新国立劇場 中劇場にて開幕します。
当時はソ連当局によって体制批判とみなされ、出版許可すらおりず、長らく封印されていた過去を持つ本作。検閲版としてようやく出版にこぎつけたのは作家の死後26年が経った66年。完全版の出版は73年までかかりました。幻想と現実、そして時代を巡り、人間の善悪や愛、芸術の不滅性を奇想天外に描いた本作は、今日では20世紀文学の最高傑作の一つと呼ばれています。
演出の上村がブルガーコフ作品を手掛けるのは、2024年上演の『白衛軍 The White Guard』に次いで二度目。
今回の公演に先駆け、『白衛軍 The White Guard』公演プログラムより、増本浩子氏(神戸大学 名誉教授)とヴァレリー・グレチュコ氏(東京大学 特任准教授)の共著による寄稿を公開いたします!
観劇前後にぜひご一読ください。
ブルガーコフの生涯と作品 (2024年『白衛軍 The White Guard』公演プログラムより転載)
増本浩子(神戸大学 名誉教授)
ヴァレリー・グレチュコ(東京大学 特任准教授)
医者から作家へ
ミハイル・ブルガーコフ(1891-1940)は、キエフ(当時はロシア帝国領、現在はウクライナ領キーウ)の教養市民層に生まれた。父は神学大学の教授だった。ブルガーコフはキエフ大学医学部で学び、第一次世界大戦の勃発によって在学中から軍の病院で働き始めた。大学を卒業したのは1916年で、十月革命後の内戦の時代にはロシアの地方都市で病院に勤務した後、目まぐるしく政府が交代するキエフに戻り、最終的には白軍の軍医として北コーカサスに送られた。この混乱の時代、どのような状況であろうと医者はどの陣営からも常に求められる存在だった。医者である限り引く手あまただったにもかかわらず、ブルガーコフは自らの内なる欲求に従って、1920年に身分の不安定な作家へと転身した。
1920年代の初頭、秀逸なストーリー展開とユーモアたっぷりな語り口が特徴的な短編小説が新聞や雑誌に発表されると、ブルガーコフはたちまちのうちに世間から注目される存在になる。彼は1921年に北コーカサスからモスクワに引っ越して執筆に励んでいたのだが、この時期の作品を読むと、作家としての腕をめきめきと上げていることがよくわかる。演劇界とも関係をもつようになり、戯曲をいくつか創作する。こうして1920年代半ばには、彼はソ連でもっとも注目される作家のひとりとなっていた。
『運命の卵』と『犬の心臓』
近未来のソ連を舞台にした中編小説『運命の卵』(1924年執筆)では、ある動物学者が生物の生命力を爆発的に増強させる「赤い光線」を発見し、この光線が愚鈍な共産党員によって誤って鶏の卵ではなく蛇の卵に照射される。孵化した蛇は「赤い光線」によって巨大化し、旺盛な繁殖力でまたたく間に大群となり、人々を恐怖に陥れる。一見奇想天外に思われるこの物語には、当時のソ連政権に対する手厳しい批判精神が込められている。「赤い光線」によって大量に生み出された攻撃的な怪物がモスクワに押し寄せてくるというプロットは、ロシア全土を血に染めた赤軍のもじりだろう。怪物を生み出す卵がドイツから送られてきたという設定は、マルクス主義がドイツで生まれたことをほのめかしている。この小説は1925年に文芸誌上に発表され、翌26年に本として出版された。
中編小説『犬の心臓』(1925年執筆)では、下垂体が若返りの効果をもつという仮説のもと、モスクワの医学者の手で犬に人間の下垂体と睾丸を同時移植する実験が行われるが、予想に反して犬は人間に変身する。臓器提供者が無教養な浮浪者だったために、善良な犬はとんでもない悪党になってしまい、教養あるブルジョワの医者を悩ませる。
犬が人間に変身する物語は、「新しい人間」の創造という共産主義の夢を寓話化したものである。共産主義の理論家たちによると、資本主義から社会主義に移行することによって、搾取から解放されたプロレタリアは高い精神性と教養とを有する調和のとれた人格者へと成長するはずだった。革命のユートピア的理念の熱狂的な信奉者たちは実際に、「新しい人間」の誕生を急ぐあまり、教育やプロパガンダのみならず、優生学に始まって人間と動物の交配にいたる似非科学の助けを借りようとした。ブルガーコフはこのような実験からよいものは何も生まれないと警告を発している、と解釈できるだろう。
『運命の卵』と『犬の心臓』で扱われている「大胆な実験」というモチーフ、すなわち、理論的にはすみずみまで考え抜かれているにもかかわらず、いざ実践されると思いもよらない怪物が誕生してコントロールがきかなくなり、悲劇的な結末を迎えるような実験のモチーフは、当時の現実と深く結びついていた。ロシアで行われていた革命という名の実験が迎えるであろう悲劇的な結末を、ブルガーコフはすでに予見していたのだ。
『犬の心臓』は『運命の卵』と同じ文芸誌に掲載される予定だった。ブルガーコフはこの小説の一部を作家仲間に朗読して聞かせ、その辛辣な風刺とユーモアに満ちた表現が大いに受けて、聴衆は腹をかかえて大笑いした。ところが、いざ発表という段になって検閲により発禁となってしまう。原稿は家宅捜索の際に没収され、その数年後にゴーリキーの努力によってブルガーコフの手元に戻されはしたものの、ソ連では1980年代後半にペレストロイカが始まるまで陽の目を浴びることはなかった。


当局との確執
20年代の終わり頃には、ブルガーコフの作品はすべて発禁処分となり、劇場も彼との契約を打ち切った。仕事も、作品を読者や観客に届けるすべも失ったブルガーコフは、自殺してもおかしくない状況にまで追い詰められた。
1930年、ブルガーコフはソヴィエト政府に手紙をしたため、外国に移住する許可を求めた。失敗すると収容所で死ぬ他はない、絶望的な一手を打ったのだ。数日後、ブルガーコフのアパートの電話が鳴った。「スターリンに代わります」と電話の声が言った。スターリンは次のような質問で話を切り出した。「あなたは私たちにもううんざりしてしまったのですか?」スターリンは神のようにふるまうのが好きで、このときは慈悲深い態度をとろうとしたのである。彼は外国への移住は許可しなかったものの、ブルガーコフが劇場とまた契約を結ぶことができるようにしてやった。なぜスターリンがこのように寛容な態度をとったのかは謎である、と伝記作家たちは書いている。若き天才詩人マヤコフスキーが自殺した直後のことだったので、ひょっとしたら世間を騒がせるような自殺者がもうひとり出ることを嫌ったのかもしれない。。
いずれにせよ、スターリンがブルガーコフの才能を高く評価していたことは確かである。ブルガーコフの自伝的長編小説『白衛軍』(1924年執筆)を戯曲化した『トゥルビン家の日々』(1926年初演)は、その反革命性をメディアがこぞって批判した作品だったが、スターリンは自ら手配して、モスクワ芸術座でのみ上演されるようにした。この例外的措置をスターリンは自分自身のためにとったのだった。彼はお忍びでモスクワ芸術座を訪れ、十回以上観劇したと伝えられている。
30年代にはブルガーコフはいくつかの劇場で演出助手やオペラ台本作家として働くことができたが、当局は猫がねずみを狩るようなゲームを彼に仕掛けることをやめなかった。メディアは彼のことをソヴィエト性に欠けると非難し続け、作品は発禁処分になり、戯曲の上演が許可されたかと思うと、すぐに禁止されたりもした。1939年に最新作が唐突に上演禁止になり、ストレスのせいで腎臓病が悪化したブルガーコフは、数か月後に急逝する。この時のこととして、次のようなエピソードが伝えられている。ブルガーコフが亡くなった翌日、彼のアパートの電話が鳴った。電話の声の持ち主はスターリンの秘書を名乗った後、次のように尋ねた。「作家ブルガーコフが亡くなったというのは本当ですか?」ブルガーコフの妻エレーナが「本当です」と答えると、電話の主は何も言わずに受話器を置いた。

Михаи́л Афана́сьевич Булга́ков
『巨匠とマルガリータ』
ブルガーコフが亡くなってから20年余りの歳月が流れ、ポスト・スターリン時代の民主化の動きの中で、ソ連では慎重を期しながらも、彼のいくつかの作品を出版しようとする試みが始まった。1966年、ソ連の文芸誌に掲載された長編小説『巨匠とマルガリータ』(1928-1940年執筆)が大センセーションを巻き起こす。ソ連の文芸誌に掲載されたのは検閲を受けた縮小版だったが、パリとフランクフルトではロシア語による完全版(1940年の最終稿)が出版された。
巨匠と呼ばれる作家とその恋人マルガリータの物語を縦糸、ドイツ人教授の姿をした悪魔ヴォランドとその一味によるモスクワの破壊を横糸として織りなされたこの長編小説は、巨匠と悪魔(ヴォランド/フォーラントはメフィストーフェレスの別称である)とマルガリータという主要登場人物からもわかるとおり、ゲーテの『ファウスト 第1部』を下敷きにしている。巨匠はイエスを処刑したピラトの苦悩を主題とする小説を書くが、イエス・キリストを賛美する作家として激しく批判されたために原稿を火中に投じ、精神病院に収容されている。一方、モスクワではヴォランドの出現とともに奇妙な事件が相次ぎ、混乱をきわめる。巨匠はヴォランドに助けられて精神病院を脱出し、燃やされた小説も灰の中から蘇る。巨匠はマルガリータと再会し、ふたりで永遠の住処へと向かう。
革命当初からソヴィエト体制をまったくのナンセンスととらえていたブルガーコフは、モスクワに悪魔を登場させ、当局の言うことを鵜呑みにして暮らしている人々を右往左往させる。悪魔はソヴィエト的価値や規則を超越した別世界の住人であり、ソヴィエト市民の日常を別の視点でとらえて、その滑稽さを暴くのである。この小説の冒頭にエピグラフとして掲げられた『ファウスト』からの引用は、ファウストに何者かと訊かれてメフィストーフェレスが「常に悪を欲しながら、常に善をなす/あの力の一部です」と答えるやりとりであるが、この引用にも見てとれるように、ブルガーコフの作品では悪魔が善をなす。これはソヴィエト体制における価値の転倒をカーニバル的に示している。つまり、真実や永遠の価値を知る巨匠が精神病院に収容されていることは、ソ連というさかさまの世界においては精神病院こそまともな人々の暮らす場所であり(ソ連では実際に多くの反体制派が精神病院送りになって「治療」を受けさせられた)、巨匠を偉そうに批判する評論家たちが大手を振って歩いているモスクワの方が実は狂っていることを表しているのである。
「原稿は燃えない」
この小説がソ連の文芸誌『モスクワ』に掲載されて初めて人々の目に触れたのは、作者の死後26年も経った1966年で、しかもそのテクストは検閲によってかなりの部分が削除されたり変更されたりしていた。にもかかわらず、この小説は大センセーションを巻き起こし、発行された15万部が数時間のうちに売り切れたほどだった。それ以後、正式に読めるようになるペレストロイカの時代までの約20年間、ソ連の人々はこの小説の完全版をサミズダート(地下出版)という形で密かに複製し、回し読みした。
創作当時にブルガーコフが現実に置かれていた困難な状況を考えると、この作品が明るいユーモアに満ち溢れていることには驚きを禁じ得ない。革命後のブルガーコフは、いつ命を落とすことになるかわからない綱渡りの人生を送ったが、それでも闘いをやめることはなく、机の引き出しのために原稿を書き続けた。発禁処分になったり、自らの手で原稿を焼却せざるを得ない状況になったりもしたが、彼の作品は最終的には読者のもとに届けられ、作者に名声をもたらした。ブルガーコフは『巨匠とマルガリータ』の中で強い信念をもって、「原稿は燃えない」というヴォランドの言葉とともに巨匠の作品をよみがえらせている。不遇な晩年を過ごし、死後も長らく黙殺されていたブルガーコフ自身の作品も、この言葉どおりにみごとによみがえったのだった。
著者プロフィール
増本浩子(ますもと・ひろこ)
1960年生まれ。神戸大学名誉教授。専門はドイツとスイスの現代文学・文化論、フリードリヒ・デュレンマット研究。著書に『フリードリヒ・デュレンマットの喜劇』(三修社)、『ドイツ文学と映画』(共著、三修社)、訳書にデュレンマット『ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む』(白水社)、デュレンマット『失脚/巫女の死』(光文社)などがある。
ヴァレリー・グレチュコ
1964年、ロシア西部スモレンスク生まれ。東京大学特任准教授。専門はロシア文学。著書に『ロシア文化の方舟―ソ連崩壊から二〇年』『ロシア・フォルマリズム―言語・メディア・知覚』(いずれも共著)、増本浩子との共訳にミハイル・ブルガーコフ『犬の心臓・運命の卵』(新潮社)、ダニイル・ハルムス『ハルムスの世界』(白水社)などがある。
●公演詳細はこちら
会場:新国立劇場 中劇場
上演期間:2026年11月7日(土)~23日(月・祝)
S席 11,000円 A席 7,700円 B席 4,400円
【作】ミハイル・ブルガーコフ
【翻案】エドワード・ケンプ
【翻訳】小田島創志
【演出】上村聡史
【出演】
成河 花乃まりあ 松島庄汰 菅原永二
明星真由美 小松利昌 富山えり子 内田健介 山本圭祐
山森大輔
柴 一平 釆澤靖起 近藤 隼 猪俣三四郎 篠原初実
笹原翔太
大鷹明良 篠井英介