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<コラム>『貴婦人の来訪』をよりよく理解するために

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フリードリヒ・デュレンマットの代表作『貴婦人の来訪』はどのような作品なのでしょうか。
66年前の初演から各国で様々な形態で上演され、世界中の観客を魅了し続けてきました。
観劇をより楽しみ理解を深めるために、現代ドイツ文学研究の増本浩子さんが、デュレンマットの出自や歩みとともに解説してくださいました。




増本浩子(ますもと・ひろこ)

神戸大学大学院人文学研究科教授、現代ドイツ文学・スイス文化論研究



フリードリヒ・デュレンマットについて


 『貴婦人の来訪』の作者フリードリヒ・デュレンマットは、ドイツ語圏スイスの20世紀文学を代表する作家のひとりである。彼は1921年、ベルン州エメンタール地方の小さな田舎町コノルフィンゲンに生まれた。父親は牧師で、古典ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語に通じた学者でもあった。デュレンマットにとって父親はいわば「神の代理人」であり、物心つくころには父親と父親の宗教に対して反発しか感じなくなる。大学では神学を専攻してほしいという父親の望みを当然ながら拒否して、ドイツ文学と哲学を専攻した。キルケゴールに関する博士論文の執筆を企てる一方で、文学創作も始めたデュレンマットの処女作は、1942年に書かれた『クリスマス』という、わずか14行からなる短編である。この作品でデュレンマットは神の死を宣告し、死んだ神にかかずらうことなく先に進もうとする。また、翌43年には『拷問吏』という短編を書いたが、この作品では世界という拷問部屋で神が拷問吏として人間を苦しめる。デュレンマットは、残酷な戦争が繰り広げられているこの世界に神が存在するとはとうてい信じられず、それでももし神が存在するのなら、世界大戦を許容している神は、父が説くような慈愛あふれる存在ではなく、サディストに違いないと考えたのだった。



デュレンマットが幼少期を過ごしたスイス、ベルン州のコノルフィンゲン
photo by schame87/stock.adobe.com

 1945年に短編小説のひとつが初めて活字になり、翌年には学業を放棄して本格的に作家活動を開始したものの、しばらくは鳴かず飛ばずの状態が続いていた。1947年に処女戯曲『聖書に曰く』がチューリヒ劇場で初演され、キリスト教をめぐるそのあまりにも挑発的な内容に観客の多くが激怒して大スキャンダルとなり、そのことでかえって注目を浴びるという「幸運」に恵まれた後は演劇を中心に活躍し、『貴婦人の来訪』(1956年)と『物理学者たち』(1962年)の大ヒットで世界的な名声を得た。ちなみに、デュレンマットが劇作家デビューしたチューリヒ劇場は、ナチス・ドイツの時代にドイツ語で自由に演じられる場として亡命演劇人が数多く集まり、稀有なレベルの高さを誇っていた。以来、ドイツ語圏でもっとも重要な劇場のひとつに数えられている。

 1966年には早くも自分の人気が翳りを見せ、記録演劇の登場によって流行遅れの作家とみなされるようになったことを自嘲気味に描いた喜劇『流星』を上演する。その後は主にシェイクスピアなどの古典作品の改作に取り組み、1973年になってようやく久々の新作喜劇『加担者』を発表するが、チューリヒ劇場での初演が大失敗に終わってしまう。これが原因でデュレンマットは長期のスランプに陥り、結局は演劇と訣別することを宣言するに至った。晩年の代表作は2巻からなる『素材』(1981年、1990年)で、文学的素材の歴史を語ることによって自分の人生を再構成するという特異な形をもった自叙伝である。第2巻が出版された直後の1990年12月、デュレンマットは心筋梗塞のため、ヌシャテルの自宅で亡くなった。




『貴婦人の来訪』の初演とその受容


フリードリヒ・デュレンマット 1970年、書斎にて
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 『貴婦人の来訪』は1955年に執筆され、翌1956年1月29日にチューリヒ劇場で初演された。邦訳は『老貴婦人の訪問』というタイトルで『デュレンマット戯曲集』第2巻(鳥影社、2013年)に収録されている(市川明訳)。この戯曲は、かつては文化都市として栄えたものの、今は落ちぶれて破産寸前のギュレンの町に、老貴婦人クレール・ツァハナシアンが帰ってくる場面から始まる。クレールは17歳のときに恋人アルフレート・イルの子どもを妊娠するが、裏切られて故郷を追われ、娼婦に身を落とした過去をもつ。そのクレールが自分を捨てたイルに復讐すべく、45年後に世界的大富豪となって故郷の町に戻ってきたのだ。彼女は貧困にあえぐギュレン市民に、大金と引き換えにイルの殺害を要求する。「ヒューマニズムの名において」いったんはその提案を拒否するギュレン市民だが......。

 コロス(合唱隊)を登場させるなど、古典的なギリシア悲劇の形式を踏襲しながら、独自の演劇論に基づいて「悲劇的喜劇」と銘打たれたこの戯曲は、初演で大成功を収めた後、世界各地で上演され、西側の情報をシャットアウトしていたソ連においてすら、銀行の国スイスから発信されたお金の誘惑の物語ということで、資本主義批判に格好の芝居としてもてはやされた。この作品は1959年に西ドイツでテレビ映画(ルートヴィヒ・クレーマー監督)が製作されたのを皮切りに何度も映画化され、オペラ版やミュージカル版も存在する。ソ連でもペレストロイカ期の1989年に、テレビ映画が製作された。



※増本浩子さんには、デュレンマットと『貴婦人の来訪』について公演プログラムにご執筆いただきました。さらに詳しい論考が掲載されています。




●公演詳細はこちら


貴婦人の来訪

会場:新国立劇場 小劇場

上演期間:2022年6月1日(水)~19日(日)

A席 7,700円 B席 3,300円