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『貴婦人の来訪』演出・五戸真理枝、インタビュー

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四月から連続上演されたシリーズ「声議論、正論、極論、批判、対話...の物語」。ラストを締めるのは、五戸真理枝演出によるスイスを代表する作家であり画家のフリードリヒ・デュレンマット作『貴婦人の来訪』(一九五六年初演)だ。舞台は産業が廃れ経済的にどん底の小都市ギュレン。かつて町と住民たちから捨てられながら大富豪となって帰郷するクレールと、彼女の財産目当てに群がる人々の対比をコミカルかつグロテスクに描き、長く世界中で上演され続ける秀作を、『どん底』(二〇一九年)で鮮烈な手腕を見せた五戸がどう解釈し、立ち上げるのか。私たちが生きる「今」と密にある歪みを暴くための、創作の核について訊いた。

インタビュアー:尾上そら(演劇ライター)




弱い個人と歪な社会に対話の機会を作る、

それが作者の意図では



─既訳と今回のための小山ゆうな訳の二つを拝読し、詩的でありながら軽やかに読み進むことができる新訳の魅力を堪能しました。翻訳の小山さんとは、かなり作業を共有されたのですか?

五戸 私は小山さんが翻訳・演出された『チック』(一七年初演)の演出助手をさせていただいていて。その時も台本づくりから参加させていただいたので、小山さんの選ぶ言葉の新鮮さや手順を間近にし感銘を受けていたんです。ドイツ育ちの小山さんは日本で生まれ育った私たちとは違う感性で、訳語として日本語を扱える。結果、六十五年以上前に書かれた作品がまとっていた既存の評価や格式のようなものも取り払う、みずみずしく「私たちのことをそのまま書いている」と思える、強い翻訳になったと思います。私からは翻訳の初稿に対し、言葉の置き換えやアダプテーションが可能かなどを小山さんに質問し、細かくすり合わせながら訳を仕上げる過程を共有することができました。


─翻訳の過程で作品に対する見方など変化されたのでしょうか?

五戸 「シリーズ『声』で上演するため最初に思い浮かんだ作品」と芸術監督の小川さんからうかがい、私もデュレンマットの社会や人間に対する批判がベースにあるのかと思って読み始めました。でも読み、訳す過程の中で、ただ社会に物申すためだけに書いたとは思えなくなって。主人公のクレールは若い頃の過ちで妊娠し、恋人に捨てられて町を去り、娼婦に身を落としながらも大富豪に見初められ、勝者となって故郷に帰って来る。非常に寓話的で現実にはあり得ない設定ですが、彼女の前半生、"産む性"が負わせられる社会的なハンディに関しては、今も昔も変わらずに苦しむ女性が世界中に存在し続けている。

 そんな女性たちの多くに逆転の機会はなく、社会は彼女らを切り捨て、復讐など思いもよらぬまま人生が過ぎてしまうのが現実ですが、作者はそんな女性たちのひとりに復讐の術と機会を与えることで、社会が、その社会に属する人々が繁栄のため捨て、置き去りにしてきたものを突きつける狙いなのではないか、と。一方的な批判ではなく、言葉も機会も与えられなかった女性の代表であるクレールに語らせることで、弱い個人と歪な社会に対話の機会を作る、それが作者の意図なのではないかと思うようになりました。


―確かに今の日本でも、ひとり親の問題は深刻ですが、特に女性の苦労を多く耳にします。

五戸 はい、ひとり親の問題に限らず、特に日本は社会の規範からはみ出す弱い者・規格外の者を容赦なく排除する傾向があると思います。芸術の世界でも同様のことはあり、「良い作品をつくる」の「良い」の部分にも多様な価値や視座があるはずなのに、声の大きな人の意見が主流になったり、人気の高い人の表現ならなんでも素晴らしいという風潮が起きたりしていると、私には思えるんです。「良い」の部分は、表現する人と見聞きする人のそれぞれが選べばいいのに。そういうことが生活の中に、幅広くたくさんあると思います。そこにお金や経済の問題も、大きく絡んでいますし。

 なのでクレールが果たそうとするのは、元恋人イル個人に対してではなく、そういう固定観念に縛られた排他的な社会、それを構成する不特定多数の人々に対しての復讐で、だから劇中の「(多額の寄付の)対価としての正義」という表現がしっくりくる。それをまた、クレール役の秋山菜津子さんがビシッと言ってくださるかと思うと、想像するだけで胸がすく感じがします(笑)。


―はみ出したところ、規格外のものから新たな可能性が芽生えることも多いのに、人間は未知のものや新しい価値観を本能的に恐れてしまう。皮肉なことだと思います。

五戸 それら未知のものに向き合い、必要とあらば取り入れなければ豊かさをもたらす発展も得られないのに。人間と、人間のつくった社会は弱さや矛盾に満ちています。今起きている戦争なども、同じ構図に当てはまるのではないでしょうか。今は世界各地で停戦を求める声が上がっていますが、ひとつ間違えて、相手の国を「敵」とみなした瞬間それ以外の要素や情報はシャットアウトされ、攻撃しても良い対象だと思い込んでしまう。

 逆に、権力者と言えど本来は同じひとりの人間のはずが、その権力や言動を仰ぎ見るうちに大勢で説得しないと声が届かず、束になってかからないと倒せない、手も足も出ない強大な存在に思い込んでしまう。本当に必要なのは相手とのフラットな対話なのに、行動する前から意識下でねじ伏せられたり、徒党を組んで無為に騒ぎ立ててしまう。そこがまた人間の"らしさ"で、哀しくも滑稽なところですよね。



劇場空間にいる全ての人が表現者になれる

演劇はそんな豊かな行為だと信じています


―Twitterなどネット上では、個人同士ですら対等に対話することが難しくなっている。まさに、このシリーズ「声」が問うところではないでしょうか。

五戸 日常、互いに見知る相手ときちんと対話できない状況なので、匿名で、自分と意見の異なる人に嚙みつくようなことをしてしまうのかもしれませんね。それで鬱憤を晴らすというか。先の芸術の良し悪しを判断する基準などにも通じますが、今の日本は個人の感性を殺し、経済のために生きることを暗に強いている。思えば私の子ども時代でも、学校教育の現場で"世の中の役に立つかどうか"の選別が行われ、個性や感性を伸ばす教科は最低限のコマ数しかなかった記憶があります。だから、社会に出て何がしたいかわからぬまま大人になり、働いて働いて家族を養うことにのみ腐心し、疲弊していく。

 人は、好きな絵を一枚部屋に飾り、お気に入りの音楽が流れていれば心安らぐ、そういったささやかな喜びで本来は幸せになれる生き物だと思うんです。芸術だけでなく、好きな食べ物や自然に触れることも同様の力を持っているはずです。


―演劇も、そんな個人の幸せの源になり得るもののひとつかと。

五戸 はい、演劇の面白い部分は、観客が劇場など表現の場にいて、種々のリアクションで作品に参加していただけるところ。劇場に足を運ぶこと自体が能動的ですし、観劇しながら想像することは観客自身の表現でもあり、普段は殺されている感性を揺さぶり、息を吹き返してもらう機会になるのではと、思っているんです。劇場空間にいる全ての人が表現者になれる。演劇はそんな豊かな行為だと私は信じているのです。

 そのためには劇中の、それぞれの問題や懊悩に直面している登場人物たちの苦しみや哀しみを一つひとつ丁寧に拾い、きちんと伝える必要がある。それこそが、お客様が自身を強く重ねる部分で、日常のほうがもっと解決困難な苦しみに満ちているはずですから。その点で、『貴婦人の来訪』は魅力的な寓話であると同時に、お客様が心を重ねて共に想像できる要素がたくさん詰まった作品だと思っています。

―無限の想像に心を解放しつつ、人間と社会の足元を見つめ直す。稀有な観劇体験になりそうです。

五戸 そこまでドラマティックになるか稽古前の今は私にも未知の領域ですが(笑)、お客様に働きかけることの多い舞台にできたらいいですね。劇中の出来事やキャラクターに心揺さぶられるご自身の、真の想いや欲するところに気づき、それを認めて先に進むための糧にする。この作品をご覧いただき、そんな発見をしていただけたなら、とても嬉しく思います。



新国立劇場・情報誌 ジ・アトレ 5月号掲載

<ごのへ まりえ>

2005年、文学座付属演劇研究所に45期生として入所10年、座員に昇格。演出助手などとして座内の多数の公演に関わる。2016年、文学座アトリエの会、久保田万太郎作『舵』で初演出。『桜の園』『阿修羅のごとく』『三人姉妹』『年あらそい』などを演出。演出助手としては『岸リトラル』『管理人』『坂の上の家』『娼年』『チック』『中橋公館』『食いしん坊万歳!正岡子規青春狂詩曲』などに参加。新国立劇場では『どん底』の演出のほか、『オレステイア』『城塞』に演出助手として参加。演出のほか、戯曲や童話の執筆も手掛ける。



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『貴婦人の来訪』

会場:新国立劇場・小劇場

上演期間:2022年6月1日(水)~19日(日)

作 フリードリヒ・デュレンマット

翻訳 小山ゆうな

演出 五戸真理枝

出演:

秋山菜津子 相島一之

山野史人 加藤佳男 外山誠二 福本伸一 津田真澄 山本郁子 斉藤範子

高田賢一 清田智彦 谷山知宏 髙倉直人 田中穂先 福本鴻介 田村真央



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