われわれにはどんな許しと和解が可能なのだろうか?
『アルトナの幽閉者』(1959年)は、アルジェリア戦争でフランス軍が行っていた拷問の問題を、第二次大戦の敗戦国ドイツでの物語に置き換えて扱っている作品だ。同じ敗戦国として、破壊、拷問、虐殺、戦争裁判、経済復興といった問題は、もし50年前にこの戯曲が日本で上演されたら、今よりももっと歴史的な切実さをもって観客に迫ったことだろう。
今、『アルトナ』は、そうした過去の記憶と重なりながら、また、3.11以降はふたたび廃墟、復興、「神話」崩壊のテーマを際立たせながら、50年前にはあまり切実とは見えなかったはずの一面をわれわれに突きつける。それは、生きる意味の喪失にすくみあがり苦しむ社会、ますます見えないものとなった〈他者〉によって一人ひとりが監禁されているように感じられる社会、自分のなかに巣食っている〈他者〉の欲望とイメージにみずからを合わせることで自己を疎外し、あるいはそれに疲弊して人が引きこもっている社会で暮らすわれわれに、みずからを切開するメスと病巣を見る鏡を手渡すように、迫ってくるのである。
『アルトナ』の人々は、われわれ誰もが狂っているように、狂っている。そして都合のいい真実だけを自分のものとして引き受け、欺瞞の幻想をつむぎながら、生きている。
風の吹いている、みんなが嘘をつき合っている町、それがヨハンナの幸福のイメージだ。われわれのなかに、これを偽善の名で平然と突っぱねることのできる者がいるだろうか? だがまた、ためらわずそれに同意することのできる者もいるだろうか? われわれにはどんな許しと和解が可能なのだろうか?
手強い芝居だ。だが劇場はサルトルを講じる哲学教室ではない。俳優が生身の人間としてもがき合う家族の対話へ、沈黙と叫びとさぐり合う言葉がぶつかりあう生の場へ、訳の言葉を造っていければと思う。
魂の叫びから生じる“生”の質感を劇空間へと表出できればと思います。
サルトル作品の中でも後期にあたる本作品は、フランスがナチスに虐げられた経験を顧みずアルジェリア戦争の際に行った拷問からサルトル自身が感じた“無条件の暴力”に対する考察が反映された作品です。敗戦後の復興を遂げていく西ドイツを舞台に設え、戦争体験の苦痛から、自らを幽閉した主人公フランツとその家族の葛藤が壮絶に描かれていきます。
現代日本を生きる私たちは2011年の痛烈な体験から資本社会における人間関係・他者の在り方を見直すことになりましたが、同時に戦後の日本人の在り方を問うことにもなりました。現代を生きる私たちが過去を今と切り離すのではなく、むしろ過去が自分自身の一部であるかのように捉えていく意識を持つ必要性を感じながら、一方で50年ほど前に書かれた『アルトナの幽閉者』では劇中フランツが三十世紀を生きる人間に向けて、自分の想いをテープへと吹き込んでいくシーンがあります。それは、あたかも輪廻していくであろう人類の営みの中で、自身の経験した悲惨な過去を血肉化しDNAとして残そうとする人間元来の姿のようでもあり、そのテープが再生される瞬間は、痛烈な過去が生み出した叫びがこれからの未来に刻まれていくようにも感じます。
観念的な理論で構成されたサルトルの世界観を、大きな人類の営みをも感じる神話的な広がりのある作品に仕立て、魂の叫びから生じる“生”の質感を劇空間へと表出できればと思います。