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修了公演『悩める劇場支配人』が英国のオペラ専門誌「Opera」誌で高く評価されました


オペラ研修所修了公演『悩める劇場支配人』(3月上演)が英国のオペラ専門誌「Opera」誌(2021年5月号)で高く評価されました。

以下全文を翻訳でご紹介します。

※掲載については「Opera」誌、執筆者の許諾を得ています。

Opera, May 2021

日本

東京

1801年1月11日に死去したチマローザは、時代を代表する最高峰のオペラ作曲家としてその死を世間に惜しまれ、近代音楽の名匠として没後20年間、事あるごとに名を挙げられていた。ところがその後、欧州はドイツ音楽台頭の歴史的局面(German Music History、略して「GMH」)に入り、チマローザの人気は急激に下降する憂き目に合う。当時、GMHはモーツァルトを18世紀オペラの中心人物に据え置くのに躍起になっており、確固たる地位を築こうとして、意図的に他の力ある競争相手たちの価値や評価を下げた。この卓越した天才こそが永遠の芸術を創造すると考えたGMHは、 ファッションから興行成績、当世への影響といった通俗的な側面に至るまで、一人の作曲家を特別に擁護したのである。その結果、60以上に及ぶチマローザのオペラのうち、モーツァルトのカルト集団による制度化、商品化をかいくぐって生き延びたのは『秘密の結婚/Il matrimonio segreto』(1792年)、たった一作だけとなってしまった。今日でも、チマローザのオペラがイタリア以外で上演されることは滅多にない。


この歪んだ文化的政治の特色とも呼べる側面は、チマローザの『悩める劇場支配人/L'impresario in angustie』とモーツァルトの『劇場支配人/Der Schauspieldirektor』の、同じ題材を扱い、更には双方とも1786年の作という興味深い偶然を伴う二つの作品を比較すると浮き彫りになってくる。本来ならば、この比較はモーツァルトにとって不公平だと言えるはずだ。というのも1786年当初、チマローザの方が高い地位を確立しており、『悩める劇場支配人』の方が、音楽の充実度も、欧州を一世風靡した衝撃もはるかに大きいものだったからだ。心酔者でもあったゲーテが自ら『悩める劇場支配人』をドイツ語に翻訳し、1791年にワイマールで初演を迎えてもいる。ところがその後、『劇場支配人』にブランド力が付加され、大きく上演回数を伸ばして計り知れない恩恵を受けたので、二作を比較することは、チマローザに対して不公平と言える状態へと覆ってしまったのだ。皮肉にも、どちらも舞台芸術の「現実社会」(チマローザの場合はオペラに特化)を描いていて、つまり、脆いエゴ、合理的な計算、「大衆」への深く相反する感情や、セックス、権力、ライバル心、虚栄心をテーマとして扱っている。そして、当の現実社会はどう反応したかというと、依然ロマン派への評価が色濃く、大いなる時代のための作曲をしたモーツァルトを優位に格付けし、自身の時代のための作曲をしたチマローザはその域を超えないとしたのだ。


両者を公平な立場から見ようとしている私ではあるが、日本で新国立劇場オペラ研修所の研修生による『悩める劇場支配人』が上演されると知った時には、興奮のあまり息を呑んだ。これはまさに進取的な企画で、このオペラには本来の意味でのスタンダードなスコアがないことを鑑みても称賛したい。『悩める劇場支配人』というオペラは完全に解消されたとは言えない構成上の問題をはらんでいる。1786年当初、チマローザが手掛けた5つの最高級の楽曲をジュゼッペ・ベネヴェントのレチタティーヴォが綴った作品は、英国で言うところの「アフターピース(主演目の後に添えられる短い喜劇、切り狂言)」のような扱いで、一幕物のファルセッタ・ペル・ムジカ(軽い喜歌劇)の枠組みで50分余りの素晴らしいファルサ(笑劇)として上演された。ゲーテが魅了された、作品の核とも評される五重唱の見せ場は特に秀逸で、これは劇中で詩人が、劇場支配人と作曲家、そして二人のソプラノに、自身が書き下ろしたリブレット『Le interne convulsioni di Pirro, contro gli affetti sterici di Andromaca(アンドロマケの激烈な愛に対するピュロス王の苦悩)』を提示すると、劇場支配人が「un titolo nuovo (斬新なタイトルだ)」と褒めちぎる場面である。だが、問題はその後、何が起きるべきなのかである。唯一、プロットとして実質的に重要な出来事としては、資金がないことに気づいた劇場支配人が失踪し、企画が頓挫することだと言っていいだろう。私個人は、元々このオペラが作曲された時、五重唱の後、あまり間を置かずに唐突な不条理劇のような結末で、この失踪が描かれる予定ではなかったかと思えてならない。つまりモーツァルトの『劇場支配人』とも、今日、窮地に陥っている多くの舞台芸術作品とも全く異なる、別のエンディングを意図したのではないかと考えているのだ。とはいえ、当時の上演資料をみると、1786年には、この案は行き過ぎていると捉えられたようで、結局、詩人がソプラノの一人であるフィオルディスピーナと結婚することに同意し、二人とも酷い状況の中では結婚することが最善だと受けとめたようにも取れる、ある種のハッピーエンドで幕を閉じている。


『悩める劇場支配人』が多言語に翻訳され、欧州各地で上演されるようになると、この台本をベースにし、驚くべき数のバリエーションがつくられたのだが、その多くは音楽を足してファルサを長くしたものだった。この傾向の頂点ともいえるのが1793年のウィーンでの上演であり、『悩める劇場支配人』が二幕物のドランマ・ジョコーゾ・コミコ(コミカルな喜歌劇)として、チマローザの他のオペラ曲や、他の作曲家の楽曲に加え、おそらくチマローザ自身によって新たに書き下ろされたと思われる音楽など、ふんだんに音楽を追加した公演であった。この版では五重唱が第一幕を締めくくり、デウス・エクス・マキナ的(どんでん返しのような)結末が編み出された。メゾソプラノのドラルバには裕福な叔父の遺産相続人に選ばれたストラビーニオという恋人がいるのだが、折良く叔父が亡くなり、彼が劇場支配人に就任する----再び公演が可能になる!というもの。そして、長くなった喜歌劇特有のフィナーレがあるのだが、いかに光彩を放っているといえども、作品のユーモラスな組み立てを踏まえると、どこか調和が取れていない感覚を否めない。さて、後にこの二幕物の版が新たにオリジナル版よりも長い一幕物へと圧縮され、今回新国立劇場が当オペラを日本に紹介するための版として選ばれたことは非常に重要である。本公演がオペラ研修所生の公演として起案されたのだから、この選択は当然とも言えるだろう。7人の登場人物が皆アリアを歌い、ある種、輝けるチャンスを最も平等に近い状態で構成しているのは、後になって発展を遂げた版なのだ。


3月7日に観劇した新国立劇場での公演は大きな成功を納め、チマローザの音楽のみならず、プロとして世界に羽ばたこうとしている日本の次世代のオペラ歌手の豊かな才能の素晴らしい宣布となった。オペラ研修所で演技の指導もしている久恒秀典が演出を手掛け、シンプルでエレガントな時代性を超越した装置(黒沢みち)と、18世紀の衣裳(増田恵美監修)が舞台空間を彩った。場の勢いを前へと推し進めていくのに新国立劇場中劇場の盆舞台が巧みに使われ、休憩なしの100分の上演は一度として間延びすることはなかった。そして指揮の辻博之は、新国立アカデミーアンサンブルを優雅かつ的確な細やかさで、チマローザの音楽に脈々と流れる歓喜を引き出した。私はダブルキャストの片方の組を観たのだが、一人残らず実力溢れる歌手で、若手アーティストならではの表現することの喜びに満ちていた。劇場支配人ドン・クリソーボロを演じたバリトンの井上大聞は見事なファルサの演技を発揮し、その印象、体の使い方、演奏までもが五十代に映った。三人の女性歌手たち、フィオルディスピーナの井口侑奏、メルリーナの和田悠花、ドラルバの杉山沙織の明瞭な音程の歌唱は妙々たる調べを紡ぎ、ドン・ペリツォニオの仲田尋一は力強く深みのあるバリトンの響きで詩人の尊大な性質を鮮やかに捉えていた(私が観なかった組のキャストには中国の歌手、程音聡が配役されていることも特筆したい)。テノールの増田貴寛は作曲家ジェリンドとして舞台上にのびやかな感情を吹き込み、そして、ストラビーニオを演じた森翔悟にももっと活躍できる場があったらと感じてしまったのは、主にこの役が他の登場人物たちに比べて深く書き込まれていないからに他ならない。


この『悩める劇場支配人』公演には抜群の瞬間がちりばめられていて、その全てがどう卓抜していたかを書き記すには何ページも必要だが、特に一つだけ選んで紹介しよう。メルリーナは同スコアで魅惑的なアリア、「Il meglio mio carattere(私の十八番として)」を与えられていて、いかに自分は世間知らずの純真なヴィラネッラ(田舎娘)役にふさわしいかを自慢するのだが、このアリアはブッファに長けた才能豊かな歌手には最高の贈り物だと言える。というのも、鼻高々で威張り屋のオペラ歌手と、恥ずかしがり屋なヴィラネッラ、二つの大きく異なる人格をまるで物真似のように演じ分けることが要求されるからだ。更にアリアを通して彼女は二つの会話を並行して進行させていく。恋人のジェリンドに、自分の本来のひととなりはヴィラネッラを演じることで引き出されると話しながら、同時に、詩人から欲しいものを勝ち取るためなら、当てつけがましく威張り散らす歌手にもなれることを見せつける。つまり、ヴィラネッラへと見事に変貌を遂げる様子を披露しながら、自分は優れた歌手だから大事にするべきだと詩人を説得するのである。和田悠花は爽々とした瑞々しい歌唱で、この全てを超える表現を果たし、その様子はあたかもこの相対する人間性をからかうようですらあり、物語の語り口として場面を魅惑的に盛り上げながら、いつも観客のために演じているようで秀抜であった。これがアンコールの時代であれば、間違いなく何度も繰り返し求められたに違いない。

新国立劇場の『悩める劇場支配人』は機知に富んだ快活な喜劇として上演されたが、このオペラは、どうしたら資金的にオペラを上演可能にできるのかという、いつの世でも痛切な問題に焦点を当て、華麗さを削ぎ落とした実存的な演出を施しても成立する。多くの観客にとって、初めてとなり、極めて楽しめる、完璧なまでに上質な、歴史的に重要で、コロナ禍後の芸術経済と深く結びつくオペラを探している企画制作者には、是非とも、当作品がもたらす豊かな可能性を吟味してみることを勧めたい。

デイヴィッド・チャンドラー



▼「Opera」誌期間限定無料公開中、こちらからご覧ください。(オペラ研修所修了公演『悩める劇場支配人』はp.602-605に掲載)

キャスト

出 演
新国立劇場オペラ研修所 第21期生、第22期生、第23期生

【フィオルディスピーナ】

 井口侑奏(5日・7日)/原田奈於(6日)


【メルリーナ】 

 和田悠花(5日・7日)/河田まりか(6日)


【ドラルバ】         

 杉山沙織(5日・7日)/内山歌寿美(6日)

【ドン・ペリツォニオ】         

 仲田尋一5日・7日)/程 音聡(6日)

【ドン・クリソーボロ】        
 井上大聞5日・7日)/湯浅貴斗(6日)

【ジェリンド】     

 増田貴寛(5日・7日)/鳥尾匠海(6日)


【ストラビーニオ】         

 森 翔梧5日・7日)/大久保惇史(6日)


『悩める劇場支配人』舞台写真


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左より〈ドン・クリソーボロ井上大聞ドラルバ杉山沙織メルリーナ和田悠花
ジェリンド増田貴寛




 

srMAI_5208.jpg左より〈ドン・ペリツォニオ仲田尋一、〈フィオルディスピーナ〉井口侑奏、〈ドン・クリソーボロ〉井上大聞
ジェリンド増田貴寛メルリーナ和田悠花



 

srMAI_5304.jpg左より〈ドン・ペリツォニオ仲田尋一〈フィオルディスピーナ〉井口侑奏ストラビーニオ森 翔梧
ドラルバ杉山沙織メルリーナ和田悠花



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後列中央〈ドン・クリソーボロ井上大聞

前列左よりジェリンド増田貴寛メルリーナ和田悠花ドラルバ杉山沙織
ストラビーニオ森 翔梧、〈フィオルディスピーナ井口侑奏、〈ドン・ペリツォニオ仲田尋一



 撮影:平田真璃

キャスト・プロフィール(3/5,7出演)

  • 井口 侑奏(ソプラノ)Iguchi Yukana

    愛知県立芸術大学卒業、同大学院を首席で修了。第65回全日本学生音楽コンクール声楽部門大学の部全国大会入選。徳島音楽コンクールグランプリファイナル審査員特別賞受賞。

    オペラには、マスネ作曲《サンドリヨン》妖精・ノエミ、モーツァルト作曲《コジ・ファン・トゥッテ》フィオルディリージ・デスピーナ、モーツァルト作曲《魔笛》童子Ⅰ・II、ドニゼッティ作曲《ランメルモールのルチア》タイトルロール役などで出演。

    オペラ研修所では、『カプレーティ家とモンテッキ家』ジュリエッタ役、W.A.モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』ツェルリーナ役、『イオランタ』イオランタ役で出演。

    ANAスカラシップにより、昨年度ミラノ・スカラ座アカデミーにて研修。



    • 井上 大聞(バリトン)Inoue Tamon

      京都府出身。京都市立京都堀川音楽高校63期卒業。東京藝術大学音楽学部声楽専攻卒業、卒業時に同声会賞を受賞し、同声会新人演奏会に出演。同大学院音楽研究科声楽専攻修了。大学院在学中に、2017年度モーニング・コンサート第10回に出演。

      京都芸術祭音楽部門に於いて、第29回では京都芸術祭市長賞を、第30回では新人賞及び聴衆賞を受賞。

      杉並区民オペラ第13回公演"道化師"にシルヴィオ役として出演。

      これまでに小木谷好美、寺谷千枝子、甲斐栄次郎の各氏に師事。

      ANAスカラシップにより、昨年度ミラノ・スカラ座アカデミーにて研修。

      2020/2021シーズン新国立劇場オペラ『イオランタ』ロベルト役で本公演デビューし高い評価を得た

  • 仲田 尋一(バリトン)Nakata Hirohito

    大阪音楽大学大学院 声楽研究室・オペラ系修了。大学卒業時に優秀賞を受賞。在学時に《フィガロの結婚》アルマヴィーヴァ伯爵役、《コジ・ファン・トゥッテ》グリエルモ役、《ドン・ジョヴァンニ》ドン・ジョヴァンニ役、《魔笛》パパゲーノ役、弁者役、《ホフマン物語》ルーテル役、《サンドリヨン》パンドルフ役、《メリー・ウィドー》ダニロ役、ツェータ役、サンブリウォッシュ役、《天国と地獄》ジュピテル役で出演。在学中に江原啓之プロデュース《ジャンニ・スキッキ》グッチョ役でデビュー後、《第九》ソリストとしても活躍。

    晴雅彦氏に師事。

    オペラ研修所では、『ロメオとジュリエット』パリス役、グレゴーリオ役、『カプレーティ家とモンテッキ家』カペッリオ役、W.A.モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』レポレッロ役、『イオランタ』エブン=ハキヤ役で出演。

    ANAスカラシップにより、昨年度ミラノ・スカラ座アカデミーにて研修。


  • 増田 貴寛(テノール)Masuda Takahiro

    宮崎県出身。鹿児島国際大学短期大学部(現国際文化学部音楽学科)卒業、同専攻科修了、洗足学園音楽大学大学院修了。大学院修了時グランプリ賞受賞。第58回南日本音楽コンクールグランプリ賞、第23回松方ホール音楽賞、第79回読売新人演奏会出演。これまでに「魔笛」タミーノ、「フィガロの結婚」ドン・クルツィオ、「愛の妙薬」ネモリーノ、「こうもり」アイゼンシュタイン(日本語上演)、「ヘンゼルとグレーテル」魔女等を演じる。また、ベートーヴェン「交響曲第9番」テノールソロ、J.S.バッハ「マタイ受難曲」福音史家等も務めた。

    これまでに永田教子、U・ハイルマン、N・R・ジョルダーノの各氏に師事。

    オペラ研修所では、『ロメオとジュリエット』ロメオ役、W.A.モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』ドン・オッターヴィオ役、『イオランタ』ボデモン役で出演。ANAスカラシップにより、昨年度ミラノ・スカラ座アカデミーにて研修。

  • 和田 悠花(ソプラノ)Wada Yuka

    大阪府立夕陽丘高校音楽科を経て、京都市立芸術大学卒業、同大学院を修了。卒業時、音楽学部賞、京都音楽協会賞受賞。修了時、大学院賞受賞。

    平成26年度青山財団奨学生。フォーレ「レクイエム」、ベートーヴェン「第九」にソリストとして出演。第65回、第67回全日本学生音楽コンクール大阪大会入選。第52回なにわ芸術祭新人賞。第1回豊中音楽コンクール第2位、市民聴衆賞。オペラでは「ラ・ボエーム」ミミ等に出演。

    これまでに田中友輝子、上野洋子、田中勉の各氏に師事。

    オペラ研修所では、『カプレーティ家とモンテッキ家』ジュリエッタ役、W.A.モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』ドンナ・アンナ役、『イオランタ』イオランタ役で出演。
    ANAスカラシップにより、昨年度ミラノ・スカラ座アカデミーにて研修。