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【インタビュー】『ヴォツェック』タイトルロール トーマス・ヨハネス・マイヤー

ヴォツェック役 トーマス・ヨハネス・マイヤー

『ヴォツェック』オペラの2025/2026シーズン、注目の新制作は、大野和士オペラ芸術監督の指揮、英国出身の名演出家リチャード・ジョーンズの演出でお贈りする『ヴォツェック』。

貧困、妻の不倫......追いつめられて精神のバランスを崩し破滅する兵士ヴォツェックを演じるのは、トーマス・ヨハネス・マイヤーだ。

オペラパレスで2021年『ニュルンベルクのマイスタージンガー』ハンス・ザックス、2025年『フィレンツェの悲劇』シモーネなどを歌った世界的バリトンが新国立劇場にデビューしたのは2009年の『ヴォツェック』タイトルロールであり、彼にとってヴォツェックは「大好きな役」だという。

そんな『ヴォツェック』について、大いに語る。

クラブ・ジ・アトレ誌9月号より

ヴォツェックは最もエモーショナルで挑戦的な役


―2月のツェムリンスキー『フィレンツェの悲劇』シモーネ役に続いて、11月は、ベルク『ヴォツェック』のタイトルロールで再び新国立劇場の舞台に出演されます。ヴォツェックは、マイヤーさんにとって重要なレパートリーだと思いますが、初めてこの役を演じたのはいつですか? そしてこれまで何回歌っていますか?


マイヤー 初めて歌ったのは、1999年か2000年です。北ドイツのメクレンブルク州の州都シュヴェリーンで、小さいけれど、とても美しい劇場でした。その後、ミラノ・スカラ座、ハンブルク、ミュンヘンなどいろいろな劇場で歌いました。これまでに歌った回数ははっきりと数えてはいませんが、バーゼルの劇場ではなんと20回以上の公演がありましたので、それを合わせて75回か80回くらいかと。プロダクションとしては、今回の新国立劇場で8回目の『ヴォツェック』となります。


『ヴォツェック』2009年公演より©三枝近志
『フィレンツェの悲劇』2025年公演より©堀田力丸

―原作はゲオルク・ビューヒナーの『ヴォイツェック』。実際に起きた事件をもとに作られた劇作品で、ベルクは1914年にウィーン初演を観てすぐにオペラ化を思い立ち、台本に着手しました。このオペラは「貧困がもたらす暴力」あるいは「構造的暴力」(本人の努力では抜け出せないような差別や貧困などの抑圧を社会的構造による間接的な暴力とする考え方)がテーマとなっています。ベルクを一瞬で虜にした強烈な主人公ヴォツェックをどのような人物と捉えていますか。この役を長く演じてきて、解釈や取り組み方に変化はありましたか。


マイヤー ヴォツェックは私の大好きな役ですが、「ニーベルングの指環」ヴォータンなど他の作品の役とは違います。オペラとしては長くない作品ですが、演出によって解釈がかなり違うので、その都度新しい経験をするのです。私にとっては最もエモーショナルで挑戦的な役です。社会から抑圧され、妻からは裏切られ、すべての面でネガティヴな経験ばかりの中に生きてきた、そのようなヴォツェックです。確かに、おっしゃるような「貧困がもたらす暴力」また「構造的暴力」がテーマですが、最後のシーンでヴォツェックは妻マリーを殺し、自分は水の中に入っていく、その時の音楽がフォルテで演奏されると、私は毎回大泣きしてしまいます。この役を一晩演じている間、解放される感覚は全くありません。常に抑圧され、心理的にも落ちこんでいくような大変危険な役とも言えますが、私はこういう役が好きなのです。

 私は子どもの頃、ビューヒナーの住んでいた町のすぐ近くで育ちました。オペラではなく演劇としてのこの原作をよく読んでいましたし、私には身近な作品でした。


―『ヴォツェック』は無調オペラを代表する作品ですが、すべてが無調ではなく調性をもつ部分も含まれますね。


マイヤー はい。『ルル』は完全に無調オペラですが、『ヴォツェック』は無調なのは2つのシーンだけですね。ひとつは完全に無調で、もうひとつはほぼ無調に近いと言えます。そのほかは、ハーモニーのある部分があったり、バロック音楽の書法、ラプソディや行進曲があったりするなど、音楽の形式が様々です。伝統的な形式と新しいものを結びつけているベルク独自の音楽ですね。


―歌唱においては、ワーグナー風の語りと歌の中間のようなシュプレヒゲザングが中心になりますが、シュプレヒシュティンメの手法も含まれます。ベルクが当時知り得たあらゆる手法を採り入れて書いたわけですが、歌手の立場からするとやはり難しいですか。


マイヤー 歌唱が難しいというのではなく、他のオペラとは違うということです。例えば先日歌った『フィレンツェの悲劇』のシモーネ役は歌う部分が長く、オーケストラがかなり大音量になるところも多くて大変です。一方ヴォツェックは、他のオペラの大きな役に比べると歌う部分はそれほど多くありません。しかしシーンごとの難しさ、そして「正しい音」に当てるように声を出す難しさがあります。演劇的な性格が強いので、美しく歌うのでなく、その性格を表現する歌い方「シュプレヒゲザング」を求められる箇所が多くあるのです。また、シェーンベルクが『月に憑かれたピエロ』で確立した「シュプレヒシュティンメ」、つまり音符の音程に一度声を当ててから、すぐにその音程から外れるように発声する歌い方が必要とされる箇所も二、三あります。ベルクの作品は役の性格を表現することが大切ですから、ヴォツェック役には美しい歌い方やレガートはほとんど皆無ですが、少しリリックな箇所が2箇所だけあります。それは自分の息子について話すところで、ヴォツェックの柔らかい内面が表に出て、貧困がもたらした彼の性格に同情を寄せずにはいられなくなる部分です。社会から抑圧された人間の悩みを表現して、その社会を批判する、それが原作者ビューヒナーのしたかったことだと思います。


初演100年 記念すべき年の上演に携われることはとても有意義


―今回の『ヴォツェック』に出演する歌手とこれまで共演したことはありますか?


マイヤー ジェニファー・デイヴィスさんとはよく一緒に歌っています。ちょうど先日、ベルリンで『アラベッラ』でご一緒したばかりで、ロンドンでは『ローエングリン』、ウィーンでは『フィデリオ』で共演しています。彼女は大変優れた歌手であるだけでなく演技も卓越しているので、『ヴォツェック』でまた共演できることがとても嬉しいです。大尉役のアーノルド・ベスイエンさんとはバイロイトでも一緒でしたし、素晴らしい歌手仲間ですから、今回も楽しみです。


―指揮は大野和士オペラ芸術監督です。


マイヤー 2021年の『ニュルンベルクのマイスタージンガー』では、大野さんのテンポが自分自身の感覚に合っていて、一緒に音楽ができて嬉しかったです。今回も、私の大好きな素晴らしいオペラでご一緒できるので、今からとても楽しみにしています。


―ビューヒナーの原作が書かれたのが約200年前で、ベルクのオペラはちょうど100年前の1925年に初演されました。今この作品を上演する意義など、どのようにお考えでしょうか。


マイヤー 記念すべき年の上演に関われるのは、とても有意義なことです。オペラの原作である『ヴォイツェック』は、ドイツ文学の中で最も重要な作品のひとつです。ビューヒナーは革命家で警察に追われる身でしたが、極限状態の現実を題材に、現代にも通じる、人の心を動かす作品を約200年前に書いたことに敬意を表します。原作は、一度読んだら決して忘れられない内容です。それをベルクがオペラにして100年前に初演したこの作品を、今年新国立劇場で歌い演じることは、私にとって大きな挑戦となることでしょう。


―マイヤーさんの公演を楽しみにしている日本のオペラファンに一言お願いします。


マイヤー 日本のファンの方々は、つい最近もベルリンに来てくださるなど、ヨーロッパのいろいろな劇場でお会いしますが、ヨーロッパの文化やオペラのことをよくご存じで、作品の理解も深く、ヨーロッパのお客様よりも良くお分かりではないかと感じることもあるほどです。きっと新国立劇場の『ヴォツェック』も、全公演を観に来てくださる方がいらっしゃることでしょう。日本のオペラファンの皆様にまたお会いできるのをとても楽しみにしています。


トーマス・ヨハネス・マイヤー Thomas Johannes MAYER
ドイツのバリトン。オランダ国立オペラ、モネ劇場、英国ロイヤルオペラ、ベルリン・ドイツ・オペラ、ベルリン州立歌劇場、ハンブルク州立歌劇場、ミラノ・スカラ座、バイエルン州立歌劇場、パリ・オペラ座、チューリヒ歌劇場、ウィーン国立歌劇場、バイロイト音楽祭、ザルツブルク音楽祭などに『影のない女』バラク、『サロメ』ヨハナーン、『アラベッラ』マンドリカ、『パルジファル』アムフォルタス、『ローエングリン』テルラムント、『ニーベルングの指環』ヴォータン/さすらい人など、シュトラウスとワーグナーを中心としたレパートリーで出演を重ねる。最近ではオランダ国立オペラ『ローエングリン』テルラムント、『マハゴニー市の興亡』モーゼス、バイロイト音楽祭『さまよえるオランダ人』オランダ人、テアトロ・レアル『トリスタンとイゾルデ』クルヴェナール、チューリヒ歌劇場『トスカ』スカルピアなどに出演。新国立劇場へは2009年『ヴォツェック』タイトルロールでデビューし、『アラベッラ』マンドリカ、『さまよえるオランダ人』タイトルロール、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』ハンス・ザックスに出演、本年2月には『フィレンツェの悲劇』シモーネに出演。


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