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『トリスタンとイゾルデ』―永遠の時間をもたらすワーグナーの音楽

クラブ・ジ・アトレ誌12月号より

文◎広瀬大介(音楽評論家)

 今年、2023年は、リヒャルト・ワーグナー(1813〜83)の作品を愛するものにとっては、はかり知れない喪失感を味わう年になってしまった。8月には指揮者の飯守泰次郎、そして9月にはテノール歌手のステファン・グールドが、たてつづけに亡くなった。言うまでもなく、飯守は14年から18年にかけて新国立劇場のオペラ芸術監督を務め、その就任祝いともいうべき14年の『パルジファル』の名演はいまだに語り草となっている。グールドがはじめて新国立劇場に登場したのは、06年の『フィデリオ』。それ以来、ほぼ毎年のようにワーグナー作品に出演し、とりわけ、飯守が指揮した「ニーベルングの指環」では、その4部作すべてにローゲ、ジークムント、ジークフリートとして出演し、聴き手に多大な感銘を与えた。今シーズン、『トリスタンとイゾルデ』によってあらたなワーグナー上演が積み重ねられるにあたり、この場を借りて、新国立劇場の、ひいては日本のワーグナー上演史に多大な貢献を果たしたこのふたりに、あらためて心からの哀悼を捧げたい。



ワーグナー渾身の恋愛劇



 ケルト伝説に淵源(えんげん)をたどることができるトリスタンの物語。ワーグナーが参照したのは中世に活躍したゴットフリート・フォン・シュトラースブルク(1170?〜1210?)の叙事詩だが、ここからアイルランドの王女イゾルデと、コーンウォールの王マルケの甥トリスタン、このふたりにひたすら焦点を合わせ、物語の本質だけを抽出したような、純度の高い台本を自身でしたためた。



 アイルランドとコーンウォールは、海を挟んでたがいにいがみ合う過去を持っていた。両国が戦った折、イゾルデは婚約者のモロルトをトリスタンに殺されるが、トリスタン自身も瀕死の重傷を負い、イゾルデのもとへと運ばれる。婚約者の仇を討つ好機が訪れたにもかかわらず、自身でもわからない衝動に突き動かされ、トリスタンの傷を治し、命を救って故国へと送り返す。このことを恩に着たトリスタンは、両国の平和と繁栄を願い、叔父マルケとイゾルデの婚姻を進めるが、イゾルデがトリスタンを助けたのは、まさにそのトリスタンに恋心を抱いたせいであり、よかれと思ったトリスタンの処置は、イゾルデにとっては裏切りにも等しい行為となってしまう。



 ここまでが物語が始まるまでの前史。従って、第1幕の幕が上がると、トリスタンとイゾルデのふたりは、互いにこの世ではかなえられぬ互いへの恋情を抱えながら、気持ちとは裏腹な言葉のやりとりを続けることになる。この世でかなえられぬ想いなら、あの世でかなえるしかない(本作ではこの世=昼、あの世=夜、という、ショーペンハウアー的世界観に染め抜かれた言葉で言い換えられる)。



 イゾルデはトリスタンに毒薬を差し出すが、自分とのために死んでくれとは言えず、「これまでの裏切りの罪を雪(そそ)ぐため」というあたりも もどかしい。だが、その薬は、侍女ブランゲーネによって、愛の薬に差し替えられていた。だが、これは本当に愛の薬だったのだろうか。魔術が実在の重みを持っていた中世ならば、たしかにそういうこともあっただろう。だが、ここでふたりが飲むものは、なんでもよかったはず。愛の薬である必要はなく、なんなら水でもよかった。ふたりはもうすでに、幕が上がる前から、自分でも気がつかぬ間に、互いのことを愛していたのだから。



 相手を想う尽きせぬ憧れの心理的情景は、ワーグナーがすでに第1幕前奏曲の音楽で描き尽くしている。チェロとオーボエが互いに絡み合い、音楽的頂点へと徐々に駆け上ろうとするが、主和音で完全に解決することはない(つまりふたりの愛は満たされることがない)。この世で達成することのない愛の在り方が、冒頭数分の音楽で十全に描き尽くされている。



 この音楽は、第1幕で「毒薬」を煽ったあとにも再現される。この場面がどの程度の時間的経過をともなったものなのか、聴き手には判然としない。一瞬のようにも思えるし、とてつもない時間が過ぎ去ったようにも思える。オペラにおいて、このように時間感覚を麻痺させ、永遠の時間を感じさせることこそ、ワーグナーの意図ではなかったか。正味1時間を超える第2幕の愛の二重唱、そしてトリスタンの断末魔を描く第3幕もまた充分な長さであり、同様の意図を持ったものではあろうが、物語に没入してしまえば、あっというまに過ぎ去ってしまうことだろう。



 そして、結局はあの世でしか完結しなかったふたりの愛は、イゾルデが最後に歌う「愛の死」によって、穏やかにはじまり、やがて宇宙を包み込むほどの大きさへと膨れあがる。ワーグナー渾身の恋愛劇は、後世に大きな影響を及ぼし、音楽の歴史そのものの流れをも変えるほどの力を持つにいたる。



13年ぶりの再演への期待



2010年公演より©三枝近志


 2010年12月〜11年1月にかけて新国立劇場で上演されたワーグナー『トリスタンとイゾルデ』において、ステファン・グールドは表題役を歌い、この長大な作品の魅力を余すことなく伝えてくれた。今回、その時のデイヴィッド・マクヴィカー演出によって、来年3月に本作が再演される。グールドが日本と、日本の聴き手に遺してくれたワーグナーの伝統を受け継ぐ上演として、大きな意味を持つことになるだろう。



 マクヴィカーはこの演出でも、ほの暗い舞台の美しさを際立たせつつも、いつもの流儀で、登場人物をしっかり動かして「演技」を施すことに大きな精力を注ぐ。舞台装置だけを見るならば、むしろ伝統的、慣習的情景が描かれているだけに過ぎないのでは、と思うほど。だが、登場人物の精神状態を歌詞・言葉で説明し尽くそうとするワーグナーの物語性に対して、演技でも、仕草でも、それに大きな説得力を与え、観客に伝わるように仕向けるのがマクヴィカーの真骨頂。とくに本作のような、ストーリー的な起伏の少ない作品であればなおのこと、その手法はさらなる輝きを増して観客の心に迫る。



 グールドの衣鉢を継ぐべく、コルンゴルト『死の都』やワーグナー『タンホイザー』で名唱を聴かせたトルステン・ケールがあらためて来日し、この演出に命を吹き込んでくれる。2010〜11年にもこのプロダクションを指揮した大野和士は、今回、芸術監督として再びこの大作に戻ってくる。若々しさを感じさせる音楽的解釈で多くの聴き手を魅了する現オペラ芸術監督が、13年の歳月を経て、そのさらなる深みを増したワーグナー解釈をどのように響かせるのか、尽きせぬ興味とともに見守りたい。



【お知らせ】

新国立劇場2023/2024シーズンオペラ『トリスタンとイゾルデ』公演におきまして、トリスタン役に出演を予定しておりましたトルステン・ケールは急病により出演できなくなりました。代わりまして、ゾルターン・ニャリが出演いたします。(2/19更新)



広瀬大介(ひろせ だいすけ)

青山学院大学教授。日本リヒャルト・シュトラウス協会常務理事・事務局長。著書に『オペラ対訳×分析ハンドブック シュトラウス/楽劇サロメ』『同 楽劇 エレクトラ』『リヒャルト・シュトラウス自画像としてのオペラ』(以上アルテスパブリッシング)、『もっときわめる! 1曲1冊シリーズ3 ワーグナー:《トリスタンとイゾルデ》』(音楽之友社)など。各種音楽媒体での評論活動のほか、NHKラジオへの出演、各種曲目解説の執筆、オペラ公演・映像の字幕を多数手がける。

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