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【コラム】オペラ『シモン・ボッカネグラ』を知る(後編)

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文:広瀬大介(音楽学、音楽評論)

生まれ変わった『シモン・ボッカネグラ』 その音楽の魅力



 晩年のジュゼッペ・ヴェルディが、アッリゴ・ボーイトの書く台本に、ピアーヴェをはじめとするどの台本作家にも見ることのできなかった、文学的な洗練の度合いを深めた、陰影の深い言葉の数々を見出すことになったのは、決して単なる偶然ではない。巷間言われるように、晩年のヴェルディ作品には、ワーグナーからの影響と言われる、レチタティーヴォとアリアの区別を排するような、音楽とドラマが一体となった、無限旋律的要素がたしかに顔を出す(もちろん、それらの中に、いわゆるアリア的な聴かせどころがなくなったわけではないことは、すぐに補っておかねばならないが)。それでも、そのヴェルディの手法からは、1871年にボローニャで接したと言われる《ローエングリン》の影響を見出さずにいることは難しい。ワーグナーの諸作とその理論を早くからイタリアに紹介し、そして世代が若く、新しいものに対して目が開かれていたボーイトであればこそ、ヴェルディが1850年代の後半から自身の創作に必要な要素としていた、登場人物の心理的陰影を描き尽くす言葉を提供することができたのだろう。それらはワーグナーの諸作にもすでに含まれていたものではあるが、ボーイトはそれらを、よりヴェルディの音楽様式に合わせた、コンパクトなかたちで書くことができたのである。



ボーイト
アッリゴ・ボーイト


 ヴェルディが冒頭の前奏曲を完全に異なったものに書き換えた、という事実は実に興味深い。シモンの栄光、シモンの恋人マリアの死、父と娘の再会、群衆の騒乱、という、作品そのものの内容を追いかけるもともとの前奏曲をヴェルディは完全に捨て去り、その代わりに、リグリアの蒼い海を静かに見つめながら、シモンがみずからの苦悩に静かに耐えるかのような音楽に差し替えた。これひとつを取っても、初演から四半世紀を経て、真の巨匠となった作曲家が、本当に語るべき言葉を手に入れたという自負の念が透けて見える。



 プロローグにおけるシモンとフィエスコの二重唱は、歌唱についてはほとんど変更がなく、その伴奏部分に手が入れられた。単なるリズムの刻みだけだった伴奏は、遙かに雄弁な音楽へと変貌している。ヴェルディにおける男性低声の二重唱といえば、《ドン・カルロ》におけるフィリッポ二世と宗教裁判長の場面におけるそれが圧倒的存在感を放っているが、それに匹敵する場面は初稿の段階でできあがってはいた。だが、この《ドン・カルロ》の作曲を経て、オーケストラの迫力を増す書法を手に入れたことで、歌唱もまた、真に迫った、登場人物の葛藤を描く劇的な音楽へと生まれ変わったのである。オーケストラの改訂だけで、ここまで聴き手に対する印象を変えることのできた他の実例を挙げるのは難しい。

ボーイト
『ドン・カルロ』新国立劇場2021年公演より フィリッポ二世と宗教裁判長


 改訂稿における最大の変更点、そして最大の聴きどころとなったのは、第1幕のフィナーレである。この場面は、初稿においては総督の就任25周年を祝う合唱とバレエに始まり、ガブリエーレによる総督への告発、アメーリアが物語る誘拐の顛末、正しい裁きを求める合唱のフィナーレ(ストレッタ)、という、19世紀前半のオペラ形式を踏襲した構造を有しており、ピアーヴェがそれにふさわしい台本を書いていた。



 だが、ボーイトは、この部分に手を入れ、シモンの発言もより知的な印象を与えるものへと置き換えている。改訂稿は、貴族への反乱を企てる民衆(そしてそれを唆したガブリエーレ)との対話による前半、アメーリアの告発を中心とするアンサンブル・フィナーレ的要素に彩られた後半、というかたちに大別できよう。とくに民衆の暴動を描く前半の音楽によって、この場面は《オテロ》第1幕冒頭の嵐の場面にも劣らぬ、緊迫感溢れる説得力を備えるに至った。パオロに対し、シモンが「アメーリアを掠(さら)った犯人を呪え」(つまり自分自身を呪え)と激しく迫る場面で積み重ねられる呪いのモティーフも、それ自体は《リゴレット》に見られた同様のアイディアから生まれたものではある。だが、ここぞというところで共通するモティーフを執拗に鳴らし続け、それを減七和音で彩る手法は、後期ヴェルディの面目躍如だろう(そもそもこの場面全体が、ありとあらゆる減七和音の集積でできていると言っても過言ではない)。



 こうした改訂に接すると、従来のナンバーオペラ的要素を濃厚に残している第2幕が見劣り、聴き劣りしてしまうのではないか、という余計な心配をしてしまいがちである。だが、この幕をほぼそのまま残したのは、冒頭のパオロとフィエスコの緊迫感溢れる二重唱(ここも《ドン・カルロ》的)もさることながら、かつての緩→急、カヴァティーナ→カバレッタ形式ではなく、その逆、急→緩で並べられた、本作唯一の純然たるガブリエーレのアリアに観られるように、1850年代における自身の大きな冒険が、四半世紀を経た後もその素晴らしさを失っていない、と判断した故だろう。シモンがアメーリアの父親であることを知ったガブリエーレの驚きもまた、ドラマ的な緊張感を高めるのに役立っている。



 そして第3幕。最後の四重唱、シモンがついに落命し、その冥福を祈る合唱と、静かなオーケストラの後奏。苛酷な運命を生き抜いた男の挽歌として、空虚五度がまさに「虚しく」響くこの幕切れこそ、興奮よりは同情を、勝利よりは祈りを求める音楽となった。この場面は初稿からほぼ変わっていない。聴衆が求めるものではなく、作曲者たる自分がふさわしいと感じるものをもたらした、心に染み入る幕切れであろう。《アイーダ》でも、そして《オテロ》でも、このような静かな幕切れをもたらしたヴェルディの音楽的充実は、まさにこの作品の成功によってもたらされたものであった。




【コラム】『シモン・ボッカネグラ』を知る(前編)はこちら

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